細井日達の悪臨終=突然死+真っ黒だった!
日蓮正宗の最高権威は、「時の貫首」と言われています。簡単にいえば、宗門のトップですね。
ところが、この「最高権威」、そして「宗門のトップ」であった第66世・細井日達が、昭和54年7月22日、なんと突然死して真っ黒になっていたことが、宗門関係者の証言から明らかとなりました。
つまり、「時の貫首」でありながら、堕地獄の相を現じて死んだのです。
日蓮大聖人は、教行証御書に「一切は現証には如かず。・・・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」と仰せられています。
これ「時の貫首」の立場にありながら、池田大作にへつらい、国立戒壇の御遺命を捨てて偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇と偽称した大罰にほかなりません。
ついに出てきた!宗門僧侶の決定的な告白
しかし、つまらないプライドだけ高く、道念のカケラもない職業坊主たちは、この40年間、必死になって細井日達の悪臨終を隠してきました。もし「宗門のトップ」が真っ黒になって死んだことが信者たちにバレたら、いったい誰が宗門で信心しようなんて思うでしょうか?
「猊下様なのに、あんなに真っ黒になって急死しちゃうなんて・・・。絶対おかしいよ!やっぱり、顕正会が言ってるみたいに、大聖人の御遺命に背いちゃダメなんだよ。国立戒壇が正しいんだ。だって、『正本堂』の話が出てくる前は、宗門も学会も、みんな国立戒壇の建立をめざしていたんだもの!」という声が、あちこちから聞こえてきそうです。
そして、ついに本年、これまでひた隠しにされてきた「細井日達の悪臨終」を決定づける宗門僧侶の重大証言が出てきました。
そこで、今回の記事では、迷える法華講員たちを救うために、「細井日達の悪臨終」=無間地獄を決定づける重大証言の数々を見ていきたいと思います。
宗門末寺「弾正寺」の住職(当時)・梶原慈文の告白
まず宗門僧侶の告白から見てみましょう。ズバリ、千葉県市川市にある宗門末寺「弾正寺」の住職だった梶原慈文の話です。
これは、男子部70隊の竹内総支隊長補が、美上肇さんという61歳の元法華講員から聞いた話です。美上さんは、祖父母がかつて宗門末寺であった保田妙本寺に所属していた関係で、16歳のときに法華講に入信し、千葉県市川市にある宗門末寺「弾正寺」に在籍していたそうです。
美上さんは、当時「弾正寺」の住職であった梶原慈文から可愛がられており、細井日達が急死した昭和54年、21歳だった美上さんは、弾正寺で行われた忘年会で料理運び等の手伝いをしていたそうです。
その席で、梶原慈文住職が、同年7月に執り行われた細井日達の密葬に参列した時の様子を語ったのです。その忘年会には、あえて学会員は呼ばず、30名ほどの法華講幹部だけを集めていたそうです。
梶原慈文住職は、「この話はここだけの話にして、学会員にも誰にも漏らさないで下さい」と口止めをした後、なんと「日達上人の相は真っ黒で『助けてくれ!』と叫んでいるような、悪相、悪臨終だった」、「葬儀に参列した僧侶はみんな見ている。あの真っ黒な悪相を」と、驚くべき事実を明かしたのです。
おそらく梶原慈文住職には一分の信心があったのでしょう。彼は、こうも語ったそうです。
「妙信講の浅井さんの言うことを聞かないで、池田の言いなりになったから臨終が悪かったんだ」と。
詳しくは、顕正新聞「御遺命守護」特集号4(令和元年8月5日号)をご覧下さい。
「大白法」に掲載された佐々木秀明住職の証言
次に、かつて細井日達に近い立場にあった「佐々木秀明」という僧侶の証言を見てみましょう。
彼は昭和24年、8歳のときに出家し、後に第64世・日昇上人の弟子となった宗門僧侶です。かつて細井日達と活動家僧侶(後の正信会)のパイプ役を務め、活動家僧侶が行動を起こす際、細井日達に伺いを立てていたほどの立場だったようです。何より葬儀の際には取り仕切りのような立場で、細井日達の棺桶を担いでいた様子が当時の記録に残っています。
その佐々木秀明が、細井日達の密葬に参列して目にしたその悪臨終について、周囲の者たちに語った内容が、なんと法華講の機関紙「大白法」平成5年8月1日号に掲載されているのです!
それは、「あんな死に方をして、もう真っ黒になって、あんなのは地獄行きですよ。間違いない」というものです。いやはや、決定的ですね。
言うまでもありませんが、これは顕正会が後から言っている話ではありません。法華講の機関紙「大白法」に掲載されているのです。
詳しくは、顕正新聞「立正安国」特集号(令和元年7月5日号)をご覧下さい。
正信会住職の証言
「もう、これ以上はコリゴリ・・・」と思われる法華講員の方がいるかもしれませんが、あと1つ。正信会住職の証言を見てみましょう。
これは、ある正信会の住職が、父親の宗門僧侶から聞いた話です。この父親は、細井日達が火葬された後に行われた昭和54年8月の本通夜に参列しました。その際、本山の宿坊に宿泊したとき、7月22日の仮通夜・密葬に参列した細井日達の直弟子や複数の僧侶たちから、恐ろしい話を聞いたのです。
当時は、もっぱら細井日達の悪相の話題で持ち切りだったそうです。いわく、「そのときの臨終の相があまりにもひどかった。そして臭いが酷かった」、「顔がパンパンに腫れ上がっていた」、「遺体の痛みがひどかった」と。
そこで、弟子たちが消臭スプレーのようなものを振りまき、線香を焚いて臭いを消そうとしていたそうです。
また、仮通夜・密葬に参列した僧侶たちには、細井日達の臨終の相などについて、「他言してはならない」との箝口令(かんこうれい)まで出ていたそうです。なんとも生々しいですね。
こちらも、詳しくは、顕正新聞「立正安国」特集号(令和元年7月5日号)をご覧下さい。
ぜんぶ破折し尽くされている宗門のウソ(笑)
いかがでしょうか。これが「細井日達の悪臨終」の真相だったのです。まことに仏法の因果の厳しさに慄然とせざるを得ません。
これからも、細井日達の悪臨終の証言は、宗門関係者から次々と出てくるでしょう。なぜなら、細井日達の臨終の相は、本当に真っ黒だったからです。
いま宗門は、それこそ死に物狂いで、細井日達の悪臨終をゴマかそうとしています。そこで、いろんなウソを流しています。
でも、それらのウソは、残念ながら、もうぜんぶ破折し尽くされています。どれも〝お粗末〟だから、簡単に破折できちゃうんですよね(笑)
詳しくは、こちらの記事をご覧ください。
ところで、「「細井日達の悪臨終」をゴマかす宗門の欺瞞を破す(2)」を書いたとき、最後にこう記しておきました。
ちなみに、大白法記事と慧妙記事に共通しているのは、どちらも細井日達の臨終の相が「白かったか、黒かったか」について一切触れず、ただ「素晴らしい相だった」などの主観的・抽象的な表現に終始していることです。
さすがに黒かったものを「白かった」とは書けなかったのでしょう。
そうすると、次に宗門がどんな記事を出してくるかが大いに見物です。
おそらく「私も臨終の相を見た!」という僧侶などの証言をたくさん出してくると思われますが(もうそれ以外に方法がないからです)、もしこの期に及んでもなお、「白かった」と書くことができなかった場合、それはとりもなおさず、「ドス黒かった」という内藤班長の証言を否定できないということ、つまり、細井日達の相が「黒かった」ことを自白しているに等しいといえます。
すると、「なんということでしょう!」。このあと、本当に「慧妙」が、「『私も臨終の相を見た!』という僧侶などの証言」をたくさん載せた号を出したというのです。
・・・なんというか、本当にわかりやすいアタマの構造の人たちですね(笑)
しかも、先輩から聞いたところによると、どうやらその「後出し」の証言でさえ、細井日達の臨終の相が「白かった」とは一人も言っていないというのです。顕正会員からここまで臨終の相の「白・黒」を追及されているにもかかわらず、です。
さすがの坊主たちも、黒かったものを「白かった」とは言えなかったのでしょう。細井日達の相が「黒かった」ことを、事実上、認めてしまったのです。
細井日達の悪臨終が意味するもの
さて、もはや決定的となった細井日達の悪臨終。これはいったい何を意味するのでしょうか?
それは、たとえ時の貫首であっても、大聖人一期の御遺命に背き、真の懺悔がなければ、堕地獄の相を現ずるということです。
大聖人と「唯仏与仏」の御境界であられる日興上人が誡め給うていわく、「時の貫首為りと雖も、仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と。絶対なのは御本仏・日蓮大聖人の御金言であり、時の貫首ではないのです。
初代講頭先生の成仏の妙相
最後に、比べるのも恐れ多いことですが、妙信講の初代講頭・浅井甚兵衞先生の素晴らしい臨終の相について、あえて一言、述べさせて頂きます。
基礎教学書には、次のように記されています。
私事にわたるが、私の父(妙信講初代講頭)は昭和五十九年四月、八十歳で亡くなった。信心強盛の父の臨終はみごとであった。臨終正念に、死後の相は色白く、半口半眼にして柔かく、御金言のままであった。その三年前に亡くなった母もまた素晴らしい相であった。
―御金言は絶対であった。私は父母と別れた悲しさよりも、大聖人の大慈大悲、成仏の有難さに感泣したこと、今でも憶えている。
基礎教学書・第4章
いかがでしょうか。細井日達の悪臨終とは、まさに天地雲泥です。
学会・宗門が一体となって国立戒壇を否定し、正本堂を御遺命の戒壇と偽称する中、浅井先生・初代講頭先生だけが「正本堂は御遺命の戒壇にあらず」、「大聖人の御遺命は国立戒壇なり」と叫ばれ、御遺命守護の戦いに立ち上がられました。
その結果は、はたしてどうだったでしょうか。
時の貫首・細井日達は真っ黒な堕地獄の相で急死し、解散処分を受けた妙信講の初代講頭先生は色白き成仏の妙相で穏やかな臨終を遂げられたのです。そして、学会・宗門が「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」等と讃嘆した偽戒壇・正本堂は、この地上から跡形もなく消滅してしまいました。
「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。御本仏・大聖人の御眼から見て、どちらが正しかったか、どちらが大聖人の御心に叶いまいらせたかは、誰の目にも明らかです。
ここに大聖人の厳たる御裁断は明らかとなりました。
今こそ宗門は、御遺命破壊の大罪を深く懺悔し、阿部日顕・大草一男という2人の大謗法者を宗門追放して、国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません。