顕正会と宗門の紙上法論、ついに決着!教学委員が宗門坊主を完全論破しました!(3)

 「顕正会の勝利・宗門僧俗の敗北」で幕を閉じた紙上法論、その内容を紹介する記事もいよいよ最終回です。

 じつは法論の内容は前回までで尽きているので、今回は、法論によってあらわになった宗門の無道心ぶりを見てみたいと思います。

「広宣流布」を信じられない宗門僧俗

 まず「広宣流布」についてみてみましょう。

 顕正会では、大聖人の御金言や歴代上人の御指南に従い、広宣流布とは、日本一同が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る時としています。

 もちろん、これは日本の広宣流布についてであり、世界の広宣流布のときには、世界中の人々がみな一同に南無妙法蓮華経と唱え奉ることはもちろんです。

 このことは、当然に宗門(日蓮正宗)も同じと思っていたら、どうやら彼らはこの点についても教義を改変してしまったようです。

 関快道や「慧妙」によると、「全国民が入信するのは理の上の法相でしかなく、入信しない者は処罰あるいは処刑といった強権を発動する以外、謗法者が一人もいない世界は実現しない」そうです。いやはや、全く信心がないんですね。

 大聖人は日本の広宣流布について、次のように仰せられています。

剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)

 また、第26世・日寛上人も、次のように御指南下されています。

終には上一人より下万民に至るまで、一同に他事を捨てて皆南無妙法蓮華経と唱うべし。順縁広布、何ぞ須く之を疑うべけんや。時を待つべきのみ」(撰時抄文段)

 これらの御金言や御指南に照らせば、関や「慧妙」が構える「全国民が入信するのは理の上の法相でしかなく、入信しない者は処罰あるいは処刑といった強権を発動する以外、謗法者が一人もいない世界は実現しない」との邪義が、いかにデタラメであるかは一目瞭然です。

 菅原教学員は、これらの邪義につき、「いくら信心がないからといって、大聖人様の大願であり、『大地を的とする』と御断言あそばす広宣流布を〝謗法者たちが残存する状態〟などと曲会し、貶めるのはやめよ」と痛烈に破折しています。

浅井先生のご指導を切り文+歪曲

 また、「慧妙」は、浅井先生が著された「立正安国論謹講」を切り文し、あたかも浅井先生が広宣流布実現のための手段として断命を肯定しているかのようにたばかった上で、菅原教学委員に対し、「弁護士たる者が、〝謗法者を根絶するためには断命も止むなし〟とする浅井昭衞の主張を黙認し、擁護(ようご)してよいのか。頭を冷やして考えてみよ」などと書いているようです。

 これも、かなり悪質なたばかりですね。私も「立正安国論謹講」を何度も拝読していますが、浅井先生は「謗法者を根絶するためには断命も止むなし」なんて全く書いておられません。

 菅原教学委員によると、このたばかりは、「悪意の切り文をした上で、文章の順序を入れ替えて文意を歪曲」したもののようです。いやはや、なんとも悪質ですね。

 こういった揚げ足取りをしなければならないほど、彼らが追い詰められているということなんでしょう。

 ちなみに、慧妙が切り文した「立正安国論謹講」の記述は、次の部分のようです(下線は筆者)。

 ただし大聖人の御振舞いを拝するに、この立正安国論を以って第一回の諌暁がなされたのち、良観等の謗法の法師は、自非を悔いるどころか、かえって主師親の三徳たる大聖人を国主に讒言して殺害せしめんとした。このように謗法が極重になり、その罪禍により国まさに亡びんとするに至れば、謗法退治もまた徹底せねば国は持たない。よって大聖人は文永八年の第二回目の諌暁の時、平左衛門に向って〝良観等の頸を刎ねよ〟と強諌し給うたのである。されば撰時抄にいわく

 「・・・念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」と。

 国主はすでに末法下種の御本仏を殺害せんとしたのである。この大罪を償い国を救うには、徹底せる懺悔がなければならない。この徹底せる懺悔を促し給うた御意が、まさに〝頸を刎ねよ〟の強言であられることを、深く拝すべきである。

「立正安国論謹講」

 いかがでしょうか。このご指導をもって、どうして浅井先生が「謗法者を根絶するためには断命も止むなし」と主張していることになるのでしょうか。ちょっと読解力が無さすぎますね(笑)

 菅原教学委員も指摘されているように、このご指導は、立正安国論に引用された涅槃経の「断命」についての講義のくだりであり、本来、謗法者に対する「断命」が許されるのは釈尊以前であり、釈尊以後は「止施」であるはずのところ、なぜ、大聖人が〝良観等の頸を刎ねよ〟と強諌し給うたのかについて、懇切なる会通を加えられたものです。

 具体的にいえば、大聖人が「良観等の頸を刎ねよ」と仰せられたのは、国主に対し、本当に良観たちの頸を刎ねさせようとしたのではなく、「徹底せる懺悔を促し給うた御意」であられたのだと会通されているのです。

 つまり、浅井先生が、広宣流布の手段として、「謗法者を根絶するためには断命も止むなし」などと主張したものでは全くありません。

 こうしたことは、ふつうに読めば誰でもわかると思うのですが、こういうたばかりをちょっと書いておけば無智な法華講員たちは簡単にダマせる、「そうか、浅井会長は断命を肯定しているんだ!」と思わせることができる、とでも踏んで書いたのでしょうか。法華講員たちも、ずいぶんと見下されたものです。

顕正会の勝利、宗門僧俗の敗北

 このように、くだらないペテンを弄するのも、ひとえに法論敗北をゴマかすためといえるでしょう。なんとも見苦しい連中ですね。

 いずれにしても、ここに「慧妙」令和2年2月1日号に掲載された関快道の痴文に端を発する今般の法論が、「顕正会の勝利・宗門僧俗の敗北」という形で完全決着したのです。