「細井日達の悪臨終」をゴマかす宗門の欺瞞を破す(2)

「細井日達の悪臨終」をゴマかし続ける宗門

先日、法華講の人たちが盛んに新聞を配っていました。

開いてみると、「おやおや・・・」。またしても細井日達の悪臨終についての反論記事を掲載しているではないですか。

しかし、まあ、本当に懲りないですよね・・・。

細井日達の悪臨終については、少し前に「大白法」という法華講機関紙に掲載された「日達上人御臨終の相へのでっち上げ」という反論記事に対し、「細井日達の悪臨終」をゴマかす宗門の欺瞞を破すという記事で破折していますので、興味のある方はご覧ください。

「細井日達の悪臨終」をゴマかす宗門の欺瞞を破す
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さて、今回の新聞は何かというと、「慧妙」(平成30年12月16日号)というものでした。

その1面に、「法華講大講頭 理境坊妙観講々頭 大草一男」の「許さぬ!第六十六世日達上人への誹毀讒謗 妄想・虚言を流布する浅井らを摧く」という記事が掲載されています。

なにやら胡散臭いタイトルですね。

「・・・を摧(くじ)く」とか、読んでいるこちらが恥ずかしくなります(笑)

それはさておき、さっそく中身を読んでみたところ、やはり「おやおや・・・」という感じでした。

結局、前回の大白法記事と、あまり変わらないようです。

なので、「わざわざ破折記事を書くまでもないかな?」という気がしなくもありません。

実際、私をはじめ多くの顕正会員は、この新聞を見せられたとしても、「だって大草じゃんw」と軽くあしらってしまうでしょう(笑)

とはいえ、せっかく新聞を手に入れたので、ごく簡単に破折してみたいと思います。

目新しい部分

慧妙記事の全体的な構成や内容は、大白法記事とだいたい同じです。

あえて言うなら、意図的かどうかは知りませんが、浅井先生に対する下らない誹謗中傷がちょくちょく出てくるために、文章の流れが悪くなっている点が異なるでしょうか。

そこで、これら駄文のぜい肉をそぎ落とし、「細井日達の悪臨終」についての記述に絞ってみると、結局、今回の記事で目新しい内容は、次の2つだけのようです。

① 山崎正友の手記

② 「妙観」創刊号(昭和54年8月10日号)の寄稿文

しかし、これらはいずれも内藤班長のお母さんの証言を何ら覆すものではありません。

順番に見てきましょう。

山崎正友の手記について

まず慧妙記事は、細井日達が急死したときの状況について、「御臨終の模様を述べた当時の唯一の記事」として、山崎正友の手記を引用しています。

その内容は、「何の苦しみもなく、瞬時の大往生であった」というものです。

この記述をもって、「日達上人の臨終は酷くなかったんだ!」と言いたいのでしょう。

そこで、まずはこの手記の出典を調べてみました。

どうやら「週刊文春」の昭和55年11月20日号に掲載されているようです。

私の先輩がその記事(「創価学会〝闇の帝王〟山崎正友弁護士の手記」)を持っていたので見せてもらいました。

手記にはこう書いてありました。

病室では二人の医師が、額から汗をしたたらせて、絶望的な胸部マッサージを三時間近くも続けていた

すべてが終わったことは明白だった。

H博士の丹念な診察のあと、二人の医師の三時間にわたるマッサージの努力に敬意を表して、御遷化の時間は五時半とされたが、正しくは午前二時前、それも、何の苦しみもなく瞬時のうちの大往生であられた

いかがでしょうか。

手記によれば、細井日達が急死したのは昭和53年7月22日の午前2時前ですが、山崎正友はその瞬間に立ち会っていなかったようです。

医師が3時間近く心臓マッサージをしているところに慌てて駆け付けたのです。

ですから、「何の苦しみもなく瞬時のうちの大往生であられた」といっても、山崎は細井日達が急死した瞬間の様子を知る立場にないのです

つまり、「何の苦しみもなく」という部分は、山崎の「想像」ということです。

また、「大往生」という部分も、単に「死亡した」というのと変わりません。

要するに、手記の記述からわかるのは、「細井日達が急死した」という事実だけなのです。

むしろ、この手記には、もっと重大な事実が記されていました。

それは、細井日達が急死した後、なんと医師から2人がかりで3時間近くも心臓マッサージを受け続けていたということです。

たとえ生前であっても、2人がかりの心臓マッサージを3時間も受け続けたら、その苦痛は想像を絶します。

激しい痛みに悶絶し、顔は歪み、阿鼻叫喚するであろうことは想像に難くありません。

まして、より痛みに敏感になるといわれる臨終後に、このような絶望的な心臓マッサージを3時間近くも受け続けたとしたら、まさに地獄のような大苦を味わうこと必定ですこれが細井日達の臨終の姿だったのです

ちなみに、山崎正友は、当時、「法華講大講頭」の立場にありました。

奇しくも、大草と同じ立場だったわけです。

後に「正信会」に移り、阿部日顕と対立した時期もあったようですが、「正信会」は細井日達を尊崇する団体ですから、日達の臨終について悪く書く理由がありません

つまり、3時間に及ぶ心臓マッサージは真実なのです。

ところが大草は、この「心臓マッサージ」について、一切触れていません。

常識的に考えて、心臓疾患による突然の急死後、3時間近くにわたって強烈な心臓マッサージを受け続けた人間の臨終の相(顔)が、良いはずがないからです。

「妙観」創刊号の寄稿文について

次に慧妙記事は、「妙観」という妙観講機関紙の創刊号(昭和54年8月10日号)に大草が寄せたという一文を挙げて、細井日達の相につき「素晴らしい妙相であられたのである」などと書いています。

これは、「日達上人の臨終直後に書いた寄稿文に『素晴らしい相だった』と書いているから、実際に素晴らしい相だったのだ」と言いたいのでしょう。

ところがこの「妙観」創刊号、どこを探しても見つかりません。

あの国立国会図書館(最近ではオンラインで検索ができます)にも無いようですから、かなりのツワモノです。

ですから、そもそも「妙観」創刊号にそのような寄稿文があったのかさえ不明と言わざるを得ません。

また、もしそのような寄稿文があったとして(あげて)も、およそ信用できる代物ではありません。

なぜなら、「妙観」とは、細井日達の阿闍梨号であるところ、その阿闍梨号を名称とする機関紙の「創刊号」なのですから、まさか「いやー、なんかドス黒くなっていたんだよね・・・」などと書けるはずがないからです。

つまり、「妙観」という機関紙の「創刊号」である都合上、実際はどれほど悪い臨終の相だったとしても、正直に「黒かったです」と書いてあることはおよそ期待できないということです。

むしろ、最大限の脚色をしてでも「良い相だった」と讃嘆するような文章を書くであろうことが容易に推測されます。

では、その寄稿文とはどのようなものだったのでしょうか。

慧妙記事によると、次のとおりです。

二十四日、御密葬での御出棺の際、日達上人に、今生での最後のお別れをいたしました。猊下の御尊顔は、むしろ御生前よりもふっくらとし、頬(ほお)に赤みすらさして、半口半眼、神々(こうごう)しいまでのお姿で、眠っておいてのようでありました

みなさん、お気づきでしょうか。

実はこの文章には、「一番大事なこと」が書かれていないのです。

それは、日達の臨終の相が「白かったか、黒かったか」ということです。

大聖人は、成仏か堕獄かについて、臨終の相の白・黒をもって判じておられます。

ゆえに千日尼御前御返事には、「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭(やわらか)なる事兜羅綿の如し」と明確に仰せられています。

ところが、この寄稿文では、細井日達の相が「白かったか、黒かったか」について、一切触れていないのです。

要するに、精一杯の脚色をしても、さすがに黒かった相について「白かった」とは書けなかったということでしょう。いやはや、惨めですね(笑)

そうすると、もしこの寄稿文が実在する(ことにしてあげた)としても、内藤班長のお母さん(内藤みどりさん)の証言を何ら覆せないことになります。

なぜなら、内藤みどりさんは、葬儀に参列した際に見た細井日達の相について、「ドス黒かった」と証言しているところ、「妙観」創刊号の寄稿文は、この事実について一切触れていないからです。

深く懺悔せよ

いかがだったでしょうか。

結局、慧妙記事が新たに出してきた内容も、内藤班長のお母さんの証言を何ら覆すものではないことがおわかり頂けたと思います。

あとは、せいぜい大草自身が「私も葬儀に参列した!素晴らしい相だった!」と書いている程度ですが、「だって大草じゃんww」で終わりです。何の裏付けもありません。

一方、内藤みどりさんの証言は、たいへん重いものです。

「細井日達の縁戚」の母の素性が凄すぎる!という記事でも書きましたが、彼女は、細井日達の縁戚で、法華講総講頭の柳沢喜惣次の元・義姉で、しかも大石寺の宿坊に夫婦ともども働いていた方ですから、細井日達の葬儀に参列していて当然です。

その内藤みどりさんが、息子である内藤班長に対し、自分が見た日達の臨終の相について、「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だった」と語ったのです。

彼女に嘘をつく理由は全くありません。内藤班長の証言は真実なのです。

何より細井日達は、大聖人の御遺命を破壊するという大罪を犯しています。

具体的には、池田大作にへつらい、偽戒壇・正本堂を指して、

此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華201号)

正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(昭和47年4月28日訓諭)

訓諭及び説法以外に私の真意はない「国立というのは本宗の教義ではない」(大日蓮昭和50年9月号)

などと、御遺命に背く言辞を弄しました。

このように、貫首の立場でありながら、大聖人一期の御遺命を破壊した以上、「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(顕立正意抄)の御金言どおり、臨終に「ドス黒い」堕獄の相を現じないわけがありません。

まさに大聖人の御金言、仏法の道理に照らしても、内藤班長の証言が真実であることは明らかです。

これこそ私たち仏弟子にとって最も確実な「裏付け」といえるでしょう。

ちなみに、大白法記事と慧妙記事に共通しているのは、どちらも細井日達の臨終の相が「白かったか、黒かったか」について一切触れず、ただ「素晴らしい相だった」などの主観的・抽象的な表現に終始していることです。

さすがに黒かったものを「白かった」とは書けなかったのでしょう

そうすると、次に宗門がどんな記事を出してくるかが大いに見物です。

おそらく「私も臨終の相を見た!」という僧侶などの証言をたくさん出してくると思われますが(もうそれ以外に方法がないからです)、もしこの期に及んでもなお、「白かった」と書くことができなかった場合、それはとりもなおさず、「ドス黒かった」という内藤班長の証言を否定できないということ、つまり、細井日達の相が「黒かった」ことを自白しているに等しいといえます。

いずれにしても、かかる大聖人の厳たる御裁断が明らかとなった以上、宗門はこれを真摯に受け止め、今こそ御遺命破壊の大罪を深く懺悔し、国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません。

また、大草は慧妙記事において、浅井先生に対する下らない誹謗中傷を並べたうえで、「かかる輩(やから)が、自らの分も弁(わきま)えず、日蓮大聖人に連なる御歴代上人を虚言をもって口汚く謗(そし)るのだから、堕在無間は必定と言うべきである」などと書いています。

しかし、私に言わせれば、かかる稚拙な文章しか書けないような御遺命違背の輩が、自らの分も弁えず、ただ御一人御遺命を守り奉る浅井先生をかりそめにも謗るは、まさに言語道断、「身の程知らず」にもほどがあります。「堕在無間は必定」というほかありません。

最後に、彼自身が書いた言葉をそのままお返しすることにしましょう。

大草一男よ、遠からず訪れる自らの臨終を、真剣に恐れよ。

続く>>

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