顕正新聞の第1面に・・・
顕正新聞令和元年7月25日号を見て驚きました。なんと第1面に、浅井先生の講義が掲載されているではないですか!
タイトルはズバリ、「日興上人『原殿御返事』拝読」
いやはや、なんとも有難いですね!
早瀬日如管長に「決断」を促されたものと拝します
さて、この講義、大見出しは「身延離山の大精神深く心腑に染めよ」「大聖人の御遺命を重しとして御決断」となっています。
これをみると、顕正会員なら、思わず浅井先生の「御遺命守護の戦い」が脳裏に浮かぶのではないでしょうか。(詳しくは、こちらをご覧ください)
先生は、大聖人の御遺命を重しとして、学会・宗門が偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇と讃嘆する中、ただお一人、御遺命守護の戦いにお立ちになり、ついにご覚悟のごとく死罪に等しい解散処分を受けました。
この先生の大聖人に対し奉る大忠誠のお姿が、日興上人の「御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候」とのお言葉と、思わず重なるのです。
ところが、この講義、よくよく拝読すると、最後にこう締めくくられているのです。
「いまこそ宗門は、日興上人の身延離山の大精神を心腑に染め、御在世の信心に立ち還らねばならない。さもなければ国が亡びる。残された時間は少ない」と。
ここまで拝読して、ニブイ私もやっと気がつきました(笑)
この講義は、宗門に対して、なかんずく、「時の貫首」である早瀬日如管長に対して「決断」を促されたものなのだと。
このことは、7月度総幹部会における浅井先生のご指導を併せ拝すると、よくよくわかりますね。
日興上人が忘れ給わなかった大聖人の「本意」=国立戒壇建立の御遺命
講義の内容はたいへん有難く、中でも私が感激したのは、日興上人が夢寐にも忘れ給わなかった大聖人の「本意」とは何か、ということでした。
実は、今回の講義には、「原殿御返事」の「通釈」がついています。
そして、「日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候」の御文について、次のように通釈されているのです。
「ここに日興一人、大聖人の正義を知り本懐を遂げ奉るべき人に相当っていれば、その本意たる国立戒壇建立の御遺命を忘れることは無い」と。
いかがでしょうか。私も今まで基礎教学書で何度も拝読してきたはずなのに、うかつにもぜんぜん気がつきませんでした。
日興上人が夢寐にも忘れ給わなかった、「遂げ奉るべき」大聖人の「本懐」「本意」とは、御遺命の本門戒壇建立以外にはありません。つまり、「本意」とは、国立戒壇建立の御遺命を意味していたのです。なんと有難いことでしょうか。
このことがわかってくると、大聖人の「本意」たる国立戒壇を捨て、偽戒壇・正本堂を「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」などと池田大作に諂い、はしゃいでいた宗門が、大聖人・日興上人の御心に背く師敵対であること、一方、国立戒壇建立の御遺命をただ一人堅持された浅井先生ひきいる顕正会だけが、御心のままの「冨士大石寺門流の正統」であることは、誰の目にも明らかです。
御遺命の正義に立ち還らなければなりません
7月度総幹部会において浅井先生は、早瀬日如管長に対し、重大なご発言をされました。
戒壇の大御本尊の敵である山崎正友と結託した阿部日顕・大草一男という2人の大謗法者を宗門から追放して、貫首上人みずから「日蓮大聖人の唯一の御遺命は国立戒壇建立である」と宣示すれば、御遺命の正義は一時に正系門家に蘇ると。
宗門の御遺命破壊のたばかりも、いよいよクライマックスですね。御遺命の正義が蘇る日も近いと思えば、ワクワクする歓喜がこみ上げます。
今こそ宗門は御遺命違背の大罪を深く改悔し、国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません。