「浅井昭衞先生追悼号3」が出来しました
顕正新聞11月15日号が「浅井昭衞先生追悼号3」として出来しました。
10月28日に厳粛に奉修された浅井先生の「追悼大法会」の様子が、たくさんの写真とともに報じられています。
追悼大法会の様子
この日、顕正会を代表する総班長・支隊長以上の代表幹部三千数百名が全国から馳せ参じました。
浅井先生が10月16日に安詳として御逝去されてより、全顕正会員が深い悲しみに包まれる中、21日の告別式で御金言に寸分も違わない先生の美事な成仏の妙相を拝見した幹部の詠嘆は、瞬く間に全顕正会に伝わりました。かくて、一人ひとりの悲嘆は感涙と確信に変わり、浅井先生の弟子になり得た有難さと報恩の赤誠が満ちる中、追悼大法会を迎えました。
本部会館の礼拝室の御宝前には浅井先生の御遺骨が安置され、その前後に御遺影と御位牌、両脇に青々としたお樒が設えられました。
午前10時、真心の唱題が本部会館・青年会館をゆるがす中、浅井城衞理事長が恭しく出仕。直ちに勤行が開始されました。
寿量品に入り、はじめに浅井理事長が焼香され、次いで御遺族、理事・総務・本部幹事、そして隊長・区長・支区部長以上の幹部が焼香を行いました。
その後、寿量品の「欲重宣此義・而説偈言」でリンが打たれ、弔辞に。行成公一郎副理事長、湯浅悦子理事、高屋敷久美子理事、坪田敏理事の4人が相次いで立ち、浅井先生への深い哀惜の念と報じ難い大恩をかみしめつつ、熱涙の中に報謝の想いを述べました。その至誠の弔辞は全参列者の胸を打ち、場内にすすり泣きの声が洩れました。
最後に浅井理事長がご挨拶をされました。理事長は、命尽くまで大聖人様への大忠誠を貫かれた浅井先生の尊き御生涯を偲ばれたのち、報恩抄の一節を引かれ、「私たちが御遺命成就に戦うその功徳のすべては浅井先生の御身に集まること疑いなく、それこそが最大の御報恩であると心するものである」と、師恩報謝の思いを述べられました。
先生のご遺志を一身に承けられた理事長の、衷心からの一語一語は、全員の命に深く刻まれ、満場の嗚咽の中、理事長のもと全幹部が一結しました。
その後、全参列者が総起立し、会歌「遺命重し」を斉唱しました。
「雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの
遺命おもし
いのち尽くまで」と。
10月16日以降、全員が日々に深めた報恩と堅き誓いは、滂沱たる涙とともに荘重・厳粛な響きとなり、霊山の浅井先生の御許に届けられました。
最後に浅井理事長の唱導によりお題目を三唱。引き続き、総班長・支隊長以上の参列者の焼香が行われました。
かくて午後0時26分、浅井昭衞先生 追悼大法会の一切が終了しました。
一般焼香
10月28日の午後1時から29日、30日の3日間にわたり、第1・第2・第3青年会館で一般焼香が行われました。
大恩ある浅井先生に哀悼の誠を捧げんと、全国から数万人が粛々と参列。本部会館に通ずる道という道には長蛇の列ができ、本部周辺は粛然として清浄な空気に包まれました。
参列者の一心に先生の御霊前に焼香・合掌し、身命を惜しまぬ御奉公を涙の中に決意する姿こそ、浅井先生が築き上げられた仏弟子の大集団・顕正会の異体同心を象徴するものでした。
私も28日に参列させて頂きましたが、浅井先生を偲んで全国から大勢の顕正会員が続々と馳せ参ずる姿を目の当たりにしては、浅井先生の恩徳がいかに大きく深いものであられたかを強く感じ、胸がいっぱいになりました。
この追悼大法会こそ、全顕正会員が浅井理事長のもと、大聖人様そして浅井先生に御遺命成就を誓い奉る、まさに歴史的な一大儀式だったのです。
最後に、追悼大法会における浅井理事長のご挨拶を掲載させて頂きます(顕正新聞令和5年11月15日「浅井昭衞先生追悼号3」より)。
「花は根にかへり、真味(このみ)は土にとゞまる」 私たちの功徳はすべて先生の御身に集まる 御遺命成就に死力尽くし報恩とせん
本日は、冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の御恩徳を報ずるため、全国より総班長・支隊長以上の代表幹部三千数百名が相集い、ここ本部会館において、追悼の大法会を謹んで奉修させて頂きました。
大忠誠だけで貫かれた御生涯
先日、発刊された顕正新聞「浅井昭衞先生追悼号」に先生の御略歴が掲載されておりますが、大聖人様への大忠誠だけで貫かれた、あまりにも尊く偉大なその御生涯を拝しては、いったい誰人が真似などできようかと、ただ畏敬の念が込み上げてまいります。
広布前夜に至り、第六天の魔王その身に入りし池田大作が「時の貫首」を籠絡し、正系門家から御本仏一期の御遺命を破壊せんとする未曾有の大悪が起きたとき、かかる先生が正系門家におられ、唯お一人、一身を賭して御遺命を死守されたご雄姿を拝見するほどに、先生こそ大聖人様が召し出された御方と思わずにはいられません。
妙信講発足
妙信講発足以前に所属していた末寺住職の道念なき姿に意を決せられ、昭和三十二年、当時二十五歳の先生は前途多難をご覚悟のうえで、濁れる安易を捨てて妙信講を発足し、広宣流布の道を歩みだされました。
御遺命守護
そして第六天の魔王その身に入る池田大作が政治野心のために国立戒壇を否定、偽戒壇・正本堂の大誑惑を構え、正系門家からまさに御遺命が消滅せんとしたとき、先生は身命を賭して敢然と諫暁に立たれたのであります。
昭和四十五年より開始された、その連々たる諫暁は、戦時中の軍部のごとく驕った八百万学会を大きく揺さぶり、絶対権威の時の貫首の「訓諭」までも訂正せしめたのでした。
さらに正本堂落成直前の学会首脳との七回にわたる激烈極まる法論において、先生はたったお一人で学会を屈服、聖教新聞紙上で誑惑を訂正せしめ、正本堂落成時の御遺命達成の宣言をギリギリのところで阻止されたのであります。
しかし、悪事露見を恐れた池田大作は細井日達管長をして顕正会を解散処分に付せしめましたが、このとき、その宣告書を手にされた先生は
「大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」
と思され、
「御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」
の大精神で、広布最終段階の信行にして「忠誠の証」たる遥拝勤行を確立され、御本仏の仏勅に応え奉らんと死身弘法を展開されました。
本門寺改称の陰謀を粉砕
その後、誑惑の完結たる「本門寺改称」の陰謀に気づかれた先生は、それを粉砕するご決意を表明され、平成二年四月には「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題した諫暁書を認められ、同年七月には横浜アリーナ大総会で本門寺改称陰謀粉砕の捨身のご覚悟を師子吼されました。
「まさに是くの如く受持し擁護すべし」とて、有徳王・覚徳比丘の故事にならい、身を捨てて陰謀粉砕の御奉公に立たれた先生の捨身不退のご決意は阿部日顕の肺腑を抉り、ついに本門寺改称の陰謀は潰え去ったのでした。
正本堂崩壊
それを機に学会・宗門の間に「修羅と悪竜の合戦」そのままの凄絶なる大抗争が起こり、執拗なまでにスキャンダルを暴かれた阿部日顕の池田大作に対する瞋恚により正本堂は撤去され、ついに地上からその醜い姿を消し去ったのであります。
まさに、大聖人様が先生をして立たしめ、諸天をして正本堂を打ち壊し給うた凡慮を絶する不思議と、拝するのほかはありません。
大扉開かず
しかし、偽戒壇・正本堂なき後も御遺命の国立戒壇を異常なまでに怨嫉する阿部日顕に対し、先生は重ねて公開対決を申し入れられ、完全逃避した阿部日顕に「最後に申すべき事」で止どめを刺されました。
その三月後に起きた「大扉開かず」の大現証に畏怖を感じた阿部日顕は、その後、自ら退座したのであります。
広布の決戦場
そして正系門家の腐敗堕落により日本の亡国が迫る中、先生は「20年代こそ広布の決戦場」と思い定められ、三者各部の大会を皮切りに、全国の地方大会を順次開催され、満を持してその準備を整えられました。
かくて20年代に突入して
「日本国の大疫病と、大飢渇と、どしうちと、他国より責めらるゝは総罰なり」
とて、一国に「総罰」がいよいよ現われる中、先生は日本を動かす三百万を急ぐ大前進を展開され、その死身弘法は実に二四五万に達しました。
峻厳極まる大忠誠
まさに先生の大河のごとき戦いを具に拝見するに、そこには私心などは微塵もなく、また先生は誰に頼ることも、相談することも、励まされることもなく、ただお一人で大聖人様の御心を拝し奉られ、その御命令に殉ぜんと、いかなる大魔障をも降し、学会・宗門の悪辣きわまる謀略も、公権力による不当な弾圧も撥ねのけ、一筋に峻厳きわまる大忠誠を貫き通され、御遺命成就に命尽くまで戦われたのであります。
「命尽くるとも」
かつて先生は日目上人が最後の天奏に赴かれた際のご心境を
「もしこれをなさねば大聖人様に申しわけない。たとえ途上、命尽くることがあろうとも、そのときは弟子に申状を奏上せしめん」
と拝察されましたが、これこそ先生のお心そのものと伏して拝するものであります。
毎年の暮れに
昭和四十年代半ばから登山を妨害されて今に五十有余年、一年の御奉公を終えられた先生は、必ず年の暮れに大石寺のそば近くに赴かれ、戒壇の大御本尊を遥拝しておられました。
私も三十年以上その御供をさせて頂きましたが、寒風吹きすさぶ中、防寒着も召されず凍てつく大地に坐して戒壇の大御本尊を遥拝されるそのお姿には、孤高の忠誠を痛いほど感じ、涙が滴るばかりでした。
御金言どおりの成仏の妙相
先生の御逝去は弟子たる私たちにとって言葉にならぬほどの悲嘆でありますが、その中、何より有難かったことは、先生の御金言どおりのまことに素晴らしき成仏の妙相でした。
先生は御臨終に当って一切の苦痛なく、色白く、身体も柔らかで、しかも軽く、何より時間を経るごとに唇が紅をさしたような深紅になり、いまにも起きてきそうな柔和なそのご表情には、理屈ぬきの歓喜と確信が衝き上げてきました。
この誰人も否定できない「眼前の証拠」を拝見した瞬間、この上ない哀惜の念は、御本尊様の有難さと御遺命成就への熱鉄の決意に変わり、先生が私たち弟子に自らの臨終の証拠を以て揺るぎない大確信を与えて下さったものと、感涙がこぼれました。
広布の一大生命体
いま私は、先生が手塩にかけて築き上げられた顕正会の並々ならぬ強靭さを痛切に感じております。
深い悲しみの中にも、幹部から未活動者にいたる全顕正会員が先生のご遺志を継ぎ、大確信で奮い立つ姿をみては、すべては先生が立たしめて下さったのだと、ひれ伏す思いであります。
先生は、弘安二年の熱原の大法難のとき、上野殿が賜った異体同心事を引かれ
「顕正会はまもなく三百万になり、一千万になり、一億にもなる。しかし全員が、ただ御一人の大聖人様に南無し奉るゆえに、一つの生命体である。これが異体同心である」
と指導下さいました。
大聖人様への大忠誠を貫かれた先生の金剛のごとき絶対信、やみがたい広布の大道心に異体同心した顕正会こそ、広宣流布の一大生命体であり、かかる先生のご遺志が力強く脈打つ地涌の菩薩の大集団が、亡国せまるこの日本に、濁乱きわまる正系門家に存在していることこそ、大聖人様の厳たる御意志と拝するものであります。
先生から授けて頂いたすべてを力に
これまで私たちは、先生から仏法・世法ともにあらゆることを教えて頂きました。
御本仏・日蓮大聖人の御遺命の大事、大聖人様の絶大威徳と大慈大悲、大聖人様の御意に適う信行、亡国の根本原因、日寛上人の御指南をもとにした御書の深意、人生の目的が成仏にあること、仏勅を承けて立つ顕正会の正しさと重大使命、あらゆる問題について仏法の眼を以て判じられる卓抜のご見識――
そして何より、先生の命尽くまでの激闘に伴う数々の不思議を通して、学会・宗門のごとき「顛倒の衆生」には「雖近而不見」で逆立ちしてもわからない、御本仏の「常住此説法」すなわち常に此に住して法を説かれる御姿を、如実に拝させて頂きました。
あとは私たち弟子が、先生から授けて頂いたすべてを力に換え、一結して立つとき、必ずや御遺命成就の重大な御奉公をなし得るものと大確信いたします。
「花は根にかへり…」
かつて先生は報恩抄の
「されば花は根にかへり、真味(このみ)は土にとゞまる。此の功徳は、故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」
との一節を引かれ
「いま私たちは、広布の前夜に生まれて、国立戒壇の御遺命を守り奉ってその達成に体をぶつけ御奉公申し上げている。この功徳こそ、亡き父母に、先祖に、回わり向けられるのである」
と指導下さいました。
これを以て思うに、私たちが……御遺命成就に戦うその功徳のすべては浅井先生の御身に集まること疑いなく、それこそが最大のご報恩と心いたします。
御遺命成就に死力を尽くさん
されば、私たち弟子一同は、「前代未聞の大闘諍」「他国侵逼」迫る世相を常に凝視してその前進を急がれた先生のご遺志を継ぎ、三百万そして御遺命成就に死力を尽くし、霊山から温かくお見守り下さる浅井先生にお応えする戦いをなすのみであります。
まずは、その誓いの偽りなき証を、この最終法戦に誓願三万を遥かに突破する空前の大折伏に顕わし、以て先生へのご報恩とさせて頂こうではありませんか。
最後に、顕正会の幹部一同には、浅井先生のご恩を報ぜんと、みなが赤誠を尽くして下さったこと、心から感謝いたします。
以上を以て、ご挨拶とさせて頂きます。(大拍手)