創価学会の「未曾有の邪教化」が極まりました

「六百万学会員を救わん」特集号4が出来

 冨士大石寺顕正会の2月度総幹部会を特集した顕正新聞が出来しました。その名も「六百万学会員を救わん」特集号4

 ご講演において浅井会長は、創価学会が池田大作の死亡公表と同時に発刊した「創価学会教学要綱」なる書籍において、あろうことか日蓮大聖人を「凡夫」視し、さらに「僧宝」を「日興上人」から「創価学会」に改変したこと等を教えて下さいましたが、まさに「創価学会、『未曾有の邪教化』極まれり」との大見出しそのままの醜態に愕然としました。

 しかし、この大悪こそ広宣流布の大瑞であると会長より伺っては、「いよいよ広宣流布は近い!」「今こそ六百万学会員が救われる時!」との大確信が衝き上げました。

 それでは、さっそく内容を見ていきましょう。

「常に此に在って滅せず」

 ご講演の冒頭、浅井会長は、「私自身、いま胸に迫るは、浅井先生の学会の『未曾有の邪教化』に対する御憤り、そして六百万学会員を救わんとのお心である」として、浅井先生の学会員に対する深き御心を教えて下さいました。

 なぜ浅井先生は、学会員を救わんとの御慈愛を懐かれたのか。それは、一切衆生を救わんとあそばす大聖人様が、池田大作の道連れになって無間地獄で呻吟する学会員をいかに不憫と思し召されるか、その御悲しみ、御憤りを浅井先生が如実に拝し奉っておられたゆえ――と。

 まさに「大聖人ここにましませば何を命じ給うか」を常に拝して戦ってこられた浅井先生の大忠誠から発する御慈愛であったことをお聞きしては、有難さでいっぱいとなりました。

 ことに今回、会長より、浅井先生が生きておわする日蓮大聖人に仕え奉るごとくであられ、「常在此不滅」(常に此に在って滅せず)を如実に拝しておられた御姿を教えて頂いては、感無量となりました。

 先生は、総幹部会をはじめ地方大会や御入仏式を終えてご自宅に戻られると、必ず持仏堂において大聖人様に報告なさっていたこと。また、諫暁書や建白書などを認められた際にも、直ちに御宝前に供え奉っておられたことをお聞きしては、なんと尊い御姿であられるかと胸がいっぱいになりました。

 このように、大聖人様「常に此に在って滅せず」を如実に拝される先生ゆえに、平成26年に池田大作一党が「本門戒壇の大御本尊」を全学会員に捨てさせ奉る「極限の大謗法」を犯すをごらんになるや、「この大謗法を見て、責めない者は仏弟子ではない、大聖人の弟子ではない」との御心で、直ちに「学会員を救う特集号」を発刊され、学会員を救う戦いを起こされたのです。

 そこに浅井会長は、「かかる先生が、現在の学会のおぞましき実態をごらんになったら『この未曾有の邪教化を見て、責めない者は仏弟子ではない、大聖人の弟子ではない』と仰せられるに違いない」と拝され、いま六百万学会員を救う戦いを敢然と起こしておられることを教えて下さいましたが、どこまでも先生のお心を見つめて立たれる会長の師弟相対の御姿に畏敬の念でいっぱいになりました。

「本門戒壇の大御本尊」こそ本懐中の本懐

 次いで浅井会長は、池田大作一党が「御本尊はどれも同じ」などと謀って戒壇の大御本尊を捨てさせんとする極限の大謗法を、浅井先生のご指導を引いて徹底粉砕されました。

 すなわち、大聖人様が顕わされた御本尊には、①文永・建治年間の御本尊と弘安年間の御本尊に違いがあり、さらに、②弘安年間の御本尊の中でも、弘安2年の「本門戒壇の大御本尊」こそ究竟の中の究竟、本懐の中の本懐であることを、浅井先生は深秘の御法門を以て明快に指導下さいました。

 まず文永・建治年間の御本尊と弘安年間の御本尊には、大きな相異があります。それは、文永・建治年間の御本尊は、仏勅使・上行菩薩のお立場で御図顕されたのに対し、弘安年間の御本尊は、久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏の御立場で御図顕されている、という相異です。

 このことについて日寛上人は、観心本尊抄文段に次のように御指南下されています。

 「問う、文永・建治の御本尊に御本懐を究尽するや。答う、文永・建治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。此れに相伝あり。或いはなお文上を帯するか

 「問う、弘安の御本尊に御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり」と。

 文永・建治年間の御本尊は、文底下種の御本尊ではあるけれども、なお文上を帯びる未究竟の御本尊であるのに対し、弘安年間の御本尊こそ、御本懐が究め尽くされた最終究極の御本尊である――と。なんと甚深の御指南でしょうか。

 さらに浅井先生は、日寛上人が「此れに相伝あり」とだけ述べて略された部分を拝推し奉られ、甚深の指導を下さいました。それは「日蓮」という御名および御判形の位置と、御判形の相貌の相異です。

 文永・建治年間の御本尊においては、「日蓮」の御名も御判形も、中央の「南無妙法蓮華経」から離れて、脇にお認めあそばされています。

 一方、弘安年間の御本尊は、中央の「南無妙法蓮華経」の直下に接続して「日蓮」の御名がましまし、「蓮」の字を覆って左右いっぱいに広がる大いなる判形がまします。

 この御相貌の変化を、人法体一・事の一念三千の深旨と併せ拝すれば、まさしく弘安年間の御本尊こそ、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の一身の御当体、終窮究竟の極説であられることを伏して拝する思いです。

 だからこそ、弘安年間の御本尊においては、大聖人様の実印を意味する最も大事な御判形の相貌が変貌されるのです。先生は「この御判形こそ、久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏の御判形である」と仰せられています。

 このように、「日蓮」の御名と御判形の位置および相貌をもって、仏勅使・上行菩薩の御立場(文上)から久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏の御立場(文底)への重大なる変化を拝し奉られる浅井先生の透徹の御見識には、ただひれ伏すばかりです。

 さらに日寛上人は、すでに究竟の極説である弘安年間の御本尊の中でも、弘安2年の「本門戒壇の大御本尊」こそ究竟の中の究竟、本懐の中の本懐であることを、次のように御指南下されています。

 「弘安元年已後、究竟の極説なり。就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」と。

 日蓮大聖人の究極の御遺命は本門戒壇の建立であるところ、その本門戒壇に安置し奉る「一閻浮提総与」の大御本尊こそ、「本門戒壇也」との重大なる金文がまします「本門戒壇の大御本尊」であられるゆえに、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐であられることを伏して拝しては、先生の「もしこの大御本尊を否定する者あれば、宗の内外を問わず、その者は御本仏に背くの逆賊、天魔その身に入るの大悪人である」との強烈なる呵責に胸のすく感動が込み上げました。

 浅井会長は、池田大作一党に対し、「これでも『御本尊はどれも同じ』などと言えるのか」と痛烈に喝破されるとともに、「これ、先生ならではの活釈であり、先生が大聖人様の御内証の深秘を如実に拝し奉られている証といえ、およそ今生のみのご勉学によるものに非ずと、恐れながら謹んで拝する」と仰せられましたが、なんと偉大な師匠に師事し得たのかと大感動に包まれました。

日蓮大聖人を「凡夫視」する無慚無愧

 また、池田大作一党は、今般の教学要綱において、恐れ多くも日蓮大聖人を「凡夫」扱いする大謗法を犯しました。

 教学要綱では、「大聖人は・・・『撰時抄』に『日蓮は凡夫なり』と述べ、『顕仏未来記』に『日蓮は名字の凡夫』と述べられるなど、自身が凡夫であることを強調されている」と記した上で、この文中の「凡夫」という言葉の注釈として、なんと「普通の人間。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者」などと説明しているのです。

 そして創価大学の名誉教授は、この教学要綱のくだりについて、「この視点は、日蓮の人間化とも評価できる」「日蓮も久遠元初仏の再誕とか、上行菩薩の再誕などと神秘化せず・・・」などと言っているそうです。

 なんという大謗法でしょうか!

 浅井会長は、日蓮大聖人が御自身のことを仰せあそばす「名字凡身」とは、学会がいう「普通の人間。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者」などという意味ではなく、名字凡身の御本仏の意であることを、「名字即」の二義、すなわち「聞名の名字」と「解了の名字」の相異を以て破折され、その違いを知りながら世間におもねて大聖人様を凡夫視して貶める池田大作一党の所行を「甚だしき催尊入卑、大謗法である」と痛烈に指弾されました。

「久遠元初の三宝」も改変

 さらに池田大作一党は、教学要綱において、「久遠元初の三宝」をも改変するに至りました。

 「久遠元初の三宝」とは、不世出の大学匠である第26世・日寛上人が御指南下されたもので、「仏宝」は日蓮大聖人、「法宝」は本門戒壇の大御本尊、「僧宝」は日興上人です。

 日寛上人は、「若しこの三宝の御力に非ずんば、極悪不善の我等 争か即身成仏を得ん。故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし」(当流行事抄)として、この三宝の御力によってはじめて末法の一切衆生は即身成仏を得ることができることを御指南下されています。

 これまでは創価学会も「久遠元初の三宝」は日寛上人の御指南をそのまま用いていました。

 ところが今般、池田大作一党は「創価学会の三宝」なるものを策定しました。その内容たるや、「仏宝」は日蓮大聖人、「法宝」は南無妙法蓮華経、そして「僧宝」はなんと「創価学会」としたのです。

 「仏宝」を日蓮大聖人のままにしているのは、建前上に過ぎません。すでに学会は大聖人様を凡夫視し、「釈尊」を前面に押し出す教義に改変しているからです。

 また本門戒壇の大御本尊を捨て奉った学会は、おのずと「法宝」を改変せざるを得なくなり、大事の法体をぼかし、単なる「南無妙法蓮華経」に変更しました。

 さらに最も重大な改変は、「僧宝」を「日興上人」から「創価学会」に改変したことです。

浅井会長は、「そもそも池田大作一党は、『仏宝』にてまします日蓮大聖人の一期の御遺命を破壊せんとした上に、大聖人様が久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏にてましますことをも否定し、さらには『法宝』にてまします本門戒壇の大御本尊を捨て奉った。かかる三大秘法破壊の創価学会が、なにゆえ『僧宝』となるのか」と鋭く破折されています。

 それにしても、なぜ池田大作一党は、「僧宝」を「日興上人」から「創価学会」に改変したのでしょうか。

 浅井会長はその邪な魂胆を見抜かれ、日興上人を「僧宝」にすると、「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す。本門寺に懸け奉るべし」(日興跡条々事)との大事の法体付嘱が出てきてしまうため、戒壇の大御本尊を学会員に捨てさせたい彼らにとっていかにも不都合だから――と喝破されました。

 「まさしくこれ第六天の魔王の所行であり、無慚の極みである」との会長の仰せに、深く頷くばかりです。

「大悪起これば大善きたる」

 いかがだったでしょうか。私自身、創価学会の信じられない邪教化ぶりを会長からお聞きしては、そのあまりの大悪に愕然としました。

 浅井会長は、この本質につき、「仏法の眼から見れば、仏法を破壊せんとする第六天の魔王の所為である」と仰せられるとともに、この「極限の大謗法」「未曾有の邪教化」という大悪こそ、いよいよ本門戒壇の大御本尊の御威徳、日蓮大聖人の大恩徳が一国に輝く大瑞であるとして、かく叫ばれました。

 大聖人様は大悪大善御書にこう仰せられている。

 「大事には小瑞なし、大悪起これば大善きたる。すでに大謗法国にあり、大正法必ずひろまるべし。各々なにをか嘆かせ給うべき」と。

 正系門家の極限の大謗法・師敵対という大悪が起これば大正法は必ず弘まり、前代未聞の大闘諍・他国侵逼が起これば、いよいよ事の広宣流布は近い。

 「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」(上野殿御返事)と。

 この大聖人様の重大なる順縁広布の御化導をお手伝い申し上げるのは、顕正会以外にはあるべくもない。

 広布前夜の「大悪」が起きた時に生まれ合わせた私たちは、「御遺命成就の大善いよいよ近し」の大確信で勇み立つべきである。

顕正新聞「六百万学会員を救わん」特集号4より

 私も「遥拝勤行と広告文で広宣流布は必ず成る」との浅井先生の仰せを胸に、広告文と特集号で多くの学会員を救い、広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!