「知恩報恩」特集号が出来しました
冨士大石寺顕正会の11月度総幹部会を特集した顕正新聞12月5日号が出来しました。その名も「知恩報恩」特集号!
浅井先生が御逝去された10月16日の後、はじめての総幹部会となった11月度総幹部会。9・10・11月で、なんと過去最高の3万8204名の大折伏がなされたとの報に、全顕正会員の先生に対するご報恩の思いはなんと凄まじいのかと圧倒されました。
また、この総幹部会で、浅井城衞理事長が正式に「会長」に就任され、新体制での前進が始まりました。まさに歴史に残る画期の総幹部会だったのです。
今回の記事では、総幹部会における浅井城衞会長のご指導を紹介していきたいと思います。
過去最高の大法弘通
冒頭、浅井会長は、全顕正会が打って一丸、全魂こめて戦い切った結果、顕正会始まって以来の、実に3万8204名もの空前の大折伏が敢行され、その成果を先生のご霊前に懇ろにご報告申し上げたことを教えて下さいました。
「『有難い。よくやった』とお喜び下さる先生の力強い御声が聞こえてくるようであった」とのお言葉には涙があふれ、「同時に、この法戦は、我ら弟子一同が、先生のご遺志を継いで御遺命成就に向けて戦いを開始した、その一歩を刻む、歴史的初陣でもあった」「ここに、その道が豁然と開かれた意義はまことに大きい」とお聞きしては、浅井会長のもと一糸乱れず戦い抜いた地涌の菩薩の大集団・顕正会の強靭さと重大使命に大感動を抑えられませんでした。
悲嘆の中に全顕正会員 奮い立つ
浅井会長は、先生の御逝去という深い悲しみの中にも、幹部はもとより未活動者に至る全顕正会員がご報恩の思いでかえって力強く奮い立つに至ったことに「心の底から不思議を感ずる」として、「すべては、大聖人様の格別の御守護であり、浅井先生が手を引いて下さっておられる」と述べられましたが、私もゾクゾクする有難さに包まれました。
思えば、日興上人・日目上人が、大聖人御入滅後51年の長きにわたり、全国で大規模な弘通を展開された「広宣流布 朝夕近し」の大情熱の根底にあるものこそ、大聖人様の御入滅という深い深い悲しみの中に堅められた不惜身命の御決意と御報恩の思いであり、浅井会長は「今だからこそ、そのことが骨身に沁みてわかる」「これより先生へのご報恩の一念に燃える顕正会の前進が、いちだんと勢いを増していくこと疑いない」と叫ばれましたが、深く頷くばかりでした。
「顕正会会長」に就任
次いで浅井会長は、新体制での前進開始にあたり、胸に懐かれた御存念を教えて下さいました。
まず、浅井会長が正式に顕正会の「会長」に就任され、大聖人様に対し奉る忠誠を貫き通された浅井昭衞先生のお心のみを体して陣頭指揮を執られること。
私たち顕正会員の「無二の師匠」はあくまで浅井昭衞先生ただお一人であり、会長は先生の名代として指揮を執られること。
「顕正会は、浅井先生が手塩にかけて築き上げられた『地涌の菩薩の大集団』である。ゆえに先生のお心にどこまでも異体同心し、御遺命成就に邁進していきたい」とお伺いしては、どこまでも浅井先生をお慕いし、師弟相対の誠を尽くされる御姿に畏敬の念でいっぱいになり、「いずれ山野の土となるこの身を抛ち、『仏法を得べき便り』はまさに今と、先生のご遺志を奉じて御遺命成就に身命を賭す覚悟」と述べられる会長に、私も非力ながら精一杯お応えさせて頂きたいと決意しました。
今後の展望
次いで浅井会長は、新体制における今後の展望を教えて下さいました。
まず、コロナ禍により中止していた日曜勤行が再開され、毎週、浅井先生のご指導を拝聴させて頂けることになりました。
また、過去に頂いた御書講義も、明年から月1回程度の頻度で、ネット配信で視聴できるようにして下さり、地方会館の御入仏式や各種大会のご講演も順次ネット配信で視聴できる環境を整えて下さるそうです。
さらに、日曜勤行や御書講義等の先生のご指導を冊子にして、それをまとめて立派な全集として発刊されるとのこと。いやはや、なんとも有難いですね!
浅井会長は、「先生が遺して下さった重大指導を血肉とし、一人ひとりが御遺命成就に戦う力ある人材に成長し、いよいよ広布前夜の信行たる『遥拝勤行』と『広告文』で、さらに力強い前進をなしてまいらんと決意している」と仰せですが、今後、全顕正会でどれほど歓喜に満ちた大前進がなされることか。今からワクワクが止まりません!!
さらに浅井会長は、浅井先生が見つめておられた20年代のしかるべき時に第三回目の一国諫暁に立つことは「いささかなりとも変更はない」として、「先生のご遺志を継ぎ、私たち弟子は日本を動かす三百万を急ぎなし、この重大なる御奉公を為し遂げねばならない」と叫ばれましたが、燃える闘志が全身に滾りました。
知恩報恩の仏弟子たらん
次いで浅井会長は、「知恩報恩」こそ仏弟子にとって最も大事な姿勢であることを、開目抄を引いて指導下さいました。
「孝と申すは高なり、天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり、地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」と。
孝養はまことに気高く崇高な厚意であり、仏弟子たる者、「四恩」(父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国主の恩)を知って恩を報じなければいけない――と。
かつて浅井先生は、「恩」について次のように指導下さいました。
『恩』ということを定義すれば、自分を今日あらしめてくれた慈悲の力。これを『恩』という。
言い換えれば、その人の慈しみなくして今日の自分はあり得なかったというとき、その慈しみを「恩」という。
ですから、人間が、もし自分の力だけで何でもできるなら『恩』という概念は存在しない。
ところがそんな人間は一人もいない。自分一人の力で生まれてきた、自分一人の力で人生を渡る、そんなことはあり得ない。
母親は義務とか欲得で子供を育てるのではない。『子供の苦しみは我が苦しみである。子供の喜びは我が喜びである』そのような慈悲の思いで子供を育てる。
この父母の恩を知り、恩を報ずることが、すなわち孝養であり、これを知るのが一人前の人間である。
しかしこの世には、父母の恩よりも、もっと大きな大恩徳・大慈悲の存在があられる。
それが仏様である。
親は自分の子供を現世だけ面倒をみるが、仏様は一切衆生を仏になさんと、三世にわたって永遠に崩れない幸福境界に何とかして全人類を導かんと三大秘法を授与して下さった。
ゆえに、流罪・死罪の大難を耐え忍ばれた。たいへんなことである。
竜の口の御頸の座は言うまでもない。
たとえば佐渡の流罪ひとつ見ても、どのような御難儀であられたか。
当時の佐渡は零下二〇度・三〇度であった。しかも流人であるから、大聖人様に布団などはない。着る物は農夫が着る蓑だけである。その蓑を着て、どうやって眠れましょうか。
しかもそれが一日・二日・三日ではない。一冬・二冬ではない。三たびの冬をお越しになられた。どれほど、お身体をお痛めになられたことか。
これが仏様の大慈悲である。その大難を忍び給うこと、大慈悲のゆえであられる。
この大恩は、私たちがたとえ香城に骨を砕き、雪嶺に身を投ぐるとも報ずることはできないと私はいつも思っている。
そこに、大事な御遺命に背くことは、不孝の中の不孝、不忠の中の不忠である。
いま顕正会は、この大聖人様の大事な御遺命を守らせて頂いた。そして大聖人様の大願たる広宣流布に向って身体をぶつけて御奉公している。これこそ大聖人様に対する最大の御報恩であり、孝養である。
いかがでしょうか。浅井先生の大聖人様に対し奉る深き深き御報恩のお心に、思わず涙が込み上げます。
浅井会長は、先生の大忠誠心はひとえに御本仏・日蓮大聖人に対し奉る御報恩の一念から発していること、翻って私たちは、先生に師事し得なければ今の立場はあり得ず、どれほどの大事を教えて頂いたか計り知れないことを述べられ、「私は、先生のかかる大恩に、一分でも報ずることができれば本望であり、ほかに望むものはない」「全顕正会員は、かかる先生へのご報恩を夢寐にも忘れずに、御遺命成就に邁進していきたい」と仰せられましたが、深く同心させて頂きました。
池田大作の命終と悪臨終
次いで浅井会長は、11月18日に発表された池田大作の死亡に言及されました。
死亡から3日間も公表せず、その隙に近親者だけで荼毘に付したとのこと、なんとも不自然ですよね。
浅井会長は、池田大作が平成22年(2010年)5月の本部幹部会を最後に13年以上も公の場に姿を現わさず「生ける屍」と化していたことに触れられ、「詮ずるところ、学会員には絶対に見せられないほどの悪臨終だったからこそ、〝諸行事を予定通り行ってもらいたいとの家族の意向で公表を遅らせた〟などと、もっともらしい理由をつけて、荼毘に付したうえで公表したのだと、言わざるを得ない」と鋭いご見解を述べられましたが、深く頷くばかりです。
私たち顕正会員は、浅井先生が御逝去された当日、浅井会長から直ちにその事実を教えて頂き、通夜・告別式でも、代表幹部700名以上が、手を伸ばせば届くほど間近で先生の成仏の妙相を御拝顔させて頂き、その感激が隅々に至るまで広がり、ために「語らずにはいられない」有難さで充満しています。
一方、池田大作の死亡は3日間も伏せられ、大幹部さえその臨終の相を見ることができなかったばかりか、会長の原田稔以下の首脳幹部も池田の臨終の相について一言も触れることができないのです。
「一切は現証には如かず」と。この一事をもって、顕正会と創価学会のどちらが正しい団体であるかは一目瞭然です。
浅井会長は、今こそ「私は早く六百万学会員を救いたい」との浅井先生のお心を知らしめ、学会員を救う戦いを強力に進めていこうと大号令下さいましたが、これより広宣流布の戦いのスケールが変わることを確信してやみません。
「最後の願い」みつめ熱涙の誓い
最後に浅井会長は、かつて浅井先生が仰せられた「最後の願い」について、大事な指導を下さいました。
浅井先生は、新・青年会館御入仏式において、御遺命成就の日、「天生原までの御供を終えたとき、顕正会ははじめて全員で杯を手にしたい。このとき大聖人様から『よくぞ』とのお誉めを賜り、清酒の御流れを頂き、全幹部と共に心ゆくまで頂戴したい。それが、私の最後の願いである」と仰せられました。
「すべてを為し終えたそのときは、苦楽を共にした弟子とともに」と、どこまでも弟子を労って下さる先生の深き御慈愛に、涙が止まりませんでした。
しかし先生が御逝去された今、このことはどうなるのか・・・。全顕正会員が見つめてきたこの大事について、浅井会長は次のように仰せられました。
近き将来、御遺命が成就し、国立戒壇の金剛宝座に戒壇の大御本尊様がお出ましあそばすのとき、私は先生の御遺影を胸に懐き、四キロの道のりの御供をさせて頂き、天生原において、霊山にまします先生に、先生が御逝去された令和五年十月十六日から、御遺命成就にいたる御奉公を、具にご奉告させて頂き、苦楽を共に戦い切った全顕正会員で、清酒の御流れを頂戴し、先生の「最後の願い」を叶えさせて頂かんと心に決めております。
そのとき先生は、莞爾と笑みを湛えられ
「よくがんばった。よき弟子を持った」
と、必ずおほめ下さるに違いないと確信しております。
さあ、いよいよこれからは、私たち弟子が先生のご遺志を継いで御遺命成就に向けて戦い、弟子の本分を果してまいらねばなりません。
いかがでしょうか。私自身、莞爾と笑みを湛えられる浅井先生のご温顔がまぶたに浮かんでは、滂沱たる涙の中、この「最後の願い」を必ずや事実にせんとの熱鉄の思いが胸に突き上げました。
私も浅井先生が遺して下さった重大指導を命に染める中、急ぎ力ある広布の人材に成長し、全く新たな決意で御遺命成就のお手伝いに励んでいきたいと思います!