広告文と遥拝勤行で広宣流布は成る

「広告文」特集号が出来しました

 5月度総幹部会を特集した顕正新聞6月5日号が出来しました。その名も「広告文」特集号

 この特集号では、浅井先生が「開目のメス」である「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」の広告文について、その要点をおさらいして下さいましたが、まさに「浅井先生の折伏」のようなご講演で、大感動でした。

 先日も広告文配布の縁で折伏していた壮年が、なかなか入信決定しなかったのですが、この総幹部会の浅井先生のご指導を視聴させたところ「うん、うん」とうなずき、有難くも決定するという展開がありました。いやはや、凄いですね!

 それでは、さっそく内容を見ていきましょう!

広告文こそ開目のメス

 「ちょっと待って!私、その広告文って見たことないんだけど・・・」という方も、だいぶ少なくなってきましたね。

 なんと「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」の広告文の発行部数は、この5月、ついに7300万枚に達したそうです。いつの間にか、日本の総人口の半数を超えてしまったのです!

 私もよく広告文を配布するのですが、「あ、その富士山の広告、見たことあるよ」という人や、「この間、うちのポストに入っていたよ」という人が本当に多くなってきました。

 そして、いま広告文に対する人々の反応も変わりつつあります。浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 この広告文を見て、反発する者・無視する者もまだ多いでしょう。しかしその反応は、いま大きく変わりつつある。

 それは世の中の情勢が一変してきたからです。

 そうでしょ。「第三次世界大戦の口火」と言われるロシアのウクライナ侵攻も始まった。北朝鮮の核兵器実験は今年に入ってすでに十数回も行われている。世界中で超インフレと食糧危機が始まってきた。米国と中国が台湾問題で引くに引けない対決の様相が鮮明になってきた。

 これから世界は必ず大恐慌と第三次世界大戦に突入すると思われる。20年代のテンポのなんと早いことか。

 どうして世の中がこのように急速に変化して来たのか、人々はその原因を知らない。

 その不安の中で、人々はお救い下さる仏様を心の奥で求めるようになる。これが「時」なのです。いよいよ広宣流布の時が近づいて来たのであります。

 その中で、広告文こそ人々の目を開ける「メス」です。すなわち欲と瞋りと愚かの三毒に覆われている人々の目を開かせ、お救い下さる仏様は日蓮大聖人ただ御一人であられることを見さしめる。それがこの広告文なのであります。

 私は広告文と遥拝勤行で必ず広宣流布は成ると、確信しております。

「広告文」特集号

 いかがでしょうか。学会・宗門が大聖人の御遺命に背く師敵対となり、ある末寺などは世間にへつらい「釈迦仏」を前面に押し出す姑息な勧誘をする中、いささかも世間にへつらわず、おもねらず、日蓮大聖人の大慈大悲と絶大威徳を堂々と叫ぶ仏弟子の大集団は、浅井先生率いる顕正会以外にはありません。

 この広告文が日本国をうち覆うとき、全日本人が日蓮大聖人の大恩徳を知り、亡国の大難を前に「日本国一時に信ずる事あるべし」が事相となる、その素地になることを思うと、今からワクワクしてきます!

広告文に示された3つの現証

 次いで浅井先生は、「広告文であるから極めて簡略ではあるが、始めて日蓮大聖人の御事を聞く人々にとっては、まことに大事なことがここに示されている」として、広告文に示された3つの現証についてつぶさに指導下さいました。

 まさに「浅井先生の折伏」のような有難いご指導で、私が余計な説明を加えるよりも、まずはじっくりと読んで頂くのが一番かと思いますので、以下に引用します。

●「人生の目的は成仏にある」

 いいですか。この広告文には四つの項目があります。

 その第一は「人生の目的は成仏にある」です。これに関連して「臨終」の大事が示されている。

 人生の目的を知らずに生きているのは、行先不明のバスに乗っているのと同じですね。しかし総理大臣をはじめ全日本人がこのことを知らない。みな目先の欲望に引きずられて虚しく生き、虚しく一生を終える。これが世間の人々の実相であります。

 成仏とは、生死を乗り越えて、永遠に崩れぬ無上の幸福境界を言うのです。

 では、その境界はどうしたら得られるのか――。

 それは

 日蓮大聖人が大慈悲を以て全人類に授与して下さった「本門戒壇の大御本尊」を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、いかなる人も宿命が変わり現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。これ大御本尊の仏力・法力によるのであります。

 しかし「死後の未来のことなどわからん」という者もあるに違いない。だが仏法は空理・空論ではない。すべて証拠を以て論ずるのです。

 その証拠とは臨終の相であります。

 臨終は一生の総決算であると同時に、臨終の相に、その人が未来に受けるべき果報が現われる。だから臨終は人生の最大事なのです。

 ゆえに大聖人様は

 「されば、先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし

 と仰せ給う。

 では、地獄に堕ちる相、あるいは成仏の相とはどのようなものかといえば

 大聖人様は

 「地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなるうえ、硬く、重くなる。成仏する者は、臨終ののちに色が白くなり、軽く、そして柔らかくなる」(千日尼抄・取意)

 とお示し下されている。

 世間の人々はこの重大な現証を誰も知らないですね。もし知ったら、人生観が一変するに違いない。

 臨終の相だけは人の意志の及ぶところではない。この因果の法則を説き切るのは、日蓮大聖人の仏法だけです。

 地位や財産による幸福はすぐ崩れる。現当二世(現世と当来世)にわたり崩れぬ真の幸福は、成仏以外にはないのです。

 日蓮大聖人こそ、我ら凡夫を仏にして下さる大慈大悲の御本仏であられる。

 私は顕正会員の「良き臨終」の報告を聞くたびに、なんと有難いことかとの思いが、いつも胸に込み上げてまいります。

 大聖人様のこの大恩徳を、広告文を以てまず教えてほしいのであります。

●「立正安国論の予言的中」

 次に「立正安国論の予言的中」のこと。

 大聖人様は、当時 日本国に打ち続く天変地夭・大飢饉・大疫病をごらんになって、これ他国侵逼の予兆・前相なりと判じ給い、もしなおも邪法に執着して三大秘法を立てなければ、必ず他国侵逼の大難を受けることを厳然と予言され、国主を諫暁し給うた。

 だが、日本は四方を海で囲まれている。「いったいどの国が海をわたって攻めてこようか」と、この御予言を信ずる者は一人もいなかった。

 ところが十四年後、ユーラシア大陸を征服した大蒙古が、その圧倒的な兵力を以て海をわたって二度も襲来したのです。

 凡夫の誰人にこの御予言がなし得ましょうか。

 大聖人様の御予言は、海外情報などを集めての推測ではない。実に、仏法の大道理に基づくもの。そして仏法を守護する諸天に申し付ける絶大威徳を以ての御予言であるから、違うことがないのです。

 このことは四条殿に下された次の御文を拝すれば、よーくわかります。

 「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天 罰し給いて、皆人に見懲りさせ給えと申しつけて候。日蓮 法華経の行者にてあるなしは、是れにて御覧あるべし。乃至、あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。

 ―法華経の敵となっている者を、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は罰せよ――と、大聖人様は申しつけておられる。その大罰が他国侵逼であります。

 さらに仰せられる。

 ―このことは憎んで言うのではない。これ人々に改悔の心を起こさせ、死後の無間地獄の大苦を今生のうちに消滅させる大慈大悲なのである――と。

 死後の無間地獄の大苦に比べたら、今生のいかなる大苦も物の数ではない。その無間地獄の大苦を、蒙古襲来の罰を以て改悔せしめ、今生のうちに消さしめんとし給う。これほど徹底した大慈大悲はないのです。

 まさに「立正安国論の予言的中」こそ、大聖人様の諸天に申しつける絶大威徳をお示し下さるとともに、一切衆生の後生の大苦を救い給う大慈大悲なのであります。

 この絶大威徳と大慈大悲の日蓮大聖人こそ、まさしく末法下種の御本仏であられる。

●「国家権力も御頸 切れず」

 次に「国家権力も御頸 切れず」のこと。

 日蓮大聖人の徹底せる邪法破折に対して、教義上の反論が全くできぬ邪宗の高僧らは一同して権力者に讒言し、大聖人の頸を刎ねてほしいと願い出た。幕府内の権力者・平左衛門はこれに応じた。

 ここに国家権力による絶体絶命の死刑が執行されたのであります。

 文永八年九月十二日の深夜、大聖人様は竜の口刑場の「頸の座」に坐し給うた。

 そして大刀まさに振り降ろされんとしたその刹那、凡夫の思議を絶することが起きた。

 その状況は、大聖人御自身が次のごとく記し給うておられるので拝読いたします。

 「江の島のかたより、月のごとく光りたる物 鞠のやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへ光りわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月夜のやうにて人々の面もみな見ゆ。太刀取り目くらみ倒れ臥し、兵共おぢ怖れ興さめて一町計りはせのき、或いは馬よりをりてかしこまり、或いは馬の上にてうずくまれるもあり」と。

 突如として暗闇の中から、巨大な「月のごとく光りたる物」が出現したのです。その光りがどれほど強烈であったか、練達強剛の太刀取りも眼くらんでその場に倒れ伏した。その衝撃がいかに凄まじかったか、太刀はいくつにも折れて足下に落ちた。

 これを見て、頸の座を取り囲んでいた数百人の兵士たちは、いっせいにクモの子を散らすように逃げ出した。馬上の武士たちも馬から下りて畏まり、あるいは馬上でうずくまってしまった。もう頸を切るどころではない。

 ひとり砂浜に坐し給う大聖人様は厳然と叫ばれた。

 「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ちよれや、打ちよれや」と。

 だが一人として近寄る者はない。大聖人様は再び大高声で叫ばれた。

 「夜 あけば、いかにいかに。頸切るべくわ急ぎ切るべし。夜明けなば見苦しかりなん」と。

 ―夜が明けたらどうする。頸を切るならば早く切るべし。夜が明けたら見苦しいであろう――と。

 死刑を催促し給うたのです。

 響くは凛々たる大聖人の御声のみ。返事をする者とてない。全員が腰をぬかし、へたり込んでしまったのです。

 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切ることができず、その御威徳の前にひれ伏してしまったのであります。

 このような思議を絶する、荘厳・崇高・威厳に満ちた光景が、この地球上・人類史上のどこにあったか。

 この大現証こそ

 日蓮大聖人が立宗以来の不惜身命の御修行ここに成就して、宇宙法界を我が身と開く「久遠元初の自受用身」に成り給うた尊い御姿であられる

 凡夫には、日蓮大聖人が三世十方の諸仏の大本・根源の御本仏たる「久遠元初の自受用身」であられることは想像もつかない。

 ゆえに大聖人様は、目に灼き付く強烈な大現証を以て「全人類を救う仏とはかくなるものぞ」ということを一切衆生に見せしめ給うたのであります。

 現証は誰人も否定できない

 以上、臨終の相に善悪があること、立正安国論の予言的中のこと、そして竜の口の絶大威徳を、簡略に説明いたしましたが、この三つは誰人も否定できない。

 それは、理論ではなく厳然たる事実「現証」だからであります。

 大聖人様は、現証の大事について次のごとく仰せられている。

 「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理・証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)と。

 また

 「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(教行証御書)と。

 ここに名を挙げておられる「善無畏三蔵」は、中国の真言宗の開祖です。大聖人様はこの者の臨終の現証を具さにお示し下されている。それは臨終の相が記録に残っているからです。誰が記録したのかというと、臨終の善悪もわからぬ善無畏の弟子たちが、師の徳をあげるとばかりに、あるがままにその死相を記したのです。それには「黒皮隠々として骨其れ甚だ露わなり」とあった。

 これをごらんになった大聖人様は

 「人死して後 色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(報恩抄)

 と仰せられ、善無畏の堕地獄を「決定」されている。

 このように、現証ほど大事なものはない。またわかり易いものはない。

 ゆえに、始めて日蓮大聖人の御事を聞く人々に、この広告文の三つの現証を以て、大聖人様の偉大さを、やさしく教えてほしいのであります。

「広告文」特集号

 いかがでしょうか。このように臨終の法則性を説き切った教えが、仏法以外どこにあるでしょうか。また、史上初の他国侵逼を、掌を指すように予言し、国家権力すら御頸を切ることができずにひれ伏した御方が、大聖人様以外どこにおられるでしょうか。

 これらの大現証を心沈めて拝するとき、日蓮大聖人こそ全人類が帰依すべき主・師・親の三徳にして末法下種の御本仏であられること、炳焉として明らかです。

「残された時間は少ない」

 次いで浅井先生は、広告文の最後の項目「残された時間は少ない」について指導下さいましたが、広布の決戦場20年代に突入し、日本も世界も客観情勢が激変してきた今だからこそ、その重みをずっしりと感じます。

 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」との仰せのごとく、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も人類の存亡も決すること、しかるに日本一同は御在世に大聖人の御頸刎ね奉る大逆罪を犯し、今なお背き続けていること、就中、断じて許されざる正系門家の師敵対により、「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲がれば影ななめなり」「前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし」との仰せのまま、広布前夜に必ず起こる大闘諍が迫り、これこそ各国が核兵器を用いて争う第三次世界大戦であること、日本はすでに中国・ロシア・北朝鮮という核の強大国・修羅の軍事独裁国家に囲まれるも、この大難は諸天の責めであるから軍事力を増強し国防の最善を尽くすとも国は守れないこと、この大惨禍・大悲惨をお救い下さるのは、諸天に申しつける絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられること、が胸に収まりました。

 この亡国の大難起こるとき、大聖人様はいよいよ広宣流布をあそばす、その御予言こそ「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」であり、このとき全日本人が広告文に示された日蓮大聖人の大恩徳を深刻に理解し、一同に手を合わせて広宣流布に至る様を想像しては、胸の高鳴りを抑えられず、御遺命成就への燃える情熱が込み上げます。

 浅井先生は叫ばれました。

 「すでに広宣流布は最終段階であります。このときに召し出されて御奉公が叶うとは、顕正会はなんと有難い宿縁か」「三百万が一結して、やがて他国侵逼に慄く全日本人に『日蓮によりて日本国の有無はあるべし』との重大聖語を徹底して教えるとき、日本は必ず動く」と。

 この何ものにも代え難い宿縁に歓喜し、私も広告文と特集号で一人でも多くの人々に日蓮大聖人の大恩徳を教え、広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!