原点の月・8月

「原点の月・八月」特集号が出来しました

 8月は、顕正会の「原点の月」といわれています。なぜ「原点の月」というのでしょうか。浅井先生は次のように指導下されています。

 それは――顕正会の発足が昭和三十二年の八月三日。また御遺命のゆえに解散処分を受けたのが昭和四十九年の八月十二日。ともに八月であったからです。

顕正新聞「原点の月・八月」特集号

 このように、顕正会の「発足」と「解散処分」という重大な節目がともに8月であったから、「原点の月」というのですね。

 浅井先生は顕正新聞8月5日号を「原点の月・八月」特集号として発刊して下さいましたが、拝読を重ねるほどに、顕正会の「原点」に刻まれた浅井先生の大聖人様に対し奉る大忠誠心が胸に迫り、畏敬の念に打たれます。ほんとうに、すごい師匠のもとで正しい信心ができているのだと、有難さでいっぱいになります。

 今回は、「原点の月・八月」特集号の内容を紹介していきたいと思います。

顕正会の発足について

 今回、浅井先生は、顕正会が発足したときの状況について詳しく教えて下さいました。

 顕正会は当時「妙信講」と称して、東京池袋の法道院という末寺に所属していました。当時の法道院の住職は、宗務院の教学部長を務め、如才のない世才家。56世・日応上人の直系を自負して、その系列の僧侶を集めて派閥を作り、宗内で隠然たる勢力を保ち、所属信徒も宗門随一の3000所帯ほどだったそうです。

 しかし、この住職は信心がうすく、僧侶としての栄達、末寺経営を至上として、まともな御書講義は一度もせず、信徒から半年に1回、さまざまな口実をつけては上限のない無理な供養を集めていました。信徒組織を「集金マシーン」のように考えていたのでしょう。

 当時「法道院法華講」の青年部長だった浅井先生は、この住職の姿をご覧になって、「このような職業僧侶に『身命を捨てて法を弘むべし』との大聖人様の御心はとうていわからない。このような住職に付いていて、果たして広宣流布のご奉公が叶うのであろうか」と深く悩まれました。そして、思い悩んだ末に、意を決して住職と会い、面(おもて)を冒して次のように直言されたのです。

 「こんなことでは折伏弘通はできない。広宣流布のご奉公はできない。どうか出家として、僧侶として、本気になって弘通して頂きたい」と。

 しかし、住職に広宣流布の決意はなく、「君とは見解の相違だ」などと言ってはぐらかしてしまいました。

 ここに、浅井先生は、初代講頭先生(先生のお父さん)とともに決意し、ついに妙信講を発足させたのです。これが昭和32年8月3日。先生は当時25歳でした。

 ところが、怨嫉する住職は、己のメンツにかけて妙信講を潰そうとしました。宗門の規則では、「指導教師」という立場の僧侶がいない講は認証してもらえません。宗務院の実力者だった住職は、「ワシが反対したら、誰が指導教師を引き受けるか。妙信講など本山が認めるわけがない、必ず潰れる」と豪語していました。

 しかし浅井先生は、「小細工は必要ない、こちらは信心で行けばいい。大聖人様の御心に叶う信心さえあれば、必ず道は開ける」との確信だけで進まれました。当時の「講報」第1号に、先生は次のように記しておられます。「権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するな。ただ恐れるは仏の金言に違わん事のみ、そのほかに何が怖い」と。

 先生は当時の御心境について、次のように述懐されています。

 もし妙信講が広宣流布を願わず職業僧侶のご機嫌だけを取っていれば、末寺の中で安住できる。傍目から見ればそれが〝よき御信者〟と映るかもしれない。

 しかし広宣流布・死身弘法の仏勅から見れば、これはずるい怠け者の姿である。

 妙信講は大聖人様の御眼のみを恐れ、広宣流布・死身弘法の道を選んだのであります

顕正新聞「原点の月・八月」特集号

 いかがでしょうか。浅井先生の、ただただ広宣流布を見つめた一筋の御信心には、思わず涙が込み上げます。当時も今も腐敗堕落し、不惜身命の決意も折伏弘通もしない自堕落な宗門僧俗には、きっと想像すら及ばないことでしょう。

 この透徹の御信心あられればこそ、正系門家を襲った第六天の魔王の障礙をただ御一人見抜かれ、御遺命守護のご奉公を貫き、さらに今、極限の大謗法・師敵対に陥って折伏弘通の資格も力も失い衰亡の一途をたどる学会・宗門(日蓮正宗)を眼下に、大聖人の御守護のもと、顕正会を御遺命成就に戦う唯一の仏弟子の大集団になさしめたものと拝しては、大感激でいっぱいです。

 この妙信講の真剣で一筋の決意を、なんと総本山から、第65世・日淳上人がじっと見つめていて下さったのです。そして、反対する住職の頭越しに、大英断をもって妙信講を認証して下さったのです。なんと不思議なことでしょうか。こうして正式な認証状が下付されたのが、昭和33年1月15日でした。

 日淳上人は、認証状授与にあたって、異例にも妙信講の代表幹部をわざわざ本山に召され、次のようなお言葉を下さいました。

 「これまで法華講というのは墓檀家のように言われてきたが、法華講とは熱原の法華講にその源を発するものである。妙信講は熱原の法華講を鑑として、戦う法華講となって広宣流布にご奉公してほしい。まず三千の弘通を成し遂げてみよ」と。

 なんとも有難いお言葉ですね。今から振り返ってみるとき、この日淳上人のお言葉の中に、熱原の法華講衆のごとく恋慕渇仰で遥拝勤行に励み、死身弘法で広宣流布に戦う〝国立戒壇の願主〟たる顕正会の姿が暗示されていたのではと伏して拝しては、震える感動が込み上げます。

 これより妙信講の大地を這うような死身弘法が開始されたのです。

御遺命守護の戦いは不思議の連続

 その後、第六天の魔王が身に入った創価学会の池田大作は、御遺命破壊に動き出します。第66世・細井日達を籠絡して、昭和38年には「創価学会の悪口を言う者は無間地獄に堕ちる」という訓諭を出させ、翌39年には自らを「法華講総講頭」に任命させ、「日蓮正宗信徒はことごとくお任せいたします」と明言させます。こうして宗門統制を完了した後、いよいよ偽戒壇・正本堂の誑惑をはじめ、これを「御遺命の戒壇」と偽り、細井日達に承認させたのです。

 浅井先生は、「このとき、大聖人様の厳たる御命令が私の耳朶を打った」と。「もし『法主』の権威を憚り、学会の強大を恐れて、この御遺命破壊を黙過したら、これこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる。大聖人様に申しわけない」―ただこの一念で、先生は御遺命守護のご奉公にお立ちになったのです。

 これより、捨て身の諫暁は28年に及びました。そして凡慮を絶することが起きました。平成10年、偽戒壇・正本堂はついに打ち砕かれ、消滅してしまったのです。

 細井日達が訓諭において「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」と定義し、また「この正本堂に戒壇の大御本尊を永久に安置する」と公言し、池田大作に至っては「七百年後、三千年後、一万年後に、この正本堂の地下室を開ける」と豪語していた正本堂が、わずか26年で崩壊することなど、いったい誰が想像し得たでしょうか。まさに不思議の中の不思議、凡慮を絶する不思議です。すべては浅井先生が仰せられたとおりになったのです

 先生は、御遺命守護の戦いを振り返られ、「この戦いはまさに、思いもよらぬ不思議の連続であった」と仰せですが、ほんとうにその通りですよね。ことに昭和45年の第1回目の諫暁のとき、細井日達が、顕正会の諫暁の背後に大聖人様ましますを感じ、はからずも胸の奥にある本心を吐露したことを伺っては、大感動が込み上げました。

 浅井先生は、偽戒壇・正本堂が崩壊した不思議について、次のように仰せられています。

 これ、いかなるゆえか。

 大聖人様は御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門に同士討ちを起こさしめ、ついに偽戒壇・正本堂を打ち砕かせ給うたのであります

 そもそも正本堂は、池田大作が国立戒壇を否定するために建てた偽戒壇であれば

 この正本堂崩壊こそ、国立戒壇を否定せんとした池田大作・細井日達・阿部日顕らのたばかりが、完全に崩壊したことを意味する

 天魔その身に入る悪人どもが、いかに破壊せんとしても、御本仏日蓮大聖人の御遺命は金剛不壊なのであります

 そして破邪の次には必ず立正がある。いよいよ広宣流布・国立戒壇が事実となるのです。

顕正新聞「原点の月・八月」特集号

 いかがでしょうか。大聖人の御意のまま、池田・細井・阿部らによる第六天の魔王のたばかりを粉砕し、一期の御遺命を守護し奉られた浅井先生の激闘を拝しては、感激でいっぱいです。そして、破邪・立正・安国であれば、広布前夜の第六天の魔王のたばかりが崩壊したことこそ、いよいよ御遺命成就の時の到来を意味するものと確信せずにはいられません。

 浅井先生は叫ばれました。

 さあ、早く三百万を成し遂げ、全日本人の心魂に徹するまで

 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」との重大事を教えなければいけない。

 そして、大聖人様の絶大威徳によって遠からず必ず成る国立戒壇を、全員で、熱涙の中に、伏し拝ませて頂こうではありませんか。

顕正新聞「原点の月・八月」特集号

 新型コロナの猛威と米中対決による「前代未聞の大闘諍」が刻々と近づく客観情勢をみるとき、広宣流布を急がなければ!との思いが突き上げます。

 私も浅井先生の御心を万分が一でも身に体し、もっともっと力強いご奉公で広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!