幸・不幸はどうして生じるのか

「人生七色、十人十色」の原因は?

 街角で広告文を配布していると、いろんな人との出会いがあります。裕福な人、生活が苦しい人、若い人、お年寄りの人・・・。ふだんの生活でふれあう人々には限りがありますから、毎回の配布で知らない人に出会うのは個人的にはとても新鮮な体験です。

 さて、ちょっと見方を変えてみると、世間にはいわゆる「幸せそうな人」と「不幸そうな人」がいます。もちろん、内実はわからないもので、外からは幸せそうに見えてもみな悩みを抱えているものですが、とはいえ、この差は何によって生ずるのでしょうか?

 「ふん、そんなの知るかよ!」と投げやりになる人、「ふふふ、人生は自分の努力で切り開くものですよ」と講釈する人、「まあ、やっぱり運次第なんじゃない?」と楽観的な人、「いいえ、私がこうなったのも、全部親のせいよ!」と恨む人など様々ですが、本当のところは誰にもわかりません。

 しかし、過去・現在・未来を見透される大智恵をお持ちの仏様には、「幸・不幸はなぜ生ずるか」がはっきりとおわかりになり、その道理を厳然と説かれているのです。

 浅井先生の御指導を拝してみましょう。

幸・不幸はなぜ生ずるか

 人の果報はさまざまである。生れついて恵まれた福運を持った者もいれば、一生の間、病気・貧乏・家庭不和で苦しんだり、人に軽んじられたりする者もいる。これらの幸・不幸は偶然生ずるものではない。因なくして果はなく、果のあるところ必ず因がある。仏法はこの因果を、現世だけでなく三世にわたって説き切っている。

 大聖人は開目抄に心地観経を引いて

 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」と。

 ―自分が過去にどんな事をしてきたかを知りたかったら、現在受けているその果を見よ。また将来どんな果報を受けるかを知りたかったら、いま為しつつある所行を見よ―と。まことに因果は鎖の輪のごとくで、誰人もこの因果の理の外にあることはできない。

「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」第4章

 いかがでしょうか。三世を見透される御本仏の御断定には胸のすく感動をおぼえますね!

 幸・不幸は偶然生じるのではなく、過去に自分がやってきたことを原因として、その結果をいま受けているのです。ですから、もしいま不幸を感じているとしたら、それは誰のせいでもなく、自分自身が過去にやってきたことの報いということになります。逆に、将来どんな果報を受けるかは、いま為しつつある所行によって決まるのです。

幸・不幸を決める「一番大事なこと」

 こう書くと、「なるほど、そういうことだったのか!これはウカウカしていられない!将来の幸せを掴むために、今日から〝良い行い〟をやっていくぞ~!」と思われる方がいるかもしれません。いやはや、すごい行動力ですね(笑)

 でも、ちょっと落ち着いて考えてみてください。「良い行い」って、いったい何をやるのでしょうか?

 「そんなん、何でもええんよ!ボランティアしたり、人にやさしくしたり、近所のお寺に参拝したり・・・。ああ、やることがありすぎるわ~!」と思われた、そこのあなた!

 ・・・大変なことに、いまとんでもない間違いを犯しつつありますよ!

 良い原因、悪い原因にもいろいろありますが、人生の最大事である臨終にもっとも強い影響を与えるのが、何を隠そう、仏法の邪正なのです。

 ですから、もし正しい仏法に背くならば、せっかく過去世に積んだ福運もたちまち消滅してみじめな境界となってしまいます。逆に、どれほど福運のない人であっても、正しい仏法を実践するならば、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得ることができるのです。

 浅井先生は、「臨終の善悪は仏法の邪正による」として、次のように指導下されています。

 さて、臨終の善悪を決する最大の要因は世間の善悪よりも仏法の邪正である。大聖人は謗法が悪臨終を招くことについて、真言宗の元祖等を例として次のように仰せられている。

 「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有様、実(げ)に正法の行者 是(か)くの如くに有るべく候や」(教行証御書)

 また念仏宗の法然一党の臨終については

 「法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし」(断簡)と。

 さらに清澄山において大聖人を強く憎み敵対した円智房等の臨終について

 「眼前の現証あり。乃至、日蓮こそ、念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底に堕つべしと申したりしが、此の人々の御臨終はよく候いけるか、いかに」(下種本仏成道御書)と。

 一方、三大秘法を清らかに持つ者は、御本尊のご守護により、本来人間にとって何よりも恐ろしく苦しい臨終も安らかに、そして死後の生命も仏界へと導かれる。

 「所詮、臨終只今にありと解(さと)りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是の人命終せば、千仏手を授けて、恐怖せず悪趣に堕ちざらしむ』と説かれて候」(生死一大事血脈抄)と。

 臨終のとき「千仏」が手をさしのべて、死を恐怖させず悪道に堕とさしめないとある。「千仏手を授けて」とは、末法救護の御本仏・日蓮大聖人が御守護下さるということである。

 ゆえに

 「中有の道にいかなる事もいできたり候わば、日蓮が弟子なりとなのらせ給へ」(妙心尼御前御返事)

 また

 「御臨終のきざみ生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし」(上野殿御返事)と。

 臨終のとき、大聖人様が必ずお迎えに来て下さるとは、なんと有難いことか。

 さらに、死後の生命が仏界に導かれ自受法楽する歓喜の境界について

 「退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと見るならば、あら面白や、法界寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし、金の縄を以て八の道を界(さか)へり、天より四種の花ふり、虚空に音楽聞えて、諸仏・菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや。我等も其の数に列(つら)なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり。信心弱くしてはかかる目出(めで)たき所に行くべからず、行くべからず」(松野殿御返事)と。

 人間にとって、最も恐ろしく悲しい死が、かえって仏界の自受法楽の大境界を得る入口となる。ゆえに「あら面白や」と仰せられる。仏法による現当二世の大願はここに成就するのである。

 ただし、たとえ大聖人の弟子であっても、信心が弱ければ一生成仏は叶わない。ゆえに

 「信心弱くして成仏の延びん時、某(それがし)をうらみさせ給うな」(新池御書)と。

 また信心不純にして大聖人の御心に背くならば、悪相を現ずる。

 「(わが)弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は、臨終の時 阿鼻獄の相を現ずべし。其の時 我を恨むべからず等云々」(顕立正意抄)と。

 この御文、肝に銘じて忘れてはならない。

「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」第4章

 いかがでしょうか。正しい仏法を実践していくことが現当二世に崩れぬ真の幸福を得させて頂ける直道であることがよくわかりますね。なんと有難いことでしょうか。

 しかし、せっかく大聖人の仏法に値うことができても、大聖人一期の御遺命に背く学会・宗門では成仏が叶わず、かえって悪道に堕ちてしまいます。このことは、時の貫首でありながら御遺命に背き悪道に堕ちた細井日達・阿部日顕の悪臨終を見れば明らかですね。

〇「無間地獄」に堕ちた細井日達の悪臨終

〇「阿部日顕の悪臨終」をゴマかす宗門の欺瞞を破す 

 このことを思うとき、いま顕正会員として大聖人仰せのままの信行に励み、現当二世の大功徳を得させて頂ける有難さは言葉になりません。私自身、微力ながら信心を貫く中にたくさんの功徳を頂き、宿命を大きく変えて頂けた有難さを日々噛みしめては、一人でも多くの方に大聖人の仏法を教え、広宣流布・国立戒壇建立を早めるご奉公をさせて頂きたい!との思いでいっぱいです。