仏法の実践:勤行

「仏道修行」は難しい?

 「仏道修行」と聞くと、何か難しい修行が待ち受けているような気がしませんか?

 たとえば、真冬の滝に打たれたりとか、難しいお経を暗記したりとか、「お酒を飲んじゃイカン!」という厳しい戒律を守ったりとか・・・。

 そんな難しい修行、私たちにはとてもできませんよね。「3日坊主」という言葉がありますが、はたして3日も続くかどうか・・・。はなはだギモンです(笑)

 ところが、日蓮大聖人の仏法は、とても簡単なんです!

 御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る「勤行」と、これを人に勧める「折伏」、この2つを実践していくだけで、いかなる人も必ず一生のうちに「成仏」が叶い、三世に崩れぬ無上の幸福境界を得させて頂けるのです。なんと有難いことでしょうか。

 これなら小さな子どもでも、外国の人でも、誰でも実践できますよね。

 このように、誰でもできる簡単な修行で、いかなる人もお救い下さる。これが日蓮大聖人の仏法の有難さであり、大聖人の大慈大悲なのです。

 今回は、仏道修行の基本である「勤行」について書いてみたいと思います。

仏道修行の基本=勤行

 朝夕の「勤行」は仏道修行の基本です。この勤行の実践により、私たちは御本尊の功徳を頂き、幸せになり、一生成仏の大願も叶うのです。考えるだけでワクワクしますね!

 この勤行には、「正行」と「助行」があります。

 「正行」とは、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉ること、「助行」とは、法華経というお経の方便品・寿量品を読誦することです。

 どうして方便品・寿量品を読誦するのかというと、これにより「正行」の甚深の功徳が増すからです。ちょうどご飯を食べるのに、白米だけ食べても美味しいけれど、ふりかけをかけるともっと美味しくなる!というのに似ています。

 そして、勤行で一番大切なのは、もちろん「正行」です。

 この「正行」の大功徳について、浅井先生は次のように指導くだされています。

信心口唱で大良薬を頂く

 正行の唱題について説明する。

 日蓮大聖人は末法の一切修行を仏に成さんと、大慈悲を起こして御本尊を顕わし、全人類に授与して下さった。これ三大秘法の中の本門の本尊であり、まさしく御本仏の大慈大悲の結晶、成仏の大良薬である。

 そしてこの大良薬を服むに当るのが、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る信心口唱、すなわち本門の題目なのである。

 末法の三毒強盛の荒凡夫が仏に成らせて頂く修行は、この信心口唱以外にない。

 ゆえに日寛上人は当流行事抄において

 「是れ吾が家の最深秘、蓮祖化導の一大事なり

 と示され、さらに我らが唱え奉るところの本門の題目と、本門の本尊と、日蓮大聖人との関係について、次のごとく御指南を下されている。

 「問う、我等唱え奉る所の本門の題目、其の体何物ぞや。

  謂く、本門の大本尊是れなり。

  本門の大本尊、其の体何物ぞや。

  謂く、蓮祖大聖人是れなり」と。

 何と重大なる御指南か。まさに御相承に基づく重大御法門と拝する。不相伝の身延派等の諸流は、たとえ題目を唱えるともその体を知らない。よって大聖人の御意に背き、題目の杖を突いて地獄に堕ちるのである。

 まさしく本門の題目の体は本門の大本尊、すなわち大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊であられる。

 では、その大御本尊の体は何かといえば、実に日蓮大聖人にてまします。

 ゆえに大聖人は

 「日蓮が魂を墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給え。仏の御意は法華経なり。日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事)と。

 この御文について日寛上人は、観心本尊抄文段に

 「此の本尊の為体、即ち是れ久遠元初の自受用身・蓮祖大聖人の心具の十界三千の相貌なり

 -この御本尊のお姿は、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の一念の心法に具わる十界三千の諸法、すなわち大聖人即一念三千の相貌である-と。

 さらに同文段には

今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字および木画と謂うことなかれ」と。

 まさしく御本尊は生身の御仏、生きてまします日蓮大聖人であられる。

基礎教学書第5章・仏法の実践より

 ここではまず、御本尊の有難さについて懇切にお教えくだされています。

 御本尊こそ、御本仏の大慈大悲の結晶、成仏の大良薬であり、生きてまします日蓮大聖人であられるとの甚深の御法門を伺っては、大感激が込み上げます。

 そして、この大良薬を服むに当たるのが、「正行」である本門の題目なのです。なんと有難いことでしょうか。

大聖人の御名を唱え奉る

 では、「本門の題目」の功徳とは、どのようなものなのでしょうか。浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 そして、この日蓮大聖人の仏法上の御名を「南無妙法蓮華経」と申し上げる。ゆえに御義口伝には

 「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり

 無作三身とは末法の法華経の行者、すなわち日蓮大聖人の御事である。その無作三身の宝号(御名)を南無妙法蓮華経というのである-と。

 さらに日寛上人は撰時抄文段に

 「末法下種の教主日蓮大聖人は即ち是れ本地無作の三身、南無妙法蓮華経仏なり」と。南無妙法蓮華経という生命の極理を証得された仏様だから、「南無妙法蓮華経仏」と申し上げる。まさに日蓮大聖人の仏法上の御名は、南無妙法蓮華経であられる。

 この御名を、「お慕わしい」「有難い」との恋慕渇仰の信心で唱え奉れば、「名は必ず体に至る徳あり」(十章抄)で、直ちに体である御本尊・日蓮大聖人に通じ、我ら凡夫が御本尊・日蓮大聖人と一体になり、仏に成らせて頂けるのである。

 ゆえに本因妙抄には

信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡身即仏身なり。是れを天真独朗の即身成仏と名づく

と仰せられている。

基礎教学書第5章・仏法の実践より

仏様が宿って下さる

 さらに大聖人は信心口唱の功徳を、やさしく次のごとく御教示下されている。

 「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐(はら)まれ給う」(松野殿女房御返事)

 御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我ら凡夫の心に仏様が宿って下さる-と。ここに仰せの「釈迦仏」とは、その元意は本因妙の釈迦仏、すなわち日蓮大聖人の御事である。

 日蓮大聖人が宿って下されば、心法も変わる、宿命も変わってくる。凡夫の我らがもったいなくも、大聖人の分身とならせて頂けるのだ。だから、現世には幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、後生も守られるのである。

 何と有難いことではないか。すべては御本尊の仏力・法力による。いよいよ信力・行力に励まなければいけない。

基礎教学書第5章・仏法の実践より

 いかがでしょうか。日蓮大聖人の御名である「南無妙法蓮華経」を、「お慕わしい」「有難い」との恋慕渇仰の信心で唱え奉ることで、私たち凡夫が御本尊・日蓮大聖人と一体になり、そのまま仏に成らせて頂けるのです。

 また、日蓮大聖人が心に宿って下さることで、もったいなくも私たち凡夫が「大聖人の分身」とならせて頂けるのです。だから、心法が変わり、宿命も変わり、現世に幸せを得るだけでなく、未来の成仏も叶うのです。なんと有難いことでしょうか。

「彼の天台の座主よりも」

 ゆえに大聖人は、「彼の天台の座主よりも、南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(撰時抄)と仰せられています。たとえ癩病に冒されるとも、大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、一生成仏という無上の仏果を得ることができるからです。

 いま日蓮大聖人に値い奉り、お題目を唱える身となれたことは、なんと有難いことでしょうか。いよいよ恋慕渇仰の信心で勤行に励み、一生成仏と広宣流布・国立戒壇建立を見つめて邁進していきたいと思います。