顕正新聞が日蓮正宗の邪義に止めを刺しました(3)

ついに浅井先生の正しさを認めてしまったようです

 顕正新聞5月15日号に掲載された「御遺命違背の糾弾から逃げ回る大草一党に止めを刺す」も、いよいよ最終回です。今回は、国立戒壇に関する部分を紹介したいと思います。

 驚いたことに、記事によると、「慧妙」は浅井先生のご主張の正しさを認めてしまったようです。「戒壇建立のプロセスとして、国家意志の表明が必要である」と。これ、浅井先生が昔からずっと仰せられてきたことですよね。「国家意志」という言葉も、「意思」ではなく「意志」という漢字をわざわざ使っているところに、パクリ感がにじみでています(笑)

 また「慧妙」は、浅井先生の正しさを認めたことで、これと全く違うことを言ってきた日蓮正宗が間違っていたことを暗に認める形となってしまいました。阿部日顕などは「建築許可証があればいいんだ!」と言っていましたが、これは「国家意志の表明」ではありませんから、間違いということになります。

 〝宗門の御遺命違背の謀りもいよいよ最終章〟―との浅井先生のご指導を実感とするばかりです。

 それでは、さっそく内容を見ていきましょう!(以下、引用です)

第3 国立戒壇について

 宗門は、以上のごとき重大な御遺命違背を犯しながら未だに真の懺悔なく、「勅宣・御教書」たる国家意志の表明による戒壇建立を否定し、国立戒壇の正義を宣示していない。よって、現在も御遺命に背き続けているのである。

浅井先生に同調するポーズを示した大草一党

 この点につき、大草一党は、なんと浅井先生に同調する姿勢を示した。曰く「そもそも『国家意志の表明』は広宣流布達成の暁に示されるものであり、広宣流布とセットで考えるべきものである」(「慧妙」3月1日号)、また「戒壇建立のプロセスとして国家意志の表明が必要である」(同4月16日号)と。顕正会の破折をかわすためとはいえ、細井・阿部を見限り、浅井先生に同調するポーズを示すとは、いかにも破廉恥ではないか。さすがは寄生虫である。

 そもそも御遺命の戒壇とは、広宣流布の暁に「勅宣・御教書」すなわち国家意志の公式表明を手続として建立される戒壇(以下、端的に「国立戒壇」という)であること、三大秘法抄・一期弘法抄に赫々明々である。

 ゆえに浅井先生は、学会・宗門が国家と無関係に建てた偽戒壇・正本堂の誑惑を責められ、〝国家意志の表明により建立される国立戒壇こそ大聖人の御遺命である〟と一貫して叫び続けて来られたのである。

 一方、宗門はどうであったか。細井日達は「訓諭及び説法以外に私の真意はない」、「国立というのは本宗の教義ではない」と放言し、御遺命の正義を一人守り奉る浅井先生を中傷した。また、阿部日顕などは2冊の悪書で国立戒壇を散々に誹謗し、〝「勅宣・御教書」は建築許可証にすぎない〟などと嘯いていたのである。

 そこに、大草一党が顕正会の破折をかわすためとはいえ、〝国家意志の表明による戒壇建立〟に同調する姿勢を示したことはまことに面白い。すなわち大草一党は、保身ために細井・阿部を見限り、浅井先生の一貫不変のご主張の正しさを認める旨を公言したのである。

「勅宣・御教書」の意義

 とはいえ、所詮は浅井先生のサルマネにすぎないから、大草一党は重大な誤りを犯している。それは、「勅宣・御教書」の意義を弁えず、「戒壇建立に至るプロセスとして、国家意志の表明はあってしかるべきだが、それが勅宣並びに御教書でなければならないとは限らない」などと囀(さえず)っていることである。これでは〝国家意志の表明〟を論ずるとも、その意味内容が不明確である。このあたりが寄生虫の限界なのであろう。

 そこで、以下、基礎教学書における浅井先生のご指導を引用する。大草一党はしかと拝し、御遺命の正義を命に染めよ。

 「次に戒壇建立の『手続』については、『勅宣並びに御教書を申し下して』と定められている。

 『勅宣』とは天皇の詔勅。『御教書』とは当時幕府の令書、今日においては閣議決定・国会議決等がこれに当ろう。まさしく『勅宣並びに御教書を申し下して』とは、国家意志の公式表明を建立の手続とせよということである。

 この手続こそ、日蓮大聖人が全人類に授与された『本門戒壇の大御本尊』を、日本国が国家の命運を賭しても守護し奉るとの意志表明であり、このことは日本国の王臣が『守護付嘱』に応え奉った姿でもある。

 御遺命の本門戒壇は、このように『勅宣・御教書』すなわち国家意志の表明を建立の必要手続とするゆえに、富士大石寺門流ではこれを端的に『国立戒壇』と呼称してきたのである。

 では、なぜ大聖人は『国家意志の公式表明』を戒壇建立の必要手続と定められたのであろうか。

 謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は偏えに仏国の実現にある。仏国の実現は、一個人・一団体・一宗門だけの建立ではとうてい叶わない。国家次元の三大秘法受持があって始めて実現する。その国家受持の具体的姿相こそ『王仏冥合』『王臣受持』のうえになされる『勅宣・御教書』の発布なのである。

 もし国家意志の表明により建立された本門戒壇に、御本仏日蓮大聖人の法魂たる『本門戒壇の大御本尊』が奉安されれば、日本国の魂は日蓮大聖人となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国ではないか。『日蓮は日本の人の魂なり』『日蓮は日本国の柱なり』の御金言は、このとき始めて事相となるのである

 このように〝国家意志の公式表明〟の依文こそ「勅宣・御教書」であり、国民の総意が国会の議決となり、閣議決定となり、天皇の詔勅となって表れたとき、はじめて〝国家意志〟が成立し、日本は仏国となるのである。

第4 結語

 以上「慧妙」に掲載された大草一党の言い訳を破折し、宗門の御遺命違背の大罪を改めて白日の下に晒した。このように御遺命の正義をほしいままに改変し、未だに改悔なく背き続けているのが、現在の宗門の実態である。

 宗門は一体いつまで大聖人様に背き続けるのか。すでに偽戒壇・正本堂は崩壊し、大草一党すら、顕正会の呵責に居たたまれなくなり、「戒壇建立のプロセスとして国家意志の表明が必要である」と、細井・阿部を見限り、浅井先生のご主張に同調する旨を公言するに至っているではないか(未だに改悔がなく、サルマネゆえに理解が不正確であることは前述)。

 顕立正意抄に曰く、「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」と。改悔がなければ入阿鼻獄は疑いない。

 早瀬日如管長は速やかに御遺命違背の大罪を改悔し、国立戒壇建立こそ大聖人様の御遺命であることを宗内外に宣示すべきである。