顕正新聞が日蓮正宗の邪義に止めを刺しました(1)

日蓮正宗の邪義にトドメ

 顕正新聞5月15日号に、おもしろい記事がありました。「御遺命違背の糾弾から逃げ回る大草一党に止めを刺す」という藤村副教学部長の記事で、宗門(日蓮正宗)の人たちが垂れ流している邪義にトドメを刺したものです。読んでいて、なんともいえない痛快な気持ちになりました(笑)

 同時に、日蓮正宗の邪義をみて驚きました。日ごろ浅井先生から御遺命について正しく教えて頂いている私たちからすると、「えっ、日蓮正宗の人たちって、こんなデタラメなことを本気で言っているの!?」と思うような内容ばかりだったからです。広布前夜の濁乱をまざまざと見る思いです。

 そこで、このブログでは、御遺命の正義をみなさんに知って頂くために、何回かにわけて記事の一部を紹介していきたいと思います。

「御遺命違背の糾弾から逃げ回る大草一党に止めを刺す」

 御遺命違背についての「言い訳」も、ついに終焉を迎えたらしい。

 顕正新聞3月25日号に掲載された拙稿「大草一党の痴論を破し、宗門の御遺命違背を糾弾す」に対し、大草一党が「慧妙」4月16日号に必死の反論を試みてきた。今回も第1面から2面にわたる長文であり、彼らの必死さが伝わってくる。

 しかし、その内容たるや、理に詰まった者が発狂して書き殴ったような駄文であり、論理的な反論は皆無である。このような程度の低い文章を臆面もなく公表できてしまうあたりに、彼らのレベルの低さが端的に表れている。

 その上、形勢不利と判断した彼らは必死に論点を逸らしつつ、「今回だけは、藤村がゴマカシのために出してきた弁明の一つひとつについて、破折しておく」と、すでに逃走準備を始めたから滑稽である。御遺命違背に対する糾弾について、これ以上、言い訳を続けることができなくなったのであろう。まさに「終焉」である。

 そこで本稿では、「慧妙」に掲載された程度の低い「言い訳」を破折し、もって御遺命違背の糾弾から逃げ回る大草一党に止めを刺すこととする

第1 昭和42年の高僧発言について

 宗門高僧らは、昭和42年の正本堂発願式において、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」であると断定・讃嘆した。宗門は、かかる高僧らの発言を機関誌「大日蓮」に掲載し、宗門として公表した。よって、宗門は、昭和42年当時、すでに御遺命に違背していたのである。

 この事実は動かし難く、もし宗門に一分の信心あるならば潔く懺悔すべきであり、つまらない言い訳など口にできるものではない。

「正本堂の完成までに広宣流布が達成すると期待していた」とのウソ

 ところが、信心の欠片もない大草一党は、宗門高僧らの発言を正当化するために、すでに紹介したとおり〝当時は5年後(昭和47年)の正本堂完成までに広宣流布が達成すると期待していた〟との荒唐無稽な言い訳をしているのである。

 しかし、言うまでもなく、昭和47年に広宣流布が達成されることはなく、学会・宗門にその具体的な予定もなかった。もし昭和47年までに広宣流布が達成される具体的な予定ないし見込みがあったというなら、確たる証拠を示すべきである。

 窮余の策とはいえ、客観的な事実と著しく乖離したことを平然と世間に公表する非常識さには呆れるほかない。

「総世帯数の3分の1で広宣流布」とのたばかり

 まして大草一党は、昭和42年当時、正本堂完成までに広宣流布が達成される見込みがなかったことを、迂闊にも自ら認めてしまっている。いわく、「当時の創価学会の発表によれば、(中略)、このままの勢いで行けば、正本堂が完成する頃には当時の日本の総世帯数の三分の一にあたる一千万世帯に達するであろう、と見られていた」(「慧妙」3月1日号)と。「日本の総世帯数の三分の一」では、未だ広布達成といえないことは明白である(なお、実際に学会が一千万世帯に達することはなかった)。

 この点を突かれたのがよほど痛かったのであろう。大草一党は、広宣流布の定義を歪曲し、「大聖人が『日本一同』とか『上一人より下万民まで』と仰(おお)せられるのは、日本国の大多数を形容する表現」にすぎないとして、「総世帯数の三分の一」の入信でも広宣流布といえる、との無智・無道心きわまる言い訳をしてきた。

 では反詰する。大草一党の定義によれば、「総世帯数の三分の二」が未だ謗法者であっても広宣流布達成ということになるが、それで良いのか。入信者よりも大勢の謗法者が国中に充満する状態で、どうして広宣流布といえようか。デタラメも大概にせよ。

 大聖人様は広宣流布の時の姿について、「剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と御断言下されている。御本仏が「大地を的とする」と断言し給う「日本一同」の帰依を、なぜ「総世帯数の三分の一の入信で良い」などと貶めるのか。全人類救済の大誓願を立て給う大聖人様が、日本国の三分の二が信ぜず、悪道に堕してゆく状況を「大地を的とする」「広宣流布」と仰せになるはずがないではないか。

 広宣流布とは、大聖人様の大慈大悲と絶大威徳により、上一人より下万民に至るまで一同に他事を捨てて皆が南無妙法蓮華経と唱え奉る時である。ゆえに第二十六世・日寛上人は、順縁広布について次のごとく御指南下されている。

 「如来の金言は、大海の潮の時をえざるが如く、春の後に夏の来たるが如く、秋毫もうこと無し。若し爾らば、終には上一人より下万民に至るまで、一同に他事を捨てて皆南無妙法蓮華経と唱うべし。順縁広布、何ぞ須く之を疑うべけんや。時を待つべきのみ」(撰時抄文段)と。これが信じられない者は仏弟子ではない。

 以上から、大草一党のたばかりは失当であり、「総世帯数の三分の一」の入信では広布達成とは全くいえない。したがって、大草一党自身が、昭和42年当時、正本堂の完成までにせいぜい「総世帯数の三分の一」程度の入信しか期待していなかったことを認めた以上、当時の宗門僧俗が〝正本堂の完成までに広宣流布が達成すると期待していた〟との言い訳が虚偽であることが、ここに確定した。

「日本語の幅」とのごまかし

 そもそも宗門高僧らは、大草一党が言うように、「正本堂ができる時までには広宣流布が達成されて、そうすれば正本堂が御遺命の戒壇になる」などと述べたのではない。「正本堂の建立を以て広宣流布は達成、御遺命は成就」と偽っていたのだ。このことは当時の高僧らの発言を見れば一目瞭然である。

 しかるに大草一党は、あくまでも高僧発言の意味は前記のとおりと強弁した上で、「そのくらいの日本語の幅がわからないのか」等とごまかしている。

 明々白々たる文証を「日本語の幅」などといって歪曲してはいけない。宗門高僧らの発言は明らかに、広布達成前に建立する偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と断定しているではないか。煩を厭わず文証を引く。

 佐藤慈英(当時、宗会議長)「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」(「大日蓮」昭和42年11月号)

 菅野慈雲(当時、宗会議員)「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同上)

 いずれも正本堂の建立こそ「『事の戒法』の実現」、「広宣流布を意味する」、「大聖人の御遺命」と断言しているではないか。すぐバレる嘘をつくのはやめよ。

 さらに時の貫首・細井日達も、翌昭和43年1月、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(「大白蓮華」201号)と明言している。弘通の進捗いかんに拘らず、「正本堂が完成した時は王仏冥合して広宣流布」と断言しているのだ。まさに御遺命違背以外の何物でもない。

小括

 以上のとおり、昭和42年当時、5年後の正本堂完成(昭和47年)までに日本一同が信じ奉る広宣流布が達成される具体的な予定はなかった。しかるに、宗門は池田大作にへつらって、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆した。よって、宗門は昭和42年当時、すでに大聖人の御遺命に違背していたのである。

(続く)