未だに大聖人の御遺命に背き続ける日蓮正宗
顕正新聞令和3年3月25日号に、すごい記事がありました。その名も、「謀略紙『慧妙』苦しまぎれの弁明」「大草一党の痴論を破し、宗門の御遺命違背を糾弾す」!藤村副教学部長が書いた記事です。
私も一読しましたが、宗門の無道心ぶりとなりふり構わない邪義には呆れてしまいました。こんなデタラメな邪義を信じ込んでいる法華講員がいるとしたら、ほんとうにかわいそうです。
そこで、今回は、顕正新聞に掲載された記事を紹介したいと思います。一分の道念ある法華講員はぜひご一読あれ!
「大草一党の痴論を破し、宗門の御遺命違背を糾弾す」
第1 昭和42年の高僧発言について
宗門の御遺命違背
まず宗門高僧らの御遺命違背の発言を確認しておく。宗門高僧らは、昭和42年の正本堂発願式において、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」であると断定・讃嘆した。
一例を挙げれば、当時宗会議長であった佐藤慈英は「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」と述べている。
このように、三大秘法抄にお定めの条件を無視した偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と断定する発言が、大聖人の御遺命に背き奉るものであることは明らかである。そして、宗門は、かかる高僧らの発言を機関誌「大日蓮」に掲載し、宗門として公表していた。
よって、宗門は、昭和42年当時、すでに御遺命に違背していたのである。
弁明①―「正本堂完成までに広宣流布が達成すると期待していた」とのウソ
これに対し、大草一党は、〝当時は正本堂が完成するまでに広宣流布が達成し、御遺命の戒壇になるとの期待があったから、正本堂を「御遺命の戒壇」と断定したことも御遺命違背ではない〟旨を縷々述べている。要するに、〝当時は正本堂が「御遺命の戒壇」になると期待していたから、わざとじゃなかった〟との言い訳である。
しかし、そもそも宗門高僧らは、「正本堂ができる時には広宣流布が達成されて、正本堂は御遺命の戒壇になる」と述べていたのではない。逆である。「正本堂の建立を以て広宣流布は達成、御遺命は成就」と偽っていたのだ。ゆえに御遺命違背なのである。
このことは、「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり」等の高僧発言を見れば瞭然である。見え透いた嘘はやめよ。
御遺命破壊の確信犯
また、昭和42年当時、正本堂の完成時までに広宣流布が達成される具体的な予定ないし見込みもなかった。
この事実は、今回、はからずも大草一党自身が認めてしまった。いわく「当時の創価学会の発表によれば、会員増加は実にめざましく、年々、三百万世帯、四百万世帯、五百万世帯と急増しており、このままの勢いで行けば、正本堂が完成する頃には当時の日本の総世帯数の三分の一にあたる一千万世帯に達するであろう、と見られていた」と。
これは一体どうしたことか。大草一党自身、当時、正本堂の完成までに日本一同が信じ奉る広宣流布が達成される見込みがなかったことを認めているではないか。また、仮に「日本の総世帯数の三分の一」が入信したとしても、未だ戒壇建立のための国家意志の表明に至らないことも自明である。
まさに知るべし。宗門は昭和42年当時、5年後の正本堂完成までに広宣流布が達成される予定ないし見込みがないことも、まもなく建設が始まる正本堂が国家意志の表明を欠く偽戒壇であることも、すべて知っていたのだ。知っていながら池田大作にへつらい、正本堂を「御遺命の戒壇」と偽称した。まさしく御遺命破壊の「確信犯」ではないか。今になって「期待していた」(わざとじゃなかった)などととぼけてはいけない。
弁明②―「心こそ大切」との欺瞞
また、大草一党は、昭和42年当時、やはり正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆していた大村寿顕(当時教学部長)の発言について、「大村御尊能化は、全く法義に違背などしていない」と言い張っている。
そもそも、大村自身が、「私も・・・池田名誉会長と同様の事柄を述べたことがありました」、「私の過去の発言の過ち」と、自らの発言の誤りを認めているにもかかわらず、「全く法義に違背などしていない」と真逆のことを言い放つ大草一党の異常性には呆れるほかないが、そのこじつけ方がまた実に稚拙でおもしろい。
いわく、「御尊能化が純粋に広宣流布達成を期待する心から述べられた言葉と、池田大作の邪悪な念慮から出た発言は全く異質な別物である。こうした『心』『念慮』の持ちようは仏道修行において極めて大切なものであり、そのことを大聖人は『心こそ大切に候へ』(御書一二九〇頁)『ただ心こそ大切なれ』(御書一四〇七頁)等と仰せである」と。
これ不便の引証である。言うまでもなく「心こそ大切に候へ」等の御金言は、〝内心の如何によっては御遺命に背く発言をしても許される〟という意味では全くない。そのため、これらの御金言は、宗門高僧らの御遺命違背の発言を何ら正当化する根拠にはなり得ない。
また、大村ら高僧が当時、「正本堂の完成までに広宣流布が達成すると期待していた」との弁解が虚偽であり、広布達成の予定・見込みがないことを知りながら御遺命に背いた確信犯であることは前述した。
したがって、大草一党の「心こそ大切」云々との弁明は失当である。
弁明③―「浅井先生も正本堂を『御遺命の戒壇』と述べていた」とのウソ
大草一党は、宗門の御遺命違背の禍根を匿さんと、〝浅井先生も正本堂を「御遺命の戒壇」と述べていた〟などと見え透いた嘘をつく。
これについては、前回「浅井先生が正本堂を『御遺命の戒壇』と認めていた事実は存在しない」と指摘したが、結局、大草一党は、先生が正本堂を「御遺命の戒壇」と述べたご発言を見つけることができなかったらしい。当然である。
そこで、前回と同じペテンを性懲りもなく繰り返す。すなわち、浅井先生が昭和40年5月の総幹部会で仰せられた、「その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い思召しにより、大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります」等のご発言を歪曲し、〝これは浅井先生が正本堂を「御遺命の戒壇」と述べたもの〟と言い張っている。
やはり大草一党には日本語がまともに読めないらしい。ゆえに「大客殿の奥深き正本堂」、「徐々に」との文言を読み飛ばし、書かれてもいない事柄が読めてしまう。もし「わざと」ではないとしたら、何とも不憫な御仁である。
すでに指摘したとおり、浅井先生は当時、正本堂を御遺命の戒壇ではなく、あくまで奉安殿の延長として、国立戒壇建立のその日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として認識されていた。
ゆえに当時の妙信講員たちも正本堂につき、「戒旦の大御本尊のお住まいである正本堂」、「戒旦の大御本尊様を御安置申し上げる正本堂」とのみ述べ、「御遺命の戒壇」とは一言も述べていなかったのである。もし浅井先生が講員に対し、正本堂こそ「御遺命の戒壇」であると指導していたなら、かかる反応はあり得ない。
先の浅井先生のご指導を〝正本堂を「御遺命の戒壇」と述べたもの〟などと誤読する者は、御遺命違背の罰で正常な判断能力を失った頭破七分の輩だけである。
第2 正本堂訓諭について
宗門の御遺命違背
次に、細井日達が昭和47年4月28日に発布した正本堂訓諭の御遺命違背を示す。
細井日達は訓諭において、正本堂の意義につき、「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と述べた。これは、正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と断定したものである。
しかし、未だ広宣流布も達成していない段階で「御遺命の戒壇となる建物」を建ててしまうことは、三大秘法抄に定められた時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御制誡に背くことになる。
よって、正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と断定した細井日達の訓諭は、大聖人の御遺命に背き奉るものである。
弁明①―「戒壇の建物を前もって建てても問題ない」との痴論
これに対し、大草一党は、独りよがりな己義を縷々並べた上で、結論として次のように弁明する。
「来るべき広宣流布の時に備え正本堂を建立しよう、と御考えになられた日達上人はじめ当時の宗門が、建物を先に作ったから御遺命違背だ、などという非難に当たらぬ」と。
要するに、〝御遺命の戒壇となる建物を前もって建てて何が悪い〟と開き直っているのである。
では反詰する。大草一党が信伏随従する阿部日顕は、かつて2冊の悪書において「戒壇の建物は広布完成前に建ててよい」と書いたことにつき、後年、「言い過ぎやはみ出しがある」と誤りを認めているが、この阿部の言葉も間違っているといえるのか。
馬脚はここに現れている。大草一党の弁明は、御金言に背き奉る己義であるのみならず、阿部日顕の所説にも矛盾するものである。
御金言を見てみよ。大聖人様は三大秘法抄に、戒壇建立の時・手続を明確に定められ、かかる条件が整うまでは「時を待つべきのみ」と固く建立を制誡し給うておられる。ゆえに、前もって建てたら違背なのである。
弁明②―「建立」の意味のたばかり
このように、御金言に背いていることを自覚する大草一党は、先の己義を正当化するために、本門戒壇の「建立」という言葉の意味を次のように歪曲する。
「『建立』といっても、ここでは、建築的に建てるという狭い意味ではなく、広宣流布の暁には大石寺が改称されて、事の戒法の大功徳を発現する本門寺戒壇の意義が現れる、ということを指しているのである」と。
これ全くの己義である。いったい、何をどう読んだら「建立」の二字が「広宣流布の暁には大石寺が改称されて…」の意となるのか。「こくご」が苦手な彼らのために少々解説すれば、そもそも「建立」とは「寺院・堂塔などを建設すること」(広辞苑第7版)である。戒壇という建物を「建立する」との文脈であれば、〝建設する〟の意であることは自明である。
何より、御本仏の御金言を拝すべきである。三大秘法抄には、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ」と。ここでの「建立」が、戒壇(建物)を〝建設する〟の意であること、誰の目にも明らかではないか。「大石寺が改称されて」云々の意がどこにある。
さらに歴代上人の御指南との矛盾はどうする。
すなわち、第37世・日琫上人は、「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り。此の時においては富士山の麓・天生原に戒壇堂造立あって」(御宝蔵説法本)と仰せられ、
第59世・日亨上人は、「三堂建立は興師の御理想なるも、実現は大国主すなわち大日本国皇帝陛下の御命により一時に大荘厳を極めた建造が、富士の裾野の最勝の地に建立せらるべきで、それがすなわち本門寺とも大本門寺とも、また本門戒壇もその中心に立つべきである」(富士日興上人詳伝)と仰せられ、
後に御遺命に背いた第66世・細井日達も、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華35年1月号)と述べている。「造立」、「建造を建立」、「建設」とは、いずれも〝戒壇(建物)を建設する〟の意ではないか。
まさしく大草一党の「建立」についての己義は、大聖人様の御金言及び歴代上人の御指南に背き奉る邪説である。
以上より、御遺命の戒壇が広宣流布の暁に国家意志の表明をもってはじめて建立(建設)されるものであることは明白である。そして、大聖人様は、かかる条件が整うまでは「時を待つべきのみ」と固く御制誡あそばされている。
したがって、三大秘法抄にお定めの時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御制誡に背いて建てた偽戒壇を「御遺命の戒壇となる建物」と断定した細井日達の訓諭を、御遺命違背というのである。
弁明③―「日興上人も御遺命違背になる」との痴論
なお、大草一党は何を血迷ったのか、次のような痴論も述べている。
「日興上人は、広宣流布の時に備えて、予(あらかじ)め本門寺の前身たる大石寺を建立あそばされた、と拝せられる」、「こうした日興上人の尊(とうと)い御配慮も、藤村らの論法で行けば、『未だ広宣流布が達成されていないのに、戒壇となるべき本門寺を予め作ってしまったのだから御遺命違背だ』ということになってしまうではないか」と。
これ全くの虚偽である。日興上人がいつ、大石寺を指して「御遺命の戒壇となる建物」と仰せられたのか。
日興上人は、御遺命の本門寺(本門戒壇)について、〝広宣流布の時至り、国主が三大秘法に帰依したときに建てよ〟と明確に御指南下されている。すなわち、富士一跡門徒存知事の「本門寺を建つ可き在所の事」における「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てらるべきなり」との仰せがそれである。
大草一党よ、妄想と現実を混同して日興上人を貶めるのはやめよ。
第3 浅井先生の正しさを認めてしまった大草一党
付言すると、大草一党は、今回、宗門の御遺命違背についての弁明に躍起になるあまり、つい筆が滑って浅井先生の正しさを認めてしまった。
いわく、「そもそも『国家意志の表明』は広宣流布達成の暁(あかつき)に示されるものであり、広宣流布とセットで考えるべきものである」と。
これは、戒壇建立の手続として〝国家意志の表明〟が必要であるとする顕正会の主張を認めたものにほかならない。一期弘法付嘱書・三大秘法抄の御文を正直に拝せば、かかる結論にならざるを得ないであろう。
しかるに宗門は、広布以前に国家と無関係に建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽称しただけでなく、正本堂が崩壊した後も、未だに国立戒壇を怨嫉し、「勅宣・御教書」たる国家意志の表明による戒壇建立を否定し続けている。いかにも無慚無愧ではないか。ゆえに、御遺命違背というのである。
第4 結語
以上、宗門の御遺命違背を総括すれば、次のとおりである。
①未だ広宣流布も達成せず、国家意志の表明による建立とならないことを知りながら、池田大作にへつらって偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆し、御遺命に違背した。
②広布以前に国家と無関係に建てた正本堂を、「時の貫首」の最高指南である訓諭をもって「御遺命の戒壇となる建物」と断定し、御遺命に違背した。
③かかる重大な御遺命違背を犯しながら未だに真の懺悔なく、国立戒壇を怨嫉し、「勅宣・御教書」たる国家意志の表明による戒壇建立を否定し続けている。
大聖人様は一期弘法付嘱書の末文に、「就中、我が門弟等、此の状を守るべきなり」と仰せられている。この重大の御遺命に背く者は、まさに師敵対の逆徒・魔の眷属である。
ゆえに御遺命違背の宗門僧俗は、「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(顕立正意抄)との御金言のごとく、改悔がなければ入阿鼻獄は疑いない。
浅井先生は顕正新聞新年号において、「正本堂の崩壊こそ、まさに第六天の魔王の敗退であり、池田大作・細井日達・阿部日顕等のたばかりの終焉であった」と仰せられたが、すでにたばかりが終焉したにもかかわらず、未だに改悔なく御遺命に背き続ける宗門の無道心は度し難い。
早く御遺命違背の大罪を改悔し、日淳上人の頃の清らかな宗門に立ち還り、国立戒壇の正義を宣揚しなければならない。