人は死んだらどうなるか?

死んだら終わり?

 まちかどで「日蓮大聖人の仏法」の広告文を配布していると、「ふん、どうせ死んだら終わりなんだから、今を楽しむことが大切だよ!」と言う人に出会うことがあります。

 もちろん、今を楽しむことは大切ですよね。でも、ほんとうに「死んだら終わり」なのでしょうか・・・?

 こう書くと、「ふふふ、これだから宗教の人は困るね!死んだ先のことなんて誰もわからないんだから、考えるだけムダさ!」という、ちょっとインテリ気味な方の声が聞こえてきそうです。

 でも、それって実は、自分の無智を棚に上げて現実から目を逸らしているにすぎません。なぜなら、人は最後には必ず臨終を迎えるからです。この問題から目を逸らしていては、ほんとうに確信のある人生を送れるはずがありません。

 そこに日蓮大聖人は、「人の寿命は無常なり。・・・されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せられているのです。

 また、よくよく考えてみると、「死んだら終わり」という意見には何の根拠もありません。「えっ、でも、死んだら体が無くなってしまうでしょう?」と思うかもしれませんが、「目に見えなくなるから無になる」というのは大変な誤解です。

 たとえば水は蒸発すると気体になって見えなくなりますが、「無」になったのかというとそうではありません。このことは中学生くらいになれば誰でも学校で学ぶことですが、こと生死ということになると、途端に「目に見えなくなるから無になる」と思い込んでしまうのです。

 では、はたして人は死んだらどうなるのでしょうか。ほんとうに「死んだら終わり」なのでしょうか。ここに生命の極理を証得された御本仏・日蓮大聖人の仏法を学ぶ重大さがあるのです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

死は終わりではない

 仏法を知らぬ者が懐く生命に対する最大の偏見は、「生命はこの世限り」「死ねばすべては終り」と思っていることである。その結果、自己を消滅させる死に対して限りない恐怖を懐いたり、あるいは死後の因果を無視して放縦に走る。

 だが、死は決して終わりではない。生も死も、生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎない。生命そのものは、新たに生ずるものでもなければ、消滅するものでもない。これを「本有常住」という。「本有」とは、我らの生命は神が作ったなどというものではなく、大宇宙と共に本(もと)から有るということ。「常住」とは、一瞬の断絶もなく存在し続けているということである。

 この生命の本質について大聖人は総勘文抄に

 「生と死と二つの理は、生死の夢の理なり、妄想なり、顛倒なり。本覚のうつつを以て我が心性を糺せば、生ずべき始めも無きが故に死すべき終りも無し、既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども、芥子も広からず心法も縮まらず。虚空の中に満つれども、虚空も広からず心法も狭からず」と。

 ―生と死と二つの現象を、生命の新たな発生とか消滅と思うのは夢の理であり、妄想である。もし本有常住の覚(さとり)を以て我が生命の本質を見れば、生ずべき始めも無いゆえに死すべき終りもない。まさに生死を離れた無始無終の存在である。したがってこの生命は劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、刀にも切られず、弓矢にも射られない。また芥子粒のような微小の中に入っても、芥子が広がったり心法が縮まることもない。虚空(おおぞら)の中に遍満しても、虚空が広すぎたり、心法が狭いということもない―と。

 これ、宇宙と共に常住する我々の生命の、不可思議な本質を御指南下されたものである。

基礎教学書第4章「三世常住の生命」

 いかがでしょうか。仏智の偉大さにはただ驚嘆のほかありませんね。私たちの生命は、生死を離れた無始無終の存在であり、宇宙とともに常住しているのです。

どうして生死があるのか

 「ふんっ、オレはそんなの信じないぞ!もし生命が永遠なら、なんで生死があるんだよ!?」と思われた、そこのあなた!

 ・・・たいへん良い質問だと思います(笑)

 その答えもまた、日蓮大聖人の仏法にあります。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 では、この本有常住の生命になぜ生死があるのかといえば、生死は生命が常住する上での妙理なのである。すなわち生命は一瞬たりとも静止せず、絶えず変化し、生死を繰り返しながら常住している。

 この理は、我らの生命だけではない。およそ宇宙に存在する万物はみな因縁によって生じ、因縁によって滅している。宇宙そのものも「成・住・壊・空」という生滅のリズムを繰り返しつつ存在している。人間の生命もまた然り、生死・生死を繰り返しながら、大宇宙と共に常住しているのが実相である。

 大聖人はこの理を

 「我等が厭い悲しめる生死は、法身(生命)常住の妙理に有りけるなり」(色心二法抄)と。

 また

 「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」(生死一大事血脈抄)

 ―生死という現象は生命に具わる不可思議な働きであり、「有無」すなわち生は形づくられるから「有」、死は無相になるから「無」、この有相・無相の変化も、永遠の生命を覚知した目で見れば、本有の生死・本有の有無となる―と。

 凡夫が「死は消滅、すべての終り」と思うのは、死によって生命が無相になることを即「無」と錯覚するところから起きる。しかし無相とは、姿・形はないが存在している状態をいう。

 たとえば、空中に存在する紫外線・赤外線・電波などは肉眼では姿・形をとらえることはできないが、その存在を疑う者はない。無相は「無」ではないのである。

 仏法では、人が死んでから次の生を受けるまでの間を「中有」という。中有の生命は無相である。涅槃経には

 「中有の五陰(生命の要素としての色・受・想・行・識)は肉眼の所見に非ず、天眼の所見なり」と説いている。

 この無相の生命が、父母を縁として肉体を形づくり姿を現わすのが「生」であり、組織した色法(肉体)を宇宙に還元して再び無相の心法に帰するのが「死」である。

 ゆえに色心二法抄には

 「天地冥合して有情・非情の五色とあらはるる処を生と云い、五色の色還って本有無相の理に帰する処を死とは云うなり」と説かれている。「天地」とは、ここでは父母の意である。

 以て、生死という現象が、永遠の生命における有相から無相、無相から有相という、存在形態の変化に過ぎないことがわかるであろう。

 そして大事なことは、我々の生命はこの生死を繰り返しながら、過去世・現在世・未来世の三世にわたって連続し、これに伴い幸・不幸の因果も、鎖の輪のごとく三世につながっているということである。

基礎教学書第4章「三世常住の生命」

 いかがでしょうか。「生死」というのは、永遠の生命が大宇宙とともに常住していく上での妙理であり、存在形態の変化にすぎないのです。

現当二世にお救いくださる

 そこに、過去・現在・未来と三世にわたって幸・不幸の因果がつながっていることを知るとき、現世だけでなく死後も未来永劫にわたりお救い下さる日蓮大聖人の仏法の有難さが、より深く命に収まると思います。このように私たち凡夫を現当二世(現世と当来世)にお救い下さる仏様が、じつに日蓮大聖人なのです。

 そして、生死を乗り越えて永遠に崩れぬ無上の幸福境界である「成仏」を得させて頂けることを示す現証こそ、いま多くの顕正会員の臨終にあらわれる「色白く、軽く、柔らかい」成仏の妙相なのです(詳しく知りたい方はこちらの記事をご覧ください)。