臨終の証拠

「信じマスカ?」と言われても・・・

ある日、街を歩いていたら、突然、見知らぬ外国人に声をかけられ、「アナタは、神(ゴッド)を、信じマスカ?」と問われて驚いた、という経験はないでしょうか?ちなみに私は2回ほどあります(笑)

さて、「神(ゴッド)を信じるか?」と問われれば、「信じません」というのが偽りなき答えです。

なぜなら、神(ゴッド)というものが存在する証拠は何もないからです。

もっとも、これはすべての宗教に共通することです。何も証拠がない宗教を、どうして信じることができるでしょうか。

特に、死んだ後のことについてはそうですよね。「天国に行く」とか「極楽往生する」とか「ゴッドになる(笑)」とか、どれもこれも証拠がないものばかりです。

このような話を信じるのは、残念ながら、ありもしない壮大な「おとぎ話」を信じているのと同じです。

だから世間では、「どうせ宗教でしょ?」などと小バカにする風潮があるのでしょう。

しかし、日蓮大聖人の仏法だけは違います。「おとぎ話」ではなく、現実に存在する生命・生活の根本の法則なのです。

なぜそのようにいえるのでしょうか。

それは、大聖人の仏法には、誰人も否定できない厳然たる「証拠」があるからです。

その「証拠」とは「臨終の相」です。

驚くべきことに、大聖人が説かれる「成仏」という境界がたしかに存在することが、なんと「臨終の相」に現れるのです。

堕獄の相、成仏の相

浅井先生のご指導を拝してみましょう。

では、死後の堕獄あるいは成仏は、何によって知ることができるのであろうか。現世にその証拠がなければ、死後のことは誰人にも信じられない。仏法は空理空論ではない、すべて証拠を以て論ずる。

その証拠とは、臨終の相である。

臨終は現世の終り、そして来世への出発の一刹那である。この臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が顕われるのである。この法則性を説き切った教えは、仏法以外には断じてない

この法則性について大聖人は

日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり、乃至、されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へ集めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、少しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う、乃至、人・天とは見へて候」(妙法尼御前御返事)と。

「少しもくもりなし」と仰せられている。では、具体的に地獄の相あるいは成仏の相とはどのようなものか。

神国王御書には、中国における真言宗の元祖・善無畏三蔵が地獄に堕ちた証拠として

善無畏三蔵は、乃至、死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後色の黒きは地獄に墜つとは一代聖教に定むる所なり」と。

善無畏三蔵の遺体の「色黒き」を以て、堕獄と断定し給うておられる。

また千日尼御前御返事には

人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石(いわ)の如し。善人は設(たと)い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭(やわらか)なる事兜羅綿(とろめん)の如し」と。

御教示は克明である。地獄に堕ちる者は臨終ののち、身体全体が黒くなるうえ、不思議に遺体が重くなるだが成仏する者は、死してのち色が白くなり、その遺体は軽く、かつ柔かである-と仰せられる。

およそ臨終だけは、人の意志のおよぶところではない。しかるに臨終の法則性をかくのごとく説き切る仏法の凄さ、仏智の偉大さには驚嘆のほかない。もし仏法で説く三世の生命が空論であるならば、どうして臨終にこのような現証があらわれようか

私事にわたるが、私の父(妙信講初代講頭)は昭和五十九年四月、八十歳で亡くなった。信心強盛の父の臨終はみごとであった。臨終正念に、死後の相は色白く、半口半眼にして柔かく、御金言のままであった。その三年前に亡くなった母もまた素晴らしい相であった。-御金言は絶対であった。私は父母と別れた悲しさよりも、大聖人の大慈大悲、成仏の有難さに感泣したこと、今でも憶えている。

(基礎教学書・日蓮大聖人の仏法「第四章 三世常住の生命」より)

いかがでしょうか。

臨終の後にどんな相(顔)になるかなんて、自分の意志でどうこうできるものではないですよね。

しかし、大聖人の仏法を正しく実践して「成仏」を遂げるならば、たとえ生前は色黒の人であっても、臨終に際して色が白くなり、軽く、柔かくなるのです。なんと不思議なことでしょうか。

逆に、地獄に堕ちた者は、臨終の後に遺体が黒くなり、また重くなります。

このことは、真言宗の元祖・善無畏三蔵の例にみるごとく、歴史が証明するところです。

このように、大聖人が説かれる「成仏」の境界は、空理空論ではありません。

誰の目にもわかる、厳然たる証拠が臨終にはっきりと現れます。

だから、私たちは大聖人の仏法を信じ切ることができるのです。

臨終の善悪は「仏法の邪正」による

「へえ、なるほど。遺体の相がどうかなんて考えたこともなかったけど、成仏するとそんなふうに遺体が変わってくるなんて、本当に不思議だね!でも、成仏って、どうやったらできるの?また、地獄に堕ちるのはどんな人たちなのかな?」と思われた、そこのあなた!

・・・たいへん素晴らしいと思います(笑)

これはとても大事な問題ですよね。

「人生の目的とは(その1)」「人生の目的とは(その2)」でも書きましたが、人生の究極の目的は「成仏」を得ることですから、どうやったら「成仏」できるかがきわめて重要になってきます。

うっかり地獄なんかに堕ちてしまったら、それこそ取り返しがつきません。

では、臨終の善悪は何によって決まるのでしょうか。

答えはズバリ、「仏法の正邪」です。

再び浅井先生のご指導を拝してみましょう。

さて、臨終の善悪を決する最大の要因は世間の善悪よりも仏法の邪正である。大聖人は謗法が悪臨終を招くことについて、真言宗の元祖等を例として次のように仰せられている。

一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(教行証御書)

また念仏宗の法然一党の臨終については

法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし」(断簡)

さらに清澄山において大聖人を強く憎み敵対した円智房等の臨終について

眼前の現証あり。乃至、日蓮こそ、念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底に堕つべしと申したりしが、此の人々の御臨終はよく候いけるか、いかに」(下種本仏成道御書)と。

一方、三大秘法を清らかに持つ者は、御本尊のご守護により、本来人間にとって何よりも恐ろしく苦しい臨終も安らかに、そして死後の生命も仏界へと導かれる

所詮、臨終只今にありと解(さと)りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是の人命終せば、千仏手を授けて、恐怖せず悪趣に堕ちざらしむ』と説かれて候」(生死一大事血脈抄)と。

臨終のとき「千仏」が手をさしのべて、死を恐怖させず悪道に堕とさしめないとある。「千仏手を授けて」とは、末法救護の御本仏・日蓮大聖人が御守護下さるということである。ゆえに

中有の道にいかなる事もいできたり候わば、日蓮が弟子なりとなのらせ給へ」(妙心尼御前御返事)

また

御臨終のきざみ生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし」(上野殿御返事)と。

臨終のとき、大聖人様が必ずお迎いに来て下さるとは、なんと有難いことか。

さらに、死後の生命が仏界に導かれ自受法楽する歓喜の境界について

退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと見るならば、あら面白や、法界寂光土にして瑠璃を以て地とし、金の縄を以て八の道を界(さか)へり、天より四種の花ふり、虚空に音楽聞えて、諸仏・菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや。我等も其の数に列(つら)なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり。信心弱くしてはかかる目出(めで)たき所に行くべからず、行くべからず」(松野殿御返事)と。

人間にとって、最も恐ろしく悲しい死が、かえって成仏の自受法楽の大境界を得る入口となる。ゆえに「あら面白や」と仰せられる。仏法による現当二世の大願はここに成就するのである

ただし、たとえ大聖人の弟子であっても、信心が弱ければ一生成仏は叶わない。ゆえに「信心弱くして成仏の延びん時、某(それがし)をうらみさせ給うな」(新池御書)と。

また信心不純にして大聖人の御心に背くならば、悪相を現ずる

我(わが)弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云々」(顕立正意抄)と。

この御文、肝に銘じて忘れてはならない。

(基礎教学書・日蓮大聖人の仏法「第四章 三世常住の生命」より)

いかがだったでしょうか。たいへん有難いご指導に、思わず感激が込み上げます。

臨終は一生の総決算ですから、生前に犯罪などの悪業を積めば、もちろん臨終に障ります。

しかし、先生仰せのごとく、「臨終の善悪を決する最大の要因は世間の善悪よりも仏法の邪正」ですから、正しい仏法を誹謗したり、あるいは間違った宗教を信じてしまったりすることが、実はもっとも臨終に障るのです。

これを「謗法(ほうぼう)」といいます。

一方、大聖人の仏法を正しく実践する者は、必ず一生のうちに成仏を遂げることが叶います。

ゆえに「人間にとって、最も恐ろしく悲しい死が、かえって成仏の自受法楽の大境界を得る入口となる」のです。なんと有難いことでしょうか。

細井日達の悪臨終が意味すること

ただし、1つ注意しなければならないことがあります。

それは、たとえ大聖人の弟子であっても、「信心不純にして大聖人の御心に背くならば、悪相を現ずる」ということです。

ここに思うことは、宗門(日蓮正宗)のトップであった第66世・細井日達の悪臨終です。

日達は、昭和54年7月、フジヤマ病院に入院中、突如激甚の発作に襲われて臨終を迎えました。

その臨終の相は、なんと「今までに見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だった」とのことです。

この日達の悪臨終は何を物語っているのでしょうか。

それは、たとえ時の貫首であっても、大聖人一期の御遺命たる国立戒壇を否定し、御遺命の敵となるならば、無間地獄に堕ちるということです。

また、「師は針の如し、弟子は糸の如し」であれば、いま御遺命違背の宗門(日蓮正宗)に籍を置き、国立戒壇を誹謗する者がいかなる末路を辿るかも、自ずと明らかです

ちなみに、宗門はよほどこの事実を知られたくなかったのでしょう。これまで数十年間にわたり、細井日達の悪臨終について一切伏せてきました。

しかし、近年、顕正会に入信した男子部第80隊・内藤組長の証言により、ついに明らかとなってしまいました。

そこで、いま法華講員の中には、なんとか周囲の(あるいは自分の?)動揺を抑えようと、「あの登壇はでっち上げだ!」、「日達上人の臨終は良かった!」などと、必死になってウソの情報を垂れ流している者もいるようです。いやはや、本当に惨めですね(笑)

しかし、冷静に考えてみてください。

男子部第80隊・内藤組長は、昭和25年に富士宮市で生まれ、母親が細井日達の縁戚であったことから、両親とも大石寺の宿坊で働いていました。彼自身、小学校まで大石寺周辺に住み、大石寺境内が遊び場だったそうです。

もちろん、彼の母親は熱心な法華講員でした。その母親が、縁戚として細井日達の葬儀に参列した際、日達の「今までに見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相」を眼前にしたことから、あまりのショックにそのことを内藤組長に打ち明けたというのです。

もしも母親が創価学会員などであれば、宗門憎しのあまり、息子に対してウソの情報を伝えることもあるかもしれません。

しかし、大石寺の宿坊で働いていたほどの熱心な法華講員であった母が、よりによって時の貫首の臨終の相について、どうして息子にウソの情報を伝えることがあるでしょうか。彼の証言は真実なのです

もちろん、信じないのは法華講員たちの勝手です。

しかし、事実は事実です。どれだけ「でっち上げだ」と強がろうとも、また、どれほど理屈をこねて取り繕おうとも、細井日達が「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相」であったことは紛れもない事実です。

そして、大聖人の御金言に照らせば、それはまさしく「無間地獄の相」以外の何物でもありません。

我(わが)弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云々」(顕立正意抄)

また「一切は現証には如かず。・・・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(教行証御書)と。

かかる大聖人の厳たる御裁断が明らかとなった以上、宗門はこれを真摯に受け止め、今こそ御遺命破壊の大罪を深く懺悔し、国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません。

一切は現証には如かず

一方、顕正会では、毎月の集会で「成仏」の登壇が尽きません。

まさに「一切は現証には如かず」(教行証御書)。

これこそ、顕正会だけが大聖人の御心に叶う信行をしている「証拠」なのです。