大聖人のお題目と私たちのお題目の功徳に違いはあるか?

ある日、勤行をしていたら・・・

 ある日、勤行をしているとき、ふと「そういえば、日蓮大聖人がはじめてお題目を唱えてくださったから、私たちもお題目を唱えられるんだ。有難いな・・・」としみじみと思ったことはありませんか?

 そうなんです、私たちが有難いお題目を唱えられるのも、実に日蓮大聖人が建長5年4月28日、身命に及ぶ大難が必ず来ることをご覚悟のうえで、全人類の成仏のためにお題目を唱え始めてくださったからなんです。その大慈大悲を思うと、なんともいえない有難さがこみ上げます。

 すると、思わずいろんな想像が湧いてきます。「大聖人のお唱えになるお題目って、どんなお題目だったんだろう・・・」、「やっぱり、私たちとは功徳の大きさも全然違うのかな・・・」などなど。

 ところが大聖人は、「松野殿御返事」という御書に、驚くようなご教示を下されているのです。なんと、大聖人が唱え給うお題目と、私たち凡夫が唱えるお題目の功徳は、全く同じなのだ―と。いやはや、なんとも驚きですよね。

 では、何もわからない私たちがお題目を唱えるだけで、どうして大聖人と同じ功徳を頂けるのでしょうか?

 浅井先生の「『松野殿御返事』を拝し奉る」の一節を拝してみましょう。

凡夫が唱える題目の功徳を問い奉る

 「御文に云く、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱え申し候なり。但し聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我等が唱え申す題目の功徳と、何程(いかほど)の多少候べきやと云々。

 初めに松野殿の質問を挙げておられる。松野殿は手紙でこうお伺い申し上げた。―入信してよりは、一日も怠けることなく、方便品の十如是と寿量品の自我偈を読み、お題目をしっかり唱え奉ております。ただし、大聖人のお唱えあそばす題目の功徳と、我等凡夫が唱え奉る題目の功徳と、どれほどの違いがありましょうか―と。

 大事な質問ですね。松野殿はまさに末法の一切衆生を代表して、お伺いしたことになる。そうでしょう―

 大聖人様は南無妙法蓮華経の深い意味をすべて御存知の上でお唱えあそばされている。しかし我等凡夫は何もわからずに唱えている。果して功徳にどれほどの違いがあるのか―と。こう思うのは当然ですね。そこでお尋ね申し上げたのです。

 「更に勝劣あるべからず候。其の故は愚者の持ちたる金(こがね)も智者の持ちたる金も、愚者の燃(とも)せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。

 大聖人様は何と答え給うたか。

 「更に勝劣あるべからず」と―少しも勝劣はない。功徳は全く同じであると仰せられた。

 そしてそのわけを譬えを以て

 ―愚者が持った金(こがね)も智者が持った金も、金に変わりはない。また愚者がともした火も智者がともした火も、火に変わりはない。このように全く差別はないのである―と仰せられた。

 何と有難いことか。だから我等凡夫がお題目を唱えて仏に成れる。臨終に成仏の相を現ずることができるのであります。

 もう少し説明すれば、こういうことです。

 大聖人様は透徹の御智恵を以て、御自身の生命に具わる事の一念三千の南無妙法蓮華経をお覚りになり、御本仏の大境界に立たれた。そして一切衆生をも仏に成さしめんと大慈悲を起こされ、御自身のお覚りの全体を御本尊に顕わされ、我等に授与して下さった。

 我等凡夫には御本尊の深義は何もわからない。しかし、ただこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我れと唱えるお題目に身も心も引かれ、御本尊・日蓮大聖人と一体にならせて頂ける。これが信心口唱の功徳なのです。御本尊に仏力・法力がましますゆえに、信力・行力すなわち信心口唱に励めば、何もわからなくても、自然と成仏させて頂けるのであります。

 このことを四信五品抄には

 「小児乳を含むに、其の味(あじわい)を知らざれども自然に身を益す。耆婆(ぎば)が妙薬誰か弁えて之を服せん」と仰せられている。

 赤児には母乳の栄養成分はわからない。しかし飲めば自然と育つ。耆婆(ぎば)という名医の作った薬は誰もその成分を知らなかった。しかし飲めば自然と病が癒えたという。

 いま大聖人様は「御本尊」という薬を作って下さったのです。この薬を服むに当るのが、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉ることです。この信心口唱により、自分に覚りはなくとも必ず成仏させて頂ける。

 ゆえに本因妙抄には

 「信心強盛にして唯(ただ)余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡身即仏身なり」と仰せあそばすのであります。

大聖人の心に背いて唱えても功徳はない

 いかがだったでしょうか。浅井先生のわかりやすいご指導により、大聖人がお唱えあそばすお題目と私たちが唱えるお題目の功徳が全く同じであることが、よくわかりましたね。

 ちなみに、「松野殿御返事」には、この後、「但し此の経の心に背きて唱えば、其の差有るべきなり」との一節があります。

 この御文について浅井先生は、「『此の経の心に背く』とはどういうことか。その元意(究極の意)は、日蓮大聖人の御心に背くことです」として、大聖人の御心に背いて唱える功徳なき題目について具体的にお教えて下されています。

 よく折伏の席で、「南無妙法蓮華経なら、他の団体だって唱えてるし、別に顕正会じゃなくてもいいんじゃない?」と言ってくる人がいますが、実はそうではないんです。

 せっかくのお題目も、大聖人の御心に背いて唱えては功徳がありません。だから、大聖人出世の本懐である戒壇の大御本尊を信ぜず、誹謗している学会や諸々の邪宗日蓮宗はもちろん、大聖人一期の御遺命に背いている宗門(日蓮正宗)などでは、いくらお題目を唱えても功徳がないのです。

 そこに、いま正系門家において唯一、大聖人の御遺命を守り奉り、戒壇の大御本尊を一筋に信じて、大聖人の御心に適うお題目を唱えられる顕正会員の立場は、なんと有難いことでしょうか。

 だから、顕正会員はみな大功徳を頂き、一生成仏を遂げさせて頂くことができるのです。