なぜ日蓮大聖人の仏法は末法濁悪の一切衆生をお救い下さる唯一の正法なのか

みんなが求めている「正法」とは?

 「世の中に、ほんとうにお救い下さる正しい法はないものか・・・

 こう思われる方が、きっとたくさんいると思います。

 そこで、正月になれば初詣、悩みがあれば占い・神社、そして人によってはいかがわしい邪教に手を伸ばしてしまう・・・。そんなことがあるかもしれません。

 昨年の総幹部会でも、ある男性が、以前にテレビによく出ていた「細木某」という占い師に騙されて多額の金銭をむしり取られ、不幸のどん底に落ちてしまったという話がありました。このような話を聞くにつけ、「早くみんなに正しい仏法を教えてあげたい」との思いがわいてきます。

 幸いなことに、その男性はのちに顕正会に入信し、悩みが次々と解決し、今ではほんとうに幸せな人生に一変したと感激を語っていました。

 さて、世の中にはたくさんの思想・哲学・宗教があります。しかし、それらには厳然と正邪・勝劣があるのです。正しい教えを実践すれば幸せになり、間違った教え、劣った教えを信じれば不幸な結果が待っています。

 では、末法濁悪の一切衆生をお救い下さる正法が、はたしてあるのか、ないのか・・・。

 これがあるんです。それが日蓮大聖人の仏法、三大秘法です。この仏法を実践すれば、いかなる人も必ず現世には幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得ることができる。まさに全人類が心の奥底で求めてやまない正法こそ、日蓮大聖人の仏法なのです。

 では、どうしてそのように言えるのでしょうか?

 浅井先生の御指導を拝してみましょう。

一念信解と初随喜

 さてきょうは、日蓮大聖人の三大秘法こそ末法濁悪の一切衆生をお救い下さる唯一の正法であることを、四信五品抄の仰せから拝したいと思っております。

 この四信五品抄は、建治三年に富木常忍殿に賜った御書で、日興上人が十大部の一つに選定されたことからもわかるように、たいへん重要な御書であります。

 その中でまず、末法の一切衆生の信行は一念信解と初随喜が、その出発点であることが示されている。

 一念信解・初随喜とはどういう境界・位なのかといえば

 日蓮大聖人の仏法を初めて聞いて、難しいことは何もわからないが、ただ「有難い」との信心を起こす位です。この最も下(ひく)い位であっても、大聖人様の仏法はお救い下さるのです。

 このことを、中国天台宗の中興の祖といわれた妙楽大師は「教弥(いよいよ)実なれば、位弥下(ひく)」と釈している。

 すなわち、教えが勝れていればいるほど、より機根の劣った衆生を救う力がある――ということです。

 日蓮大聖人の仏法は、釈迦仏の教えの中の最高である法華経の、本門寿量品の、文底に秘し沈められた最大深秘の大法であります。

 釈迦仏の仏法は過去に下種されている衆生を得脱せしむる脱益の仏法。そして寿量品の文底に秘し沈められた最大深秘の下種の大法こそ、日蓮大聖人の御大法で、機根が最も劣った本未有善の末法の一切衆生をお救い下さる力があるのです。

顕正新聞令和5年1月5日号

 いかがでしょうか。なんとも有難いですね!

 もし、難しい仏教のことを全部知らなければダメだったら、「私なんてとても無理!」とあきらめてしまうと思います(笑)

 でも、日蓮大聖人の仏法は、「一念信解」「初随喜」といって、難しいことは何もわからなくても、ただ「有難い」との信心さえあればお救い下さるのです。なんと有難いことでしょうか。

 これもすべては日蓮大聖人の仏法に偉大な御力がましますからです。ですから、そのやり方も、実はとっても簡単なんです。

 浅井先生の御指導を拝してみましょう。

釈迦仏法の修行は捨て、ただ信心口唱の一行

 随って、末法の我ら修行は、脱益の釈迦仏の修行である布施行とか戒律を持つ修行などをしてはいけない。ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る信行だけでいいのです。

 このことを四信五品抄には

 「問うて云く、末代初心の行者に何物をか制止するや。

 答えて曰く、檀・戒等の五度を制止して、一向に南無妙法蓮華経と称(とな)えせしむるを、一念信解・初随喜の気分と為すなり

 とお示し下されている。

 「檀・戒等の五度」とはどういうものか。「檀」とは布施行のこと、「戒」とはもろもろの戒律を持つこと。これら「五度」といわれる釈迦仏の修行などをしてはいけない。ただ一筋に御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉ること、これが一念信解・初随喜の位の修行である――と仰せ下されている。

顕正新聞令和5年1月5日号

 仏教の修行というと、何時間も座禅を組んだり、滝に打たれたり、難しいお経をそらんじたり、人にモノを布施したり・・・というイメージを持つ方がいるかもしれません。

 そんなの、とてもできませんよね?しかも、苦しくて辛いだけでなく、何の功徳もないのですから、もう泣きたくなります。

 しかし日蓮大聖人の仏法は違います。「ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る」という、3歳の子どもにもできる簡単な修行で、どんな人でも現世には幸せになり、臨終に成仏の相を現じ、死後の生命まで大安楽を得させて頂けるのです。なんと凄いことでしょうか。

信心口唱の大功徳

 こう書くと、「そうなんだ、それは素晴らしい仏法なんだね。でも、さすがに何もわからない人がお題目を唱えても、まだ功徳はないんじゃないかな?やっぱり、それなりに勉強しないと・・・」と思われるまじめな方がいるかもしれません。

 というより、ふつうはそう思いますよね?

 ところが日蓮大聖人の仏法は違います。たとえ意味が全くわからない人が唱えたとしても、その功徳は、ちょっと想像もできないくらい、とてつもなく大きいのです・・・。

 浅井先生の御指導を拝してみましょう。

 そして四信五品抄には、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉るその大功徳を、次のごとくお教え下されている。

 「問う、其の義を知らざる人、唯南無妙法蓮華経と唱えて、解義の功徳を具するや否や

 -問う、南無妙法蓮華経の意義もわからない人が、ただ南無妙法蓮華経と唱えるだけで、意義がわかったと同じ功徳があるのかどうか――と。

 この質問に対して

 「答う、小児乳を含むに、其の味を知らざれども自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん。乃至、濁水心無けれども、月を得て自ら清めり。草木雨を得て、豈覚り有って花さくならんや」と。

 まさに絶妙の譬えですね。

 いいですか。

 ――生まれたばかりの赤子は母親の乳を飲んで育つが、その栄養分などは全く知らない。だが母乳を飲めば自然と成長するではないか。また古代インドの名医・耆婆が作った薬は、誰もその成分を知らなかった。だがよくもろもろの病を治したではないか――と。

 さらに、濁った水には心はないが、月が宿れば自然と清んでくる。草木に覚りはないが、雨を得れば自然と花が咲くではないか――と仰せられる。

 そうでしょう。貪欲・瞋恚・愚痴、すなわち欲と瞋りと愚かで満ちた濁った心でも、ひとたび御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その濁った心に仏様が宿って下さるのです。

 松野殿女房御返事には

 「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐(はら)まれ給う」と。

 この「釈迦仏」とは、本因妙の教主釈尊・久遠元初の自受用身・日蓮大聖人の御事です。

 すなわち大聖人様が宿って下さるのです。仏様が宿って下されば心法も変わってくる、宿命も変わってくる。我ら凡夫が勿体なくも大聖人様の分身と成らせて頂けるのです。

 だから現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も安楽となる。これすべて、御本尊に偉大な仏力・法力がましますゆえであります。

 私たちは一念信解で、ただ「有難い」との思いだけで、至心に唱え奉ればいいのです。

 さらにこの段の結びとして、次のごとく仰せ下されている。

 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者 其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり」と。

 -妙法蓮華経の五字は、法華経二十八品の経文でもなければ、迹門・本門の義でもない。ただ本門寿量品の文底に秘沈された究極の下種の法体である。末法初心の行者は、たとえその深い意味はわからなくても、ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、自然とその意に当たるのである――と。

 何とも有難いですね。

 大聖人様が大慈悲を起こして全人類に授与して下さった本門戒壇の大御本尊に、無量無辺の功徳と仏力・法力ましますがゆえに、末法の一切衆生はただ信じて唱え奉るだけで、自然と成仏させて頂けるのであります。

 日寛上人はこの大御本尊の偉大なる功徳と妙用について、観心本尊抄文段に次のごとく御指南下されている。

 「これ則ち諸仏・諸経の能生の根源にして、諸仏・諸経の帰趣する処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるはなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。

 故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。

 故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来らざるは無く、理として顕われざるは無きなり。妙楽の所謂『正境に縁すれば功徳猶多し』とはこれなり。

 これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」と。

 まさしく日寛上人はここに、日蓮大聖人の出世の御本懐、三大秘法の随一たる「本門戒壇の大御本尊」の無量無辺の功徳・妙用をお示し下されているのです。

 全顕正会員は、この甚深の御指南をよくよく拝して、恋慕渇仰の信心に住して遥拝勤行に励んでほしい。こう私は強く念願しております。

顕正新聞令和5年1月5日号

 いかがでしょうか。あまりに無量無辺・広大深遠の大功徳にただ圧倒され、大感激でいっぱいです。

 たとえ南無妙法蓮華経の意義が全くわからなくても、ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、赤子が母乳を飲めば成長し、病が名医の薬を服めば治り、濁水に月が映れば清み、草木が雨を得れば花咲くように、凡夫の心に御本仏・日蓮大聖人様がお宿り下さるゆえに、自然と心法が変わり、宿命が変わり、私たち凡夫が勿体なくも大聖人様の分身と成らせて頂ける。だからこそ、現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も安楽となるのだと――。

 すべては、大聖人様が大慈悲を以て全人類に授与して下さった本門戒壇の大御本尊に、無量無辺の功徳と仏力・法力がましますからです。いま大聖人様の御心のままに、戒壇の大御本尊に直接通ずる恋慕渇仰の遥拝勤行を実践させて頂ける私たち顕正会員の立場は、なんと有難いことでしょうか。

 まさしく日蓮大聖人の仏法こそ、ただ「有難い」との信心で南無妙法蓮華経と唱え奉るだけで、いかなる人も必ず現当二世の大利益を得させて頂ける唯一の正法なのです。