大聖人の教えを「改変」した細井・阿部
「顕正会の勝利・宗門僧俗の敗北」で幕を閉じた紙上法論、その内容を何回かにわけて紹介していきます。
前回の記事にも書きましたが、国立戒壇というのは、顕正会がはじめて主張し始めたものではなく、歴代上人たちが叫ばれていた大聖人の御遺命であり、細井日達すらも登座直後には述べていた正論です。ですから、これが「大聖人の教えを改変したもの」であるはずがありません。
そして、正本堂問題の前後を通じて、これら歴代上人の御指南に従い、「国立戒壇こそ大聖人の御遺命」と一貫して叫び続けてきたのは、浅井先生率いる顕正会だけです。
したがって、「大聖人の教えを改変した」のは、歴代上人たちでも、顕正会でもなく、池田大作にへつらって正本堂を「御遺命の戒壇(となる建物)」と偽称し、国立戒壇を否定した細井日達・阿部日顕の2人ということになります。だから御遺命違背であり、大聖人に背く師敵対というのです。
関快道の邪義
これに対し、無智・無道心の関快道は、次のような邪義を構えました。
「『三大秘法抄』の御金言が、『国立戒壇論』の論拠になるか、・・・正邪を判定するに当たり、私は、原文の『可建立戒壇者歟』の『歟(か)』の一字で、国立戒壇論が大聖人の教義でないことを証明します」
そして、三大秘法抄の「戒壇を建立すべきものか」の「歟(か)」は、「疑問・推測の意」だから、「勅宣・御教書」は戒壇建立に当たって不可欠ではない、だから三大秘法抄の御金言は国立戒壇の論拠にならない、と主張しました。
菅原教学委員の破折
これに対し、菅原教学委員は、次のように破折しました(①~③は筆者)。
①:すでに何度も述べているとおり、関のように「歟(か)」を疑問・推測の意と解釈すると、論理必然的に、大聖人様が三大秘法抄に定め置かれた戒壇建立の「時」、「手続」、「場所」のみならず、御遺命の本門戒壇を建立すること自体についても疑問・推測を差し挟むことになる。
よって、かかる解釈は本門戒壇の建立を御遺命された一期弘法付嘱書に背き奉る大謗法であり、また、「勅宣・御教書」を戒壇建立を必要手続と叫ばれた歴代先師上人の御指南にも反する結果となることから、誤りである。
②:第六十六世・細井日達管長ですら、昭和四十五年四月六日の御虫払会において
「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」
と、大聖人様が戒壇建立の必要手続として「勅宣・御教書」と定め置かれていることを明確に説法しているが、どう会通するのか。
③:大体、関自身、「慧妙」令和二年二月十六日号に「お詫びと訂正」を掲載し、次のごとく述べたのを忘れたか。
〈掲載文を読み直したところ、第二章「よって、『可建立戒壇者歟』は『戒壇を建立すべきであろうか(疑問・推測の意)』となります。」との一文があり、あたかも戒壇建立自体に疑問・推量を差し挟むような表現となっておりました。・・・「よって、『可建立戒壇者歟』は『戒壇を建立すべきであろうか(疑問・推測の意)』となります。」の四十六文字を削除させていただきます。〉と。
関が、文末の「歟」の字が、文中の「勅宣並びに御教書」のみにかかるという文法的に破綻した前提に立たない限り、前記訂正は「歟」を疑問・推測の意と解釈すること自体が誤りであることを自認したものというほかない。
顕正新聞令和2年6月15日号
いかがでしょうか。鋭い破折ですね!切られた関も、しばらくは切られたことにすら気づかないかもしれません(笑)
関の邪義が「誤り」である3つの理由
①は、「歟(か)」を「疑問・推測の意」と解釈するのが誤りであることを文法的に指摘した部分です。たしかに、文末の「歟(か)」を疑問・推測とすると、その前の御文全体が疑問・推測になってしまい、御遺命がぼやけてしまいます(過去の記事にも詳しく書きました)。これは致命的ですね。
②は、細井日達の説法との矛盾を指摘した部分です。御遺命を曲げたあの細井日達すら、「必ず勅宣並びに御教書があって」戒壇が建立されると述べているのです。これは、関が主張する、「『歟(か)』は『疑問・推測の意』だから、『勅宣・御教書』は戒壇建立に当たって不可欠ではない」という邪義と、正面から抵触するものです。
「必ず勅宣並びに御教書があって建立される」という細井日達と、「勅宣・御教書は不可欠ではない」という関快道、日蓮正宗(宗門)のみなさんは、どちらが正しいと思いますか?
ちなみに、なぜこのとき細井日達が正論を述べたのかといえば、その3日前に浅井先生から直接諫められ、一瞬、本心を取り戻していたからです(詳しくはこちら)。
③は、関自身の言辞との矛盾を指摘した部分です。関は、「お詫びと訂正」において、「戒壇建立自体に疑問・推量を差し挟むような表現」になっていたことを認め、謝罪・訂正しました。しかし、戒壇の御文の末尾における「歟(か)」を「疑問・推測の意」とする以上、この結論は変わらないのです。したがって、関が先に見たような訂正をしたことは、即、文末の「歟(か)」を「疑問・推測の意」と理解すること自体が誤りであることを認めたものといえます。
このように、菅原教学委員は、①文法的な誤り、②細井日達の説法との矛盾、③関自身の言辞との矛盾という3つの観点から、関の痴論(三大秘法抄の「戒壇を建立すべきものか」の「歟(か)」は「疑問・推測の意」だから、「勅宣・御教書」は戒壇建立に当たって不可欠ではない)を完膚なきまでに粉砕しました。いやはや、なんとも痛快ですね!これはちょっと反論のしようがありません。
宗門僧俗、ついに反論不能に・・・
実際、関や「慧妙」は、この点について一切反論できなかったようです。「菅原よ、今からでも遅くないから、『歟』の字について国語学的な反論を示してみよ」などと、平静を装いながら必死に論点をそらそうとしたみたいですが、それもあっさりと見抜かれ、一蹴されてしまいます。なんだか痛々しくて見ていられません。
先に見たとおり、大聖人の御金言や歴代上人の御指南からすれば、「勅宣並びに御教書」が戒壇建立の必要手続であることは明白です。これに対し、関が、「歟」の一字をもって「勅宣並びに御教書」が不可欠でないことを「証明」すると宣言したのですから、当然、きちんと「証明」する必要があります。しかし、彼にはそれができませんでした。したがって、この時点で、関が構えた邪義は破綻し、彼の解釈が誤りであることが明らかとなりました。
ここに、顕正会と宗門側との間で交わされた御遺命の戒壇に関する紙上法論は、「顕正会の勝利・宗門僧俗の敗北」という形で決着したのです。
(続く)