日蓮大聖人の大慈大悲・絶大威徳を示す3つの現証

 先般開催された冨士大石寺顕正会の「北東北大会」において、浅井先生は、「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」の広告文に示された3つの現証について懇切に指導くださいました。その3つとは、

第1は、「人生の目的は成仏にある」として「臨終の相」の現証

第2は、「立正安国論の予言的中」の現証

第3は、「国家権力も御頸切れず」の竜の口の大現証

です。

 このご指導はたいへん有り難く、私の後輩たちも、「すごくわかりやすくて、有難かったです!」と口々に感激を語っていました。

 まさに浅井先生の「折伏」であり、「指導」なのだと、感激でいっぱいです。

 そこで、今回の記事では、先に見た3つの現証についての浅井先生のご指導を、そのまま引用させて頂きたいと思います!

北東北大会会場
北東北大会会場(顕正会公式サイトより引用)

一、人生の目的は成仏・臨終の証拠

 まず第一の「人生の目的は成仏にある」そして「臨終の証拠」について――。

 人生の目的を知らずに生きているのは、行き先不明のバスに乗っかっているのと同じです。

 バスならば、行き先不明では不安でたまらないが、人生においては、目的を知らないでも、目先の欲望に引きづられるままに生き、気のついたときには死の床にいる。こういう虚しい人生を繰り返しているのが、凡夫の人生の実相ですね。

 仏法を知らない人は、幸福は自分の努力や才能でつかめるなどと思っているが

 大聖人様はこう仰せ下されている。

 「運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず」(四条金吾殿御返事)と。

 「自分には才能がある」「努力さえすれば」などと言っている者も、ひとたび福運が尽きれば、いかなる才能も努力も役に立たない。また果報が尽きれば、今まで従っていた者まですべて背き、一人ぼっちになってしまう――ということです。

 日産自動車を復興させ経営者として才能を謳われていたカルロス・ゴーンも、あっというまに転落する。

 まさに「運きはまりぬれば兵法もいらず」ですね。

永遠に崩れぬ無上の幸福境界

 だから、すぐ崩れてしまう見せかけの幸福ではなく、生死を乗り越えて永遠に崩れない無上の幸福を、人生の目的としなければいけない。その幸福境界を成仏というのです。

 もし日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わってくる。人は生まれたときから顔・形が違うように性格も違う。持って生まれた命の傾向が一人ひとりみな違う。この命の癖にしたがって運命があり、宿命があるのです。

 だが信心をすると、この宿命が変わってくる。ゆえに現世に幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得るのです。

 このように仏法による幸福は現世だけではなく、死後の未来世にいたるまで永遠に崩れない。これを「現当二世の大利益」というのです。

臨終は人生の最大事

 「死んだ先のことなどわからない」などと言う人もいるでしょう。

 しかし仏法は空理空論ではない、観念論ではない。証拠を以て論ずる。その証拠が「臨終の相」なのであります。

 いいですか。臨終というのは一生の総決算ですよ。その人が一生のうちにどんなことをやって来たか、善悪ともにその総決算が臨終の相に出るのです。

 同時にその臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報、結果と報いが現われる。だから臨終は人生の最大事なのであります。

 ゆえに大聖人様は妙法尼御前御返事に

 「日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。乃至、されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せられている。

臨終の相について

 では、死後に地獄に堕つる相、また成仏の相とはどのようなものか。

 大聖人様は千日尼御前御返事に、克明に仰せられている。

 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。

 善人は設い七尺・八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」と。

 すなわち、地獄に堕つる者は、死してのち遺体が黒くなるのです。生前どれほど色の白い人でも、臨終ののちに黒くなってくる。そして身がたいへん重くなる。

 一方、成仏する者は、ここに仰せのように「七尺・八尺の女人なれども」と、七尺・八尺というと二メートル以上の「大女」ということですかね(大笑)。いま「大女」などと言うと「差別だ」といわれる(笑)。そのような大きな女性でも、あるいは色黒き者でも、臨終ののち色変じて白色となり、遺体は軽く、柔らかく、かつ柔和な相となる。

 これは厳然たる事実で、誰人も否定できない。

顕正会員のよき臨終 有難さ込み上げる

 私は、顕正会員が「良き臨終を遂げた」という報告を各部の部長から毎日のように聞きますが、そのたびにいつも、有難さが込み上げてくる。だから私はその報告を、いい加減な気持ちで聞いたことがない。

 大聖人様の大慈大悲、御本尊様の仏力・法力で、我ら凡夫がわずかな信心で成仏させて頂ける。なんと有難いことか。

 顕正会員は、大聖人仰せのままの信心を実践させて頂いているから、このようによき臨終を遂げるのです。その報告、私は一度も、いい加減な気持ちで聞いたことはありません。

 そして最近では、顕正会員が多くなって来たせいか各地の病院で、臨終の相に善悪があることを知る医師が増えて来ましたね。すべての医師がこのことを知った時が、広宣流布であります。

二、立正安国論の予言的中

 次に「立正安国論の予言的中」のこと。

 日蓮大聖人は、個人だけではなく、国家をも根底からお救い下さる仏様であられる。

仏法は国家興亡の根本の法則

 仏法は国家の興亡盛衰を決する根本の法則なのです。政治が悪ければ国が傾くことは誰にもわかる、しかしこれは表面の因果にすぎない。国家の興亡盛衰の根本原因は、実に仏法によるのであります。

 ゆえに神国王御書には

 「我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」と。

 ―自分の顔を見るには、磨かれた鏡を用いればよい。だが国家の興亡盛衰を知るには、仏法の鏡を用いなければいけない――と仰せられる。

他国侵逼のご予言

 正嘉元年八月、前代未聞の巨大地震が起きた。そしてこの巨大地震を機として、年ごとに異常気象が激しくなり、大飢饉・大疫病が打ち続き、人民の過半が死に至るという惨状を呈した。

 大聖人様はこの大災難をごらんになって

 「これ他国の侵略により日本が亡ぶ先兆なり

 と知り給い、日本の人々を現当二世に救うべく「立正安国論」を著わされ、時の国主・北条時頼に奏進あそばされたのであります。

 当時、他国が日本を襲う萠しなどは全くなかった。誰もが「日本は四方を海で囲まれている、どこの国が攻めて来るというのか」と言って、立正安国論の「他国侵逼」のご予言を信ずる者は一人もいなかった。

 その中で、大聖人ただ御一人が「他国侵逼」を厳然と予言されたのです。

 そしてその御予言は、十四年後の文永十一年、さらに弘安四年と、二度にわたる大蒙古の襲来により、事実となっているのです。

 仏様でなくて、どうしてこのような御予言がなし得ましょうか。

 撰時抄には「未萠をしるを聖人という」また「三世を知るを聖人という」と仰せられている。

 まさしく日蓮大聖人こそ、末法下種の御本仏・久遠元初の自受用身であられる。ゆえに、未来に起こることを知り給うたのです。

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立正安国論奏進九ヵ年後の文永五年に到来した蒙古国王の牒状(顕正会公式サイトより引用)

災難の起こる原理

 立正安国論にはその冒頭に、災難が起こる原理が示されております。すなわち

 国中が正しい仏法に背いて邪法に執着するならば、仏法と国土を守護する諸天善神はその国土を捨てて相去る。よって魔・鬼が国土に乱入して、災難が起こる――と示されている。

諸天善神の存在

 諸天善神の存在は、仏法を知らぬ人には信じられないかもしれない。目に見えないし、凡夫の思慮が及ばぬ存在だからです。

 だが、この大宇宙には厳然として梵天・帝釈・日月・四天等の諸天が存在しているのです。見えないからと言って否定してはいけない。

 たとえばブラックホールは、一〇〇年も前にアインシュタインがその存在を理論上から予言していた。しかし誰もそれを信じなかった。

 ところがつい最近、世界中の天文台の協力によって、ついにブラックホールの存在が証明され、新聞各紙に大きく報道されましたね。私はこれを思い出す。

 諸天善神も目に見えないからと言って、その存在を否定してはいけない。諸天は、大宇宙に厳然として存在し、仏様の御化導を常に守護しているのです。

 ですから、この国に御本仏出現して一切衆生を救わんとするに、もし国中が邪法の僧等の唆しによってこの御本仏を信ぜず、悪口・罵詈・杖木等で責めるならば、諸天はまず天変地夭を以て一国を諫める。

 それでもなお流罪・死罪等の理不尽な迫害を続けるならば、ついに諸天は隣国をしてこの日本を責めしむる。そして御本仏を守護し奉るのです。

立正安国論(第一紙・御真蹟)(顕正会公式サイトより引用)

予言的中を以て「御本仏」を信ぜしむ

 ゆえに、第一回の蒙古襲来直後の文永十一年に著わされた「聖人知三世事」には、こう仰せ下されている。

 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで、之を軽毀し、刀杖を加え流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」と。

 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」とは、日蓮大聖人こそ、熟脱の教主釈尊に勝る世界第一の下種の御本仏、久遠元初の自受用身である――ということ。

 しかるに日本国の人々はこれを知らず、国主より万民にいたるまで日蓮大聖人を軽んじ毀り、刀杖を加え流罪・死罪に処するがゆえに、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、隣国に命じてこの日本を責めしめるのである――と仰せられる。

 まさに立正安国論における他国侵逼の予言的中こそ、日蓮大聖人が末法下種の御本仏・久遠元初の自受用身であられることを立証する大現証なのであります。

予言的中は無間地獄の大苦を救う大慈悲

 また、この予言的中は、日本国の人々を改悔せしめ、死後、無間地獄の大苦を今生に消さしむるという大慈大悲であられる。

 ゆえに佐渡御書には

 「現世に云をく言の違わざらんをもて、後生の疑いをなすべからず」と。

 立正安国論の予言が一分も違わずに的中したことを以て、もし改悔しなければ死後、無間地獄に堕ちることも疑ってはならぬ――と日本一同に仰せられている。

 日寛上人はこの御文を拝して

 「此において暫時 筆を閣き、紅涙白紙に点ず」(撰時抄文段)と記されている。

 日寛上人ほどの御方ですから、大聖人様の大慈大悲が、実感として胸にお迫りになるのでありましょう。

諸天に申し付け給う絶大威徳を拝せよ

 また「王舎城事」には

 「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天罰し給いて、皆人に見懲りさせ給えと申しつけて候。日蓮 法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。乃至、あへて憎みては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。

 まず、日蓮大聖人と南無妙法蓮華経を憎み敵対する人々を、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、罰して人々に見懲りさせよ、と申しつけた――と仰せられている。

 どういうことか――。

 日本国の人々は、下種の御本仏に敵対することが、死後 無間地獄に堕ちて耐えがたい大苦を受ける原因になることを知らないのです。これを大聖人様は不憫に思われ、諸天に命じて、蒙古の責めという現世の大罰を以て懲りさせ、改悔せしめよ――と仰せられているのです。

 まさに大聖人様が諸天に申しつける絶大威徳まします御本仏であられること、この御文により、はっきりとわかりますね。

 ゆえに

日蓮 法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし」と。

 大聖人が「法華経の行者」すなわち末法下種の本仏であるかないかは、この一事を見ればわかる――と仰せられる。そうなのです。諸天に申し付け給うたことが、そのとおりになる。まさしく日蓮大聖人こそ、下種の御本仏・久遠元初の自受用身であられるのです。

 そして最後に

 「あへて憎みては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり

 蒙古の責めを諸天に申し付けたのは、国主や日本の人々を憎んで言うのではない。これこそ大慈大悲の力、すなわち無間地獄の大苦を今生のうちに消さしめんとするものである――と。

阿鼻獄の大苦をお救い下さる

 釈尊は、末法下種の御本仏を憎み迫害する罪を法華経の譬喩品に

 「其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して、劫尽きなば更生れん。是の如く展転して無数劫に至らん」と説いている。

 御本仏を怨む罪報は、死してのち阿鼻獄に入るが、その期間は一劫や二劫ではない、「無数劫」という想像もできない長年月にわたり、耐えがたい大苦に遭う、と説かれているのです。

 大聖人様はこれを最大の不憫と思しめされ、この無間地獄の大苦を今生に消さしめるため、蒙古襲来という現世の大罰を見さしめ改悔せしめ給うたのです。まさに大慈大悲であられる。

御在世の逆縁広布

 かくて日本国の一切衆生は、この蒙古の責めの大恐怖の中に、日蓮大聖人の御名と南無妙法蓮華経を深く命に刻み、未来に仏に成るべき種を植えて頂いた。これが御在世における逆縁広宣流布であります。

未来の順縁広布

 そして未来には、正系門家が御遺命に違背し、国民一同も未だ日蓮大聖人を信ぜぬゆえに、「前代未聞の大闘諍」「他国来難」が起こる。その恐怖の中に今度は日本一同、日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、ついには国立戒壇が建立される。これが順縁広布であります。

 すべては、日蓮大聖人ただ御一人の大慈大悲によるのであります。

北東北大会会場
北東北大会会場 (顕正会公式サイトより引用)

三、国家権力も御頸切れず

 そして現証の第三は「国家権力も御頸切れず」すなわち竜の口の大現証です。これこそ最も重大な現証であります。

 これは国家権力による死刑罪であるから絶体絶命です。しかも大聖人様は少しもお逃げにならない、身を隠されない。堂々とその大難をお受けになられている。国中の人々はもうこれで「必ず頸を刎ねられる」と思ったに違いない。

竜の口大法難はなぜ起きたのか

 さて、この竜の口の大法難はなぜ起きたのかというと、国中の念仏・真言・禅・律等の邪宗の坊主たちの怨嫉によるのです。

 彼らは、日蓮大聖人の破折によって自宗の誤りが明らかになったので、やがて自身の地位も失せ、利権も失うであろうことを恐れたのです。

 そこで民衆を煽動して「日蓮房は阿弥陀仏の敵だ」などと言っては憎ませ、さらに国家権力者に讒言して大聖人様を陥れんとした。

 その中でもことに、民衆から「生き仏」と崇められていた真言律宗の良観と、幕府内の最高実力者・平左衛門の怨嫉は深く激しかった。二人は結託して、何としても大聖人の御命を奪わんとした。ここに国家権力による絶体絶命の死刑が執行されたのであります。

平左衛門自ら武装兵士を率いて

 文永八年九月十二日の夕刻、平左衛門は自ら数百人の武装兵士を率いて、大聖人の庵室を襲った。ただ御一人の、しかも逃げも隠れもしない日蓮大聖人に対し奉り、この仰々しい召し取りは何事か。

 これ、大聖人を国家を危うくする謀反人と見せかけるための演出です。そして裁判にもかけず、その日のうちに大聖人の御頸を刎ねんと企んだのであります。

深夜、竜の口刑場へ

 この日の深夜、子の刻(午前零時ごろ)、大聖人様は数百人の武装兵士に囲まれて、竜の口の刑場へと馬で向われた。

 途中、由比ヶ浜に出たところで、大聖人様は馬を止め、近くに住む強信の武士・四条金吾殿のもとへ「熊王」という少年を遣わされた。

 報を受けて四条殿は驚愕し、裸足のまま駆けつけ、大聖人の馬の轡に取り縋り、竜の口まで御供申し上げた。

 このとき四条殿は「もし大聖人の御頸が刎ねられたら、その場を去らず、追い腹切って御供を…」と決意していた。

 ついに竜の口に到着した。暗闇の中で大勢の兵士たちがうごめき屯している。その中央こそ頸の座であった。

 これを眼前にした四条金吾殿は

 「只今なり

 と言って、その場で泣き伏した。

 これを見て大聖人様は

 「不覚のとのばらかな、これほどの悦びをば笑へかし

と仰せられた。

竜の口刑場付近の砂浜。左側の島が「江の島」 (顕正会公式サイトより引用)

御頸切れずの大現証

 やがて大聖人様は泰然と、頸の座に坐し給うた。太刀取りの越智三郎その傍に立つ。

 そして大刀一閃、まさに降り下ろされんとしたその刹那、思議を絶することが起きた。

 江の島の方より突如「月のごとく光りたる物」が出現し、光りわたったのです。

 その光がいかに強烈であったか、太刀取りの越智三郎は眼くらんでその場に倒れ伏した。その衝撃がいかに凄まじかったか、刀はいくつにも折れて足下に落下した。

 これを見て、兵士たちは肝を潰し、恐怖のあまり一斉に百メートルほども逃げ出し、みなことごとく砂浜にひれ伏してしまった。

 頸の座にましますは大聖人ただ御一人。大聖人様は高声で叫ばれた。

 「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ちよれや、打ちよれや」と。

 だが一人として近寄る者はいない。大聖人様は再び高声で叫ばれた。

 「頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん

 ―頸を切るならば早く切るべし、夜が明けたら見苦しいであろう――と。死刑を催促あそばされたのです。

 しかし返事をする者とてない。全員が腰を抜かし、へたり込んでしまったのです。

 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人様の御頸を刎ねんとして刎ねられず、その絶大威徳の前にひれ伏してしまったのです。

 このような思議を絶する荘厳・崇高・威厳に満ちた光景が、人類史上、この地球上のどこにあったか。

久遠元初の自受用身と成り給う

 この大現証こそ、立宗以来の不惜身命の御修行ここに成就して、日蓮大聖人が三世十方の諸仏の根源たる久遠元初の自受用身と成り給い、末法下種の本仏と顕われ給うた御姿だったのであります。

 この大現証はもう理屈ぬきですね。目に灼きつく強烈な事実を以て、一切衆生に「仏とはかくなるものぞ」ということを見せて下さったのであります。

兵士たちの反応

 この大現証を目の当りにした兵士たちの反応はどうであったか。

 彼らは当夜、大聖人様を本間六郎左衛門の邸まで送って一夜を明かし、その翌朝、一同して、手を交え頭を下げて大聖人の御前に進み出て、こう言った。

 「このたびのこと、いったい貴方さまはいかなる御人なのでございましょうか。我らが信ずる阿弥陀仏を謗っていると聞いて今まで憎んでおりましたが、昨夜来、まのあたりに拝みまいらせたことなどを見れば、あまりの尊とさに、これまで唱えていた念仏は、もう捨てました」と。

 兵士たちの殺意は、一変して帰依となったのです。

 私は思う。この兵士たちの姿は広宣流布の時の全日本人の姿であると。やがて全日本人が、大聖人様の絶大威徳と大慈大悲にめざめて、南無妙法蓮華経と唱え奉る時が必ず来るのであります。