人生の目的とは何か(1)

みんなが乗っている「行先不明のバス」

人生の目的を知らずに生きているのは、行先不明のバスに乗っているのと同じである

これは「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」の広告文の一節です。

きっと多くの方が「はっ」とするのではないでしょうか。

なぜなら、世界中のほとんどの人々が、「人生を目的を知らずに生きている」からです。

とはいえ、誰しも一度は「人生の目的」について考えたことがあると思います。「私、何のために生まれてきたんだろう・・・」と考えるのは、ごくごく普通のことではないでしょうか。

ところが、たいていの人はそこで終わってしまうのです。

「まあ、そんなこと考えたって仕方ないか。考えても答えが出るわけじゃないし。今を楽しく生きればいいんじゃない?」となるのが一般的かと思います。

なぜそうなってしまうのでしょうか。それは、親も、学校の先生も、警察も、総理大臣も、誰も本当の「人生の目的」を教えてくれないからです。

その「答え」が、ここにあります。

人生の目的とは何か

以下、「基礎教学書・日蓮大聖人の仏法」の第二章「人生の目的と幸福論」から引用します。

人生の目的を知らずに生きているのは、行き先のわからぬバスに乗っているのと同じである。

しかし実際には、多くの人々がこの大事を知らない。ゆえにただ宿命に流され、貪欲と瞋恚(怒り)と愚痴(愚か)に引きずられて空しく一生を過ごし、最後、死苦を迎えているのが実相である。

さて、「人生の目的とは」と問われれば、多くの人は返答に窮しよう。そして一考ののち、自分の将来の希望を挙げて、「実業家」「政治家」「スポーツ選手」「音楽家」「タレント」あるいは「学者」「弁護士」「医師」などと云うかも知れない。

だが、これらは目的と手段を混同している。人は幸福になりたいからこそ、その手段として「音楽家になりたい」等の志望を懐くのである。そこには意識・無意識を問わず、「音楽家になったら幸福になれる」という期待が大前提として存在している。

かく見れば、まさに幸福こそ、万人共通・普遍的な人生の目的である

しかしこの幸福にも、すぐ崩れてしまう一時的なものと、永遠に崩れぬ真の幸福がある。永遠に崩れぬ最高無上の幸福を「成仏」という。されば人生の究極の目的は、この成仏を得るにある

いかがでしょうか。人生の目的は「幸福」なのだと。

言われてみればそのとおりなのですが、まさに本質を突いていますよね。

ただ、「幸福」といっても、すぐに終わってしまうものでは寂しいですよね。たとえば、友達にケーキを買ってもらったとします。とてもハッピーですよね。でも、1時間後にはすっかり忘れてて、残るのはおなかの脂肪ばかりかもしれません(笑)

このように、「幸福」にも、一時的なものと長期的なもの、また、小さなものと大きなものがあるのです。もちろん、できるだけ長く続く、大きな幸せの方が嬉しいですよね。

実は、この世の中には、「永遠に崩れない最高無上の幸福」というものがあるのです。それが、仏様が証得された「成仏」という境界です。

もし本当にそのような境界があって、私たちもまたそれを手に入れることができるとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

有難いことに、「成仏」という境界は確かに存在するのです。

このことは、日蓮大聖人が説かれた「臨終の証拠」を見ればはっきりとわかります。

そして、私たちも日蓮大聖人の仏法を正しく実践させて頂くならば、必ず一生のうちに「成仏」を遂げさせて頂けるのです。なんと有難いことでしょうか。

詳しくは後日書きますが、仏法を実践して「成仏」した者は、「臨終ののち色が白くなり、軽く、柔らかく、かつ何とも柔和な相となる」と大聖人は仰せられています。

死後の臨終の相だけは、自分の意志の及ぶところではありません。その臨終の法則性をこのように説き切る大聖人の仏法の、なんと凄いことでしょうか。

そして現実に、顕正会でまじめに信心を貫いた方々が、みなこの素晴らしい相を現じているのです。

たとえ生前色黒の方であっても、臨終に際して遺体の相が変わってくるから本当に不思議です。

まさに仏法は空理・空論ではなく、「生きている」のです。

これすべて、日蓮大聖人が流罪・死罪の大難を耐え忍ばれ、大慈悲をもって全人類に授与してくださった、「本門戒壇の大御本尊」の偉大な仏力・法力のおかげです。

いま顕正会では、この「本門戒壇の大御本尊」を我が家から直接拝みまいらせる遥拝勤行に励み、みなが功徳を頂き、「成仏」を遂げさせて頂いています。

これほど有難い仏法に値い得た以上、退転なく信心に励み、なんとしても一生成仏を遂げさせて頂きたいものです。