「リア充」だけじゃダメですか?
よく仏法の話をすると、「まあ、話はわかるけどさ、オレ、いまけっこう充実してるし、必要ないと思うんだよね~」という人がいます。
いわゆる「リア充」というやつでしょうか。
もちろん、世の中には「リア充」モドキもたくさんいますから(笑)、その人が本当に充実した生活を送っているかどうかはわかりません。
では、もしその人が本物の「リア充」君、「リア充」ちゃんだったとしたら、はたして仏法をやる必要はないのでしょか?
答えは、否です。
なぜなら、人は誰でも「臨終」を迎えるからです。
死ぬ時には、それまで必死に稼いだお金も、やっと築いた地位も、磨き上げた知性も、苦労してゲットしたイケメン彼氏も(笑)、来世に持っていくことはできません。
そして、死後には、誰も助けてくれない、暗く寂しい中有の道が待っています。
そこに現世だけでなく、死後の未来も永遠にお救い下さる日蓮大聖人の仏法の有難さがあるのです。
浅井先生のご指導を拝してみましょう。
現当二世の大利益
現当二世とは、現世と当来世のこと。日蓮大聖人は現世のみならず、死後も未来永劫にお救い下さるのである。
生命は永遠であり、死によって消滅するものではない。死とは有相が無相、生とは無相が有相になるという存在形態の変化にすぎない。生命はこの生死を繰り返しつつ、宇宙と共に常住しているのである。
そして幸・不幸の因果も、過去・現在・未来の三世にわたって連鎖している。ゆえに開目抄には
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」と示されている。
現世はわずか数十年、未来は永遠である。もし生命の永遠を知り、三世の因果を知れば、最も恐るべきは死後の堕獄であり、最も願うべきは一生成仏である。そして堕獄も成仏も、臨終の相にそれが現れる。されば臨終こそ人生の最大事である。
ゆえに大聖人は妙法尼御前御返事に
「日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり、乃至、されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と。
また千日尼抄には
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」と仰せられている。
もし本門戒壇の大御本尊を一筋に信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、必ず現世には宿命が変わって幸福となり、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。これが現当二世の大利益である。
すべては本門戒壇の大御本尊の仏力・法力による。ゆえに大御本尊には「右現当二世の為」とお認めあそばされているのである。
(平成31年の登用試験「問1」より)