正本堂の誑惑を破す(2)広宣流布を偽る

「広宣流布」の定義を変える

広宣流布以前に建てた正本堂を「御遺命の戒壇」というためには、広宣流布の定義を変えなければなりません。

そこで、学会・宗門による様々なたばかりが行われました。

「舎衛の三億」のたばかり

「舎衛の三億」のたばかりとは、「日本人口の3分の1が入信すれば広宣流布」という論法で、池田大作が言い出し、細井日達が追認したものです。

しかし、そもそも「舎衛の三億」とは、竜樹菩薩の「大智度論」に出てくる「見仏・聞法の難き」、すなわち仏に値い法を聞くことがいかに難しいかということの譬えにすぎません。

つまり、日蓮大聖人の仏法の広宣流布とは、何ら関係のない事柄なのです。

大聖人は「広宣流布」について、「剰え広宣流布の時日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と仰せられています。

広宣流布とは、日本一同が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る時をいうのです。

「広宣流布は終着点のない流れ自体」のたばかり

池田大作は、「広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない」「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れ自体である」(大白蓮華昭和45年6月号)などと言います。

しかし、もし広宣流布が「流れ自体」ならば、いつでも広宣流布と言い得ることになりますから、この理屈は明らかにおかしいのです。

広宣流布には厳然と終着点があります。

すなわち「日本一同に南無妙法蓮華経と唱へ」て「勅宣並びに御教書」が申し下されるその一時点こそ、終着点であり、戒壇建立の時なのです。

「法体の広布が果実を結ぶ」のたばかり

池田大作は、学会員の増加が正本堂建立に至ったことを誇って、「これこそ日蓮大聖人以来の法体の広宣流布が果実を結んだというべき」(大白蓮華昭和45年6月号)などと言います。

しかし、「法体の広宣流布」とは、大聖人が本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたことを意味しますから、その果実は、弘安二年十月十二日にすでに結ばれています。

つまり、戒壇建立の時期とは関係のない事柄なのです。

広宣流布を「法体」と「化儀」に分けるならば、戒壇建立は「化儀の広宣流布」の時です。

「因に約すれば広宣流布」のたばかり

細井管長は「今日は因の姿においてすでに広宣流布である」(臨時時局懇談会・昭和45年4月22日)などと言います。

しかし、もし広宣流布を「因」と「果」に約して論ずるならば、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」(諸法実相抄)ですから、大聖人御一人の御唱え出しこそ「因」、日本一同に唱え奉る時が「果」となります。

そして、戒壇建立は「果」の時なのです。

「いつが広宣流布かは法主上人が決める」のたばかり

阿部教学部長(当時)は、

「いつが現実的な『(広宣流布の)暁』であるか、さらに広布の時機とその建物建立の前後等の決定は、一に法主上人の御判断によるべき処である」(「国立戒壇論の誤りについて」再刊後記)とか、

「戒壇建立の時期についての具体的現実的判断は、これこそ大聖人以来唯授一人の血脈を持たせたまう法主上人の内鑑の御境地による」(同前)などと言います。

しかし、二祖日興上人は、「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざること」と御遺戒あそばされています。

たとえ時の貫首の言葉であっても、大聖人に背く己義を用いてはならないのです。

だいたい、今が広宣流布かどうか、戒壇建立の時であるかないかは、御金言を本にすれば三歳の童子にもわかります。

大聖人は広宣流布の姿を「剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と示され、さらに戒壇建立の時を御付嘱状には「国主此の法を立てらるれば」と定め給い、三大秘法抄には「王仏冥合・王臣受持」の時と定め給うておられます。

正本堂の建立時はもちろん、現在においても、未だこの状態に至っていないことは誰人の目にも明らかです。