待望の御書講義録がついに発刊されました。
その名も「『出世本懐成就御書』を拝し奉る」!
平成24年の浅井先生の「出世本懐成就御書」の講義を収録したものです。
私もさっそく手に入れて拝読していますが、拝読を重ねるほどに、浅井先生はまさに今、この時のために、大事な講義を留め置き下さったのだと感じては、有難さで胸がいっぱいとなります。
このブログでは、講義録の一部を紹介させて頂きたいと思います。
出世本懐成就御書とは
出世本懐成就御書は、熱原の大法難直中の弘安2年10月1日に、大聖人様が全門下に下されたご教令です。
この御書がなぜ重大かといえば、御書四百余篇の中で、大聖人様が出世の本懐成就を宣示あそばした唯一の御書だからです。
「出世の本懐」というのは、仏様が世に出現された究極の目的です。
では、日蓮大聖人の出世の本懐は何かといえば、実に弘安2年10月12日に建立あそばされた本門戒壇の大御本尊であられます。この重大事を宣示あそばされた唯一の御書が、まさしく本抄なのです。
この大事な御書の御真跡が、始めから終わりに至るまで一字も欠けずに今日まで保存されているとお聞きしては、本当に有難く思います。
本抄の大意
浅井先生は、本抄の大意を、一言で次のように仰せられました。
「出世の本懐成就を宣示あそばすとともに、御本仏日蓮大聖人の厳然たる賞罰と絶大の威徳を示され、以て門下一同、師子王の子となって法難に打ち勝てと、ご教令下された御書」と。
次いで、本文を大きく4段にわけて解説して下さいました。
第1段:出世の本懐成就が厳かに宣示されている
第2段:日蓮大聖人こそ、釈迦仏がその出現を予言証明した久遠元初の自受用身、末法下種の本仏であられることが示されている
第3段:日蓮大聖人の厳然たる賞罰と御威徳を示され、以て門下一同、師子王の子となれと促し給うた一段
第4段:肚を決め切って大難に打ち勝ち、仏果を遂げよと励まし給うた結びの一段
いかがでしょうか。浅井先生の透徹の教学力を通して、本抄の大意と脈絡を御本仏の御心のままに拝させて頂ける有難さは言葉に尽くせません。
それでは、さっそく本文を拝していきましょう!
出世の本懐成就を厳かに宣示
本抄では、初めに立宗の日時と場所を示され、その立宗より「今に二十七年、弘安二年なり」として、弘安二年の大事が密示されています。
「去ぬる建長五年四月二十八日に、安房国長狭郡の内・東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に、此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。
仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計りなし、先々に申すがごとし。
余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。
まず釈尊・天台・伝教が出世の本懐を遂げられるまでの年数を挙げておられます。
「仏は四十余年」とは、釈尊が三十歳で成道し、それより説法を始めて四十二年のちに法華経を説いたこと。
「天台大師は三十余年」とは、説法開始より三十余年で、法華経の義を魔訶止観として説き顕わしたこと。
「伝教大師は二十余年」とは、法華経迹門の戒壇を、開宗より二十余年で建立したこと。
では、大聖人は立宗より何年で出世の本懐を遂げ給うたのかといえば、「余は二十七年なり」と。この仰せこそ、立宗より二十七年の弘安二年に、本門戒壇の大御本尊を建立して出世の本懐を遂げ給うた、ということです。
浅井先生は、「この大事は、日興上人・日目上人の正系門家・富士大石寺以外にはわからない」として、「いま私たちは、この御文の御意を知り、一筋に、清らかに、戒壇の大御本尊を信ずる身になれたこと、宿縁とはいえ、何とも有難いことであります」と仰せですが、御本仏の出世の本懐を正しく知り、正しく信ずる身となれた我が身の宿縁にむせび泣く思いです。
大聖人を軽賤する者、必ず亡ぶ この厳然たる大罰を見よ!!
次いで本抄では、法華経・法師品に示された「況滅度後」の大難に約して、日蓮大聖人こそ釈迦仏予言の久遠元初の自受用身、末法下種の御本仏であられることを示された後、この御本仏を軽賤する大罰を次のように御教示下されています。
「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず。日蓮又かくのごとし。乃至、大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病と、大けかちと、どしうちと、他国よりせめらるゝは総ばちなり。やくびょうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別罰なり」と。
日蓮大聖人を軽賤した御在世の日本国と叛逆者たちが受けた大罰を見るとき、大聖人に背けば人も国も必ず亡びることがよくわかります。この大罰を見て「大確信に立て、師子王の心を取り出せ」と、次文に仰せられるのです。
師子王の心を取り出せ 師子王の子となれ
「各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼うるなり」
浅井先生は「まことに大事な御文である」として、次のように指導下さいました。
「『師子王の心』とは、仏法のためには何ものをも恐れないという心です。これは仏様しか持ち得ない。
見てごらんなさい。大聖人様のお振舞いを――。乃至、凡夫の誰人にこのような御振舞いができましょうか。だから師子王心は仏様しか持ち得ない、というのです。
凡夫はみな臆病なものですよ。しかしこの凡夫が、大聖人様に南無し奉るとき、凡夫の心にも師子王心が湧いてくるのです。
口まねだけでは虎の威を借る狐にすぎないが、『大聖人様を命かけて信じまいらせよう』『この仏法に人生をかけ、命をかけ、何の悔いがあろう』と真に肚を決め切ったとき、凡夫にも師子王心が湧き、師子王の子となれる。
私はいつも『一念信解』と言っているが、たとえ難しいことはわからくとも、ただ『有難い』と信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、直ちに大聖人様に通じ、大聖人の御心が凡夫の濁った心に宿る。
そうすると、その人は熱と光を帯びた小さな太陽となる。臆病だった自分に、思いもかけぬ勇気が出て来る。これが師子王の子なのであります。
顕正会員はみな『師子王の子』とならなければいけない」と。
なんと有難いご指導でしょうか。臆病な私も「『師子王の子』にならせて頂きたい!」と熱願せずにはいられません。
次いで先生は、「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし」の御文と、竜の口において国家権力がひれ伏した御本仏の絶大威徳を示され、次のように指導下さいました。
「我らは、この絶大威徳まします御本仏の弟子なのである。だから、絶対の確信に立たなくてはいけない。
世間では、くだらぬ者ほど肩書をひけらかすが、私たちの肩書はただ一つ。
『日蓮大聖人の弟子』だけである。
この肩書こそ、諸天善神が守り、また後生の助けとなる尊い肩書なのであります」と。
なんと有難い肩書でしょうか。私も「日蓮大聖人の弟子」との誇りを胸に、御遺命成就に向けて邁進していきたいと思います。
「月々日々につより給へ」
さらに浅井先生は、「月々日々につより給へ、すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」の御文について、たいへん有難い指導を下さいました。
「信心は、月々日々に強りゆかなければいけない。もしたゆむ心があれば、魔が便りを得る、すなわち魔にたぶらかされる。大進房・三位房が行智にたぶらかされて退転叛逆したのも、信心に油断があったからです。
だから信心は、惰性に流されていてはダメです。毎日・毎日、新しい歓喜、新しい信心、新しい決意に立たなくてはいけない。
『自分ごとき者が、よくぞこの有難い御本尊様にお値いできたものよ』という喜び、そして『さあ広宣流布だ』という決意、これを毎日・毎日新しくしていくところに成仏がある。
よどんだ水にはボウフラが湧くが、流れる水は常に清らかである。
いま顕正会は月々日々に躍動する信心に立っているから、大事な御奉公が叶うのであります」と。
なんとも有難いご指導ですね。
一方、御在世に退転・叛逆した信心うすき者たちには、ある共通点がありました。それは「をくびゃう・物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者ども」。つまり、臆病で、仏法の道理をおぼえず、欲深く、疑い多い者ども――ということです。
彼らは、現世には罰を受けて身を亡ぼし、後生には入阿鼻獄となること必定ですから、これほど愚かで恐ろしいことはありません。
「月々日々につより給へ」の仰せを命に刻み、御遺命成就のその日まで、油断なく精進していきたいと思います。
神四郎殿等、ついに身命を捨つ
最後に浅井先生は、熱原の法華講衆が国家権力者・平左衛門の威しに屈せず、身命を捨てて大聖人様への信心を貫いた姿を教えて下さいました。
本抄の御教令が全門下に下された11日後、平左衛門は自邸の庭に法華講衆を引き据え、大聖人への信仰を捨てて念仏を唱えよと威し、蟇目の矢を射させて散々に責めました。しかし神四郎殿をはじめとする法華講衆は一人も退せず、一矢あたるごとに「南無妙法蓮華経」と高声に唱え奉りました。この死をも恐れぬ気魄に恐れを懐いた平左衛門は、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人を引き出し、ついにその頸を刎ねたのでした。
しかし平左衛門は、3人の肉体は壊せても、大聖人に南無し奉る信心は壊せませんでした。神四郎殿等法華講衆は平左衛門に、国家権力に勝ったのです。浅井先生は「まさしく大聖人仰せのままの『師子の子』だったのである」と。
この報せを日興上人よりお受けになった大聖人様は、深く深く御感あそばされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、ついに出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を図顕あそばされたのでした。その日付は、神四郎殿等が身命を捧げた弘安2年10月12日。この大御本尊こそ全人類に総じて授与された、御本仏の御法魂にてましますのです。
浅井先生は叫ばれました。
「いいですか。御在世には、熱原の法華講衆の『唯願説之』があって、戒壇の大御本尊様は出現あそばした。
そして広宣流布の時には、また熱原のごとき大聖人様に南無し奉る信心が必ず一国にみなぎり、このとき始めて、戒壇の大御本尊様は国立戒壇にお出ましになるのです。
その道を開くのは、顕正会以外には断じてあるべくもない」と。
いかがでしょうか。このご指導を拝せば、広布前夜の今、御遺命成就に戦う私たちこそ、熱原のごとき信心、すなわち「師子王の子」とならねばならないことがよくわかります。
かく見れば、浅井先生は、いよいよ顕正会が第三度の一国諫暁に立ち、御遺命成就を実現せんとする今、この時のために、前もって大事な講義を留め置いて下さったのではないか――と伏して拝しては、先生の万々のご配慮、周到なるご用意に低頭のほかなく、ただ「お応えしたい」との思いが突き上げます。
私も本講義録を繰り返し拝して心腑に染め、「師子王の子」となって、広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!