顕正会の仏法上の名称を、「冨士大石寺顕正会」といいます。
全国にたくさんの会館がありますが、どの会館にも「冨士大石寺顕正会〇〇会館」と書かれた立派な大標識が立っています。広告文や基礎教学書にも「冨士大石寺顕正会」と記されていますね。
では、どうして顕正会は「冨士大石寺」を冠しているのでしょうか?
そこには「すべからく清らかな源流に戻るべし」――との浅井先生の深い御心があられるのです。
「冨士大石寺」とは?
「ちょっと待って!そもそも『冨士大石寺』ってなんですか?そこから教えてもらえると助かるのですが・・・」と思われた、そこのあなた!
わかりやすく説明しますね。
富士大石寺というのは、日蓮大聖人の仏法を唯一正しく受け継いだ二祖日興上人が、正応3年(1290年)に富士山麓の大石ヶ原に建立されたお寺です。
日本には「日蓮宗」と名乗る宗派がいくつかありますが、どれも日興上人とは別の「不相伝」の者たちが開いた宗派で、いずれも間違っています。
まさに富士大石寺こそ、日蓮大聖人の仏法の正系門家であり、700年来、大聖人の仏法を正しく清らかに伝えてきたのです。
御遺命破壊の大悪起こる
ところが昭和40年代になって、この正系門家で最大の信徒団体だった創価学会の会長・池田大作が大野心を懐き、「時の貫首」第66世・細井日達を籠絡して、大聖人の唯一の御遺命を曲げるという大悪が起こりました。これが「御遺命破壊の大悪」です。まさに第六天の魔王の働きによるものです。
このとき、創価学会とこれに諂う宗門(日蓮正宗)を敢然と諫め、御遺命の正義を守り抜いたただ一人の御方が、浅井昭衞先生でした。そして浅井先生が率いられた「妙信講」という講中が、その後「顕正会」となったのです。
「冨士大石寺顕正会」と名乗る
顕正会は、もともと日蓮正宗の一信徒団体だったので、「日蓮正宗顕正会」と名乗っていました。
しかし平成9年、浅井先生は、全日本人に日蓮大聖人の大恩徳を伝えて帰依を促す「一国諫暁」にお立ちになるにあたり、名称を「冨士大石寺顕正会」に改められたのでした。
その御心について浅井先生は、次のように仰せられています。
この諫暁をなすにあたって、これまで「日蓮正宗」と冠していたのを、「冨士大石寺顕正会」と改めた。
そのわけは、すでに「日蓮正宗」は国立戒壇の御遺命を放棄している。また学会との醜い抗争で国中の嘲りを受けている。どうしてこの宗名を冠して一国諫暁ができようか。よって正系門家の源流たる日興上人・日目上人の清き流れを表わす「冨士大石寺」を冠して立ったのである。
ちなみに、富士大石寺が「日蓮正宗」の宗名を用いたのは、大正元年以降のわずか一〇三年に過ぎない。そしてこの一〇三年において、僧侶の妻帯、職業化等、今日の腐敗堕落の気運が醸成されたのであった。「すべからく清らかな源流に戻るべし」――この思いから「冨士大石寺顕正会」と名乗ったのである。
「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」第10章より
いかがでしょうか。「日蓮正宗」は、池田大作の権力と金力にへつらい、大聖人唯一の御遺命たる国立戒壇建立を放棄してしまいました。御本仏に背く師敵対に陥ってしまったのです。
加えて、当時、御遺命違背の罰により、創価学会と日蓮正宗は泥沼のような抗争に陥り、互いに誹謗中傷し合い、裁判沙汰も頻発していました。当然、国中の人々から白い目で見られ、嘲笑されていました。
このような師敵対・腐敗堕落の「日蓮正宗」の名を冠して、どうして日蓮大聖人の大恩徳を一国に叫び、大聖人への帰依を全国民に促す御奉公ができるでしょうか。
ここに浅井先生は、「すべからく清らかな源流に戻るべし」との御心で、正系門家の源流たる日興上人・日目上人の清き流れを表わす「冨士大石寺」を冠して一国諫暁に立たれたのでした。
まさに「冨士大石寺顕正会」こそ、日蓮大聖人の仏法を正しく清らかに実践する唯一の団体であり、富士門流の正統なのです。
師敵対の宗門に「冨士大石寺」を冠する資格なし
こうなると面白くないのが、御遺命に背いた宗門(日蓮正宗)の人たちです。
「クソッ!宗門はどんどん衰退して先細りなのに、なんで顕正会はあんなに活気に満ちて、どんどん増えているんだ!おかしいじゃないか!!」
「もともと『冨士大石寺』は俺たちの名称なのに、それを勝手に名乗りやがって!許せない!!」と。
なんというか、すごくかわいそうな人たちですよね。
でも残念なことに、彼らはすでに日蓮大聖人の御義に背き、師敵対に陥っている以上、大聖人の弟子ではありません。だから「冨士大石寺」を名乗りたくても、名乗る資格がないのです。
宗門が「冨士大石寺」を名乗れない理由
大事なことなので、少し詳しく説明します。
日蓮大聖人は、弘安5年9月の一期弘法付嘱書において、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御遺命され、最後に「就中我が門弟等此の状を守るべきなり」とお誡めになられています。ゆえにこの御付嘱状に背く者は、大聖人の「門弟」ではないのです。
ここに仰せの「本門寺の戒壇」とは、弘安5年4月の「三大秘法抄」を拝すれば、まさしく王仏冥合・王臣受持の時、「勅宣並びに御教書」すなわち国家意志の表明を以て建立される「国立戒壇」であること、太陽のごとく明らかです。
ですから、国家的な戒壇建立を否定し、池田大作が建てた偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と讃え、へつらい、御付嘱状に背いた師敵対の宗門(日蓮正宗)は、もはや大聖人の「門弟」ではないのです。
また、「富士大石寺」の開祖にして「末法万年の総貫首」であられる二祖日興上人は、御入滅の二十数日前、「日興遺誡置文」を記し留め置かれました。これはきわめて重大な御遺誡です。
冒頭の第一条には、「富士の立義、聊かも先師の御弘通に違せざる事」と。
これこそ、富士大石寺の教義は、いささかも先師日蓮大聖人の御弘通に違うところはない――との重大な御宣言です。
ゆえに大聖人の御弘通に違えば、もはや日興上人の門流とはいえません。
先に見たとおり、日蓮大聖人の唯一の御遺命たる国立戒壇を否定し、池田大作にへつらって偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と詐称した宗門が、もはや日興上人の門流でないことは説明の要もないでしょう。
こう書くと、「そ、そんなの関係ない!宗門では、時の猊下(貫首)の言うことが絶対なんだ!猊下がクロと言えばクロ、シロと言えばシロ!だから、あの当時は学会が強くてそれに従ったけど、猊下が良いと仰ったんだから、別に構わないんだ!!」といきり立つ、かわいそうな法華講員が出てきそうです。
でも、日興上人は「遺誡置文」の中に、次のごとく重大な御定めをされています。
「時の貫首たりと雖も、仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」
たとえ「時の貫首」であっても、もし大聖人の仰せに背いて自分勝手な説を主張したら、絶対にこれを用いてはいけない――ということです。
この御遺誡に背き、「時の貫首」に盲従してその己義に従っているから、今の宗門僧俗はもはや日興上人の門流ではないのです。
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず」との遺誡置文の末文を、宗門僧俗は深く受け止めなければなりません。
「冨士大石寺」を冠して戦える有難さ
いかがでしょうか。広布の前夜、正系門家が濁乱し、学会・宗門が悉く極限の大謗法・師敵対に陥る中、日興上人・日目上人の清き源流に立ち還り、御本仏大聖人の仰せのままの信行が叶う顕正会員の立場は、なんと有難いことでしょうか。
浅井先生は、次のように仰せられています。
「日蓮大聖人の御弘通の所詮は三大秘法に尽きる。三大秘法とは『本門の本尊』と『本門の題目』と『本門の戒壇』であります。この三大秘法を一分の誤りもなく、大聖人様の仰せのままに伝えているのは、日興上人の富士大石寺以外にないのです。
いま国立戒壇建立の御遺命に違背して師敵対に陥った正系門家の中で、顕正会だけが日興上人の御心のままに『冨士大石寺』の名を冠して広宣流布に戦えること、何とも有難いことであります」と(日曜勤行指導③より)。
まさに「冨士大石寺顕正会」という名称こそ、御本仏日蓮大聖人、そして二祖日興上人の御心のままに戦う正しい団体は顕正会だけであることを、一国に堂々と表しているのです。