山口会館御入仏式、厳修
5月12日、本州最西端の地・山口県で、浅井城衞会長のもと、山口会館御入仏式が厳粛に奉修されました。
山口会館は、浅井昭衞先生が最後に建設をご決断下された会館です。中国地方の顕正会員は、浅井先生の御逝去という深い悲しみを乗り越え、ただ西日本広布を熱願された先生の御心を見つめ、御報恩の赤誠を尽くしてきただけに、ついに迎えた御入仏式の感慨はひとしおでした。
浅井先生の西日本広布への深き御心
御入仏式の席上、浅井会長は、浅井先生の西日本広布への深き御心を教えて下さいましたが、私自身、涙が止まりませんでした。
先生は一つひとつの会館建設に格別の思いを込めておられました。
先生が御逝去される五ヶ月前の昨年五月に愛媛会館御入仏式が執り行われましたが、そこに臨まれた先生のお心を、私は生涯忘れることはありません。
これは今だからお話しいたしますが、そのころすでに、先生は体力の衰えが窺われておりました。
ご自宅がある埼玉から遠方の愛媛まで御入仏式に赴くことを心配した私の母が、何度も先生に対し「リモートか、ビデオメッセージでご指導なさってはいかがですか」と進言しておりました。
しかし先生は、四国の同志が愛媛会館御入仏式を見つめて真剣勝負の気魄で戦い、大成長を以て先生をお迎えせんとしていた、その涙の出るような熱誠を誰よりもご存知でしたので、その進言を退け「私は必ず愛媛に行く」と、現地の同志との約束を果さんと、愛媛行きを決行されたのでした。
当日、御入仏式を終えて羽田空港に到着しました。
飛行機の到着口から送迎車が停めてある駐車場所までは、相当な距離があります。
空港の施設内には動く歩道が設置されてはいるものの、その長い距離を徒歩で移動するだけでも、先生におかれては、かなりのご負担でありました。
途中、休憩をされつつ歩まれ、ようやく送迎車にお乗りになったとき、先生は息を・・・切らしておられ、私自身、申しわけなさで、身が縮む思いで先生をご自宅までお送りしたこと、今でもはっきりと覚えております。
その翌朝、御入仏式のお礼とその感激を先生に申し上げた際、かえってこちらの労をねぎらって下さったそのご慈愛に、私は胸が詰まりました。
先生の、大聖人様に対し奉る大忠誠心から発する西日本広布にかけられる大情熱、そしてけなげに戦う同志の真心を何より大切に思って下さる深きご慈愛を痛いほど感じては、なんという偉大な師匠に師事し得たのかと、熱涙がとめどなくあふれてまいりました。・・・
私は、いずれの御入仏式・地方大会にも随行させて頂きましたが、帰りの車中において先生は、みなの熱烈な信心をおほめ下さり、また力ある人材が次々と台頭して西日本に力強い広布の潮流が起きてきたことを心から喜ばれ、今後の成長に強い期待を寄せておられました。そのときの先生のご温顔は、今なお鮮明に脳裏に灼きついております。
この先生の西日本広布に対する熱情を胸に懐きつつ、私は本日、ここ山口に参りました。
ここに今、私は西日本の同志に伝えたい。
西日本顕正会員は、いよいよ東日本を凌ぐ戦いを断じてなし、以て西日本の大前進を熱願された浅井先生への御報恩に擬し奉り、霊山にまします先生より「西日本顕正会員はよくぞここまで成長した」とおほめを頂く戦いをなさねばならない――と。
されば本日こそ、西日本顕正会員が総決起するその新たな出陣と心し、三百万の大陣構築までに、顕正新聞・新年号の列島分布図における西日本の全県を深紅に染める戦いをなし、全員で先生にお応えしてまいろうではありませんか。
顕正新聞5月25日号
浅井先生をお慕いする元妙信講顧問弁護士
次いで会長は、かつて浅井先生が学会弁護団と戦われた「法廷闘争」について、元妙信講顧問弁護士の貴重な話をもとに指導下さいました。
この「法廷闘争」とは、解散処分を受けても微動もしない妙信講(顕正会の前身)をなんとしても潰さんとする池田大作が、妙信講の命ともいうべき本部会館の御本尊を奪取せんと仕掛けてきた非道な裁判で、先生は御本尊をお守りするため、師子王のごとき御気魄で学会弁護団と戦われたのです。
この法廷闘争に尽力した妙信講の元顧問弁護士が、本年の年明け早々、なんと先生の御逝去を知って弔問に訪れたというのです。
その方は、現在80代前半の現役の弁護士で、昭和50年代に法廷闘争が決着した後は顕正会の法務に携わっていなかったものの、先生のご信心・ご人格に心から敬服し、先生が御逝去されるまでの間、必ず年に一度、高級な胡蝶蘭を送り続けていました。
弁護士は、当時のことを振り返りつつ、このように話していたそうです。
「浅井先生は日蓮大聖人のいちばんの御弟子です」
「日蓮大聖人はいかに仰せられるかと、先生はいつもそのことだけを考えて行動しておられた」
「先生が御逝去されたという感覚が私には全く湧かない。今なお浅井先生の凄い力が顕正会をグングン引っ張っているように感じてならない」
「生と死の境目のない人を、私は生まれてはじめて見た」と。
後日、会長は弔問のお礼を兼ねて、弁護士のところへ挨拶に行かれました。弁護士は、これまで浅井先生から送られてきた数々の手紙や、法廷闘争が決着した際に寄贈された記念品を、嬉しそうに見せてくれたそうです。
「法廷闘争決着記念」「妙信講講頭 浅井昭衞」と大書された筆文字を見て、会長は「法廷闘争の決着をお喜びになった先生のお心が強く命に迫り、胸に熱きものが込み上げた」と。
さらに弁護士は、「浅井先生が御逝去された今、当時のことを知っているのは私だけでしょうから、すべてをあなたに伝えておきたい」と、妙信講の顧問弁護士として活動する中で目にしたあらゆる事柄を、浅井会長に諄々と教えてくれたそうです。
弁護士によると、裁判で先生の証言を聞いていた裁判長は、尋問期日のたびに先生の証言を聞くのが楽しみになり、また次の証言が聞きたくなり、何回も尋問期日を設けてくれたそうです。「弁護士を50年以上続けてきたが、このような裁判長の対応は、あの裁判以外に見たことがない」と。
また弁護士は、先生の証言を聞いた裁判長が「あたかも日蓮大聖人の辻説法を聞いているみたいで感激した」と感想を漏らしていたことも教えてくれました。
学会側が全面屈服して決着
当時、先生がもっとも懸念されていたのは、裁判の長期化・泥沼化でした。ゆえに先生は、学会弁護団の責任者で顧問弁護士の山崎正友の動向から、池田大作の心理を読み取られ、裁判の落しどころを見極めたうえで鋭い指揮を執られました。そこに、先生の師子吼に身をすくめた学会弁護団は、ついに裁判の続行が不可能となり、「今後、二度とこの問題で訴訟を起こすことはしない」などと約束し、顕正会側の主張をすべて飲む形で決着したのでした。
「あやうく折伏されそうになった」
法廷闘争が決着した直後の総幹部会で、浅井先生は次のように指導下さいました。
今度の裁判でいろいろな不思議を感じたことがあったが、その一つは良き裁判長にお会いできたということである。
四月二十日、すべて事をおえた後、二人の顧問弁護士に付き添われて、私は裁判長に御挨拶に上がった。一言お礼が言いたかったからである。裁判長に
「直接裁判に関係のないと思われる教義上のことを、かくも長時間忍耐強くお聞き下され、感謝にたえません。さぞや退屈されたでしょう」と申したところ、裁判長の言われるには
「自分は裁判官となって二十七年、これほど時間をかけた大きな裁判もなかったが、これほど感動に満ちた裁判もなかった。またこれ以上の解決も有り得なかった」と言ってくれた。
聞けば裁判長は鎌倉の生まれで、日朗の入れられた土籠、あるいは松葉ヶ谷の庵室のそばで育ち、大聖人の御人格を昔より偲んでいたという。「今回の裁判で、はからずもまことに良き勉強をさせて頂いた」とも言われた。・・・
また、「あなたのメリハリのきいた証言を聞いているうちに、私も危うく折伏されそうになった・・・」(大爆笑)。「この問題が将来どのようになっていくか重大な関心を以て見守りたい」とも最後に言われていた。
顕正新聞5月25日号
御遺命守護の戦いは不思議の連続
浅井会長は、元顧問弁護士の貴重な話を聞き、弟子の想像すら及ばない先生の凄まじい激闘の一端を垣間見る思いとなり、「感動で胸がいっぱいになった」と。
同時に、法廷闘争をはじめ先生の御遺命守護の戦いに伴う数々の不思議、大聖人様の厳たる御守護を通して、「大聖人様にお味方申し上げる者は、かえって大聖人様がお守り下さる」こと、ゆえに「仏法には断じて犠牲がない。広宣流布の戦いには絶対に義性がない」ことを教えて頂いては、大歓喜が込み上げました。
私も「遥拝勤行」と「広告文」で勇み立ち、「私たちはかかる大忠誠の先生の指さされたまま忠誠を貫いていくならば、大聖人様が衣を以て覆い御守護下さり、大事の御遺命成就の御奉公を成し遂げることが叶うこと、よくよく大確信すべきである」との会長の仰せを胸に、いよいよ広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!