創価学会の物狂おしい己義を、浅井会長が徹底粉砕されました

「六百万学会員を救わん」特集号5が出来しました

 3月度総幹部会を特集した顕正新聞4月5日号が出来しました。

 その名も「六百万学会員を救わん」特集号5

 「極限の大謗法」「未曾有の邪教化」に陥った創価学会で入阿鼻獄となる学会員を救わんと、いま全顕正会あげて熱烈な弘通がなされています。その中、学会から正義にめざめた方が続々と顕正会に入会し、歓喜と決意をみなぎらせて溌剌と登壇される姿にはほんとうに驚かされます。

 いよいよ六百万学会員が救われる「時」が来たんですね!

 今回のご講演で浅井会長は、池田大作一党がこしらえた物狂おしい己義を完膚なきまでに粉砕され、大聖人様の御心のままの正義を示して下さいました。改めて、顕正会員として大聖人仰せのままの信行が叶う有難さを噛みしめるばかりです。

 それでは、さっそく見ていきましょう!

仏法の正邪の判断基準

 まず浅井会長は、仏法の正邪の判断基準を教えて下さいました。

 破良観等御書に「論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん」と仰せのように、教義・主張の正否は、経文の裏付けがあるかどうかを見極めることが大事であり、「末法の下種仏法中における最高の文証とは、御本仏日蓮大聖人の御金言である。大聖人の門下においては、御書を唯一の拠り所として、正しく仏法を行じなければいけない」と。

 そのうえで浅井会長は、池田大作一党がこしらえた学会の教学なるものがいかにデタラメかについて、「成仏」「広宣流布」「立正安国」という根本教義の逸脱ぶりを例として指導下さいました。

デタラメ「成仏」

 学会は、池田大作の死亡公表と同時に発刊した「創価学会教学要綱」で、「成仏」の定義について次のように記しています。

 「創価学会では、信仰によって仏界を開き現し、自身が生きている意味を明確に洞察し、生きていること自体に歓喜を覚える状態を指して、『成仏』と呼んでいる」と。

 なんと〝生きている意味を洞察し、生きていること自体に歓喜を覚える状態〟が成仏なのだそうです!

 これだと、仏法を実践していない人たちでも、ちょくちょく「成仏」していることになりますよね?(笑)あまりのデタラメぶりに、開いた口がふさがりません。

 「成仏」とは、そのような薄っぺらなものではありません。仏様が証得された三世にわたって永遠に崩れない最高無上の幸福境界をいうのです。

 そしてその現証が臨終の相に厳然と現れるところに、日蓮大聖人の仏法の偉大さがあります。

 ゆえに大聖人様は臨終の証拠について「少しもくもりなし」(妙法尼御前御返事)と仰せられ、さらに「臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」と明確に御教示下されています。なんと有難いことでしょうか。

 実は、創価学会もかつては正論を述べていました。昭和39年に発刊された池田大作監修の「仏教哲学大辞典」には、「死は人生のもっとも大事な問題である。人が成仏したか、しないかは死相にはっきりとあらわれる」と書いてあるのです。

 それがいつの間にか〝生きていること自体に歓喜を覚える状態〟にすり替えられてしまったのです。いやはや、恐ろしいですね。

 では、どうして学会は、「成仏」の定義をこのように変更してしまったのでしょうか?

 浅井会長は、「それは、御遺命に背き戒壇の大御本尊を捨て奉った学会では、学会員の臨終が悉く悪く、臨終の相には一切ふれられなくなってしまったからである」と断じておられます。

インチキ「広宣流布」

 次に「広宣流布」の定義について、教学要綱は次のように記しています。

 「広宣流布とは、万人の成仏を可能とする大聖人の仏法を弘めることである」と。

 つまり〝大聖人の仏法を弘めること〟が広宣流布だ、と言いたいようです。

 それなら、いつでもどこでも「広宣流布」と言えてしまいますよね?(笑)

 広宣流布というのは、そのようなインチキなものではありません。

 大聖人様は諸法実相抄に「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」と御断言下されています。

 広宣流布の時は、上は天皇から下は万民に至るまで、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る。このことは大地を的とするところである――と。

 この御本仏のあそばす雄大なる「広宣流布」を、あろうことか学会は〝仏法を弘めること〟などと矮小化し、貶めているのです。

 まして学会は、広布の根源であられる「本門戒壇の大御本尊」を捨て奉っているのですから、広宣流布を口にする資格などありません。浅井会長は「戒壇の大御本尊を捨て奉った輩が何を言うのか」と叱責されています。

ナンチャッテ「立正安国」

 そして、特に驚きだったのが、教学要綱に記された「立正安国」の定義です。

 「広宣流布の一側面を示すのが、『立正安国』の思想である」

 「広くいえば、このように、社会全体に正法の理念を浸透させていくことが、『立正』である。・・・自然災害そのものはなくならないとしても、自他共の幸福を第一義とする社会では、被害を最小限に抑え、さらには未然に防ぐ施策が取られるにちがいない。これが、『立正』から帰結する『安国』の実現である」と。

 つまり、〝正法の理念を社会に浸透させることが「立正」で、そうすれば、自然災害はなくならないけど、それを最小限に抑える人為的な防災対策が取られるに違いない。それが「安国」だ〟と言いたいようです。

 なんと低次元な理解でしょうか。

 浅井会長は、「信心のない輩が凡夫の浅知恵で御書を読むと、かくも薄っぺらな捉え方になるのか」、「これ、大聖人様の立正安国の崇高なる大精神を蹂躙するものである」と痛烈に呵責されました。

 では、「立正安国」とはいかなるものでしょうか。

 浅井会長は立正安国論の御文を引かれ、「汝早く信仰の寸心を改めて」は破邪、「速やかに実乗の一善に帰せよ」は立正、「然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや」以下は安国であることを示され、日寛上人の御指南に基づき、その元意は実に「一切の邪法を捨てて国立戒壇を建立すれば、日本および全世界は現当二世に安泰たるべし」であると明示されましたが、胸のすく大感動が込み上げました。

学会の「未曾有の邪教化」は天魔の所為

 いかがでしょうか。池田大作一党のこしらえた学会の教学なるものがいかにデタラメな己義であるか、きっとおわかり頂けたことと思います。

 どうして彼らはここまで逸脱してしまったのでしょうか?

 浅井会長はズバリ「偏に第六天の魔王の所為である」として、「学会員はこの実態と本質に刮目し、『師なりとも誤りある者をば捨つべし』(曽谷抄)との仰せのまま、悪師を捨てて正しき師匠に師事すべきである」と叫ばれましたが、早く全学会員を正義にめざめさせ、ともに御遺命成就に戦う同志にせん!と思うばかりです。

お救い下さるは日蓮大聖人ただ御一人

 この学会の物狂おしい逸脱ぶりを見るほどに、いま浅井先生の弟子として、大聖人仰せのままの信心が叶う有難さを噛みしめずにはいられません。

 浅井先生は、宇宙的スケールの力用を持つ諸天の存在と、その諸天に申し付け給う大聖人様の絶大威徳を、いつも教えて下さいました。そして、「この諸天の働きがわからければ、仏法はわからない。御書を如実に拝し奉ることはとうていできない」と常々仰せ下さいましたが、浅井先生の弟子になり得ればこそ、私たち顕正会員は「仏法は生きている」ことを如実に拝し、日々功徳を頂きながら広宣流布絶対の確信でふるい立てるのだと、師恩報謝の念は言葉に尽くせません。

 そこに、日本一同の違背に加え、正系門家が極限の大謗法・師敵対に陥るゆえに、「仏法より事起こる」大罰たる巨大地震・国家破産・他国侵逼が刻々と日本に迫る今、この大惨禍をお救い下さるは、諸天に申し付ける絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であることを知り、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」との重大事を全日本人に叫ばせて頂ける私たち顕正会員の立場は、なんと有難いことでしょうか。

 「今、御本仏の順縁広布の御化導をお手伝いさせて頂くのは、解散処分を受けるとも御遺命を守り奉り、一筋の大忠誠を貫かれた浅井先生が築きあげられた、地涌の菩薩の大集団たる顕正会以外に断じてあるべくもない」との浅井会長の仰せを胸に、私も広告文と特集号を手に、いよいよ広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!