宗門「海外部」の堕落した実態が暴かれました

「クリスマス」を祝う宗門の「HAPPY OESIKI」

 最近、宗門(日蓮正宗)の腐敗堕落を克明に暴き続けている顕正新聞の名物コラム「世相閻魔帳」。週刊文春の〝文春砲〟ならぬ〝閻魔砲〟ともいうべきその調査力、取材力、インパクトには毎回驚かされます。

 その〝閻魔砲〟に、またまた驚くべき記事が掲載されていました。

 なんと宗門「海外部」の団体が「クリスマス」を祝ったり、御大会式を冒涜して「HAPPY OESIKI」「バザールOESIKI」などとはしゃいで飲み食いしているというのです(顕正新聞令和4年5月15日号)。

 ・・・なんというか、もう、本当に信心がないんですね。これでは第六天の魔王に簡単に誑かされ、御遺命を捨て入阿鼻獄となるのも当然です。

 それではさっそく内容を見ていきましょう。

クリスマスを祝う

 宗門にはインドネシアに2つの末寺があり、1つは「法清寺」(住職は戸沢良昭)、もう1つが「妙願寺」(住職は土田法積)です。また、現地の信徒組織として、「インドネシア日蓮正宗協議会」(Majelis Nichiren Shoshu Buddha Dharma Indonesia)があります。

 ところが、彼らの逸脱ぶりは凄まじく、なんとこの団体はSNS上で「クリスマス」を祝う投稿を平然と行っていたというのです。その写真がこちらです。

 いかがでしょうか。もはや開いた口がふさがりません。この一事を見れば、インドネシアの宗門僧俗に信心の欠片もないことは明らかです。

「御会式」を冒涜

 実際、彼らは仏弟子にとって最も重大な御報恩の儀式である「御大会式」(宗門では御会式(おえしき)と呼んでいます)をも冒涜しています。

 そもそも御大会式というのは、日蓮大聖人の御入滅という深い悲しみの中に、御本仏の「常住不滅」「常住此説法」の御姿を如実に拝し奉り、御付嘱状に示された唯一の御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立を見つめて不惜身命の誓いを新たにする、仏弟子にとって最も重大な御報恩の儀式です。

 ゆえに顕正会では、毎年、厳粛な空気の中に代表幹部が集い、浅井先生のもと御報恩の勤行を申し上げ、御遺命成就への誓いを新たにしているのです。その様は、あたかも大聖人御入滅に際しての池上邸のごとき厳粛さです。

 ところが、腐敗堕落した宗門(日蓮正宗)の手にかかると、この最も重大な御報恩の儀式が、次のように戯けた〝お遊戯会〟になってしまうようです。

 いかがでしょうか。私たち顕正会員からすると、ちょっと信じられない光景です。御本仏大聖人を冒涜するあまりの腐敗堕落、腐り切った姿に憤りが込み上げます。

 「世相閻魔帳」によると、住職の戸沢や土田がインドネシアで執行した平成28年の「御会式」では、寺の随所に「HAPPY OESIKI」というふざけた飾りつけがされ、式終了後はさまざまな料理やゲームを提供する屋台や露店が多く立ち並ぶ「BAZAR OESIKI」(バザー御会式)などと称するイベントを開催、現地信徒らが飲み食いしながらゲームやダンスに興じていたそうです。

 しかも特設ステージには御会式にちなんで、桜の花の模様をあしらった幕に「malam hiburan(エンターテイメントナイト)Oesiki 2016」とのポップな文字が掲げられたとのこと。

 本来、御大会式の「桜」は、大聖人様が御入滅された際、天地法界がそれを悲しんで時ならぬ桜が池上邸の庭に咲き乱れたという由緒深いものです。それを、あろうことか「エンターテイメントナイト御会式」なるふざけた行事の横断幕にするとは言語道断。〝御大会式に対する冒涜〟というほかありません。

法師の皮を著たる畜生

 このように信心の欠片もない禿人たちですから、もちろん御大会式の意義など眼中になく、もっぱら「エンターテイメントナイト」を満喫したようです。

 殊に法清寺住職の戸沢は、おいしそうな料理を前にして大はしゃぎし、皿いっぱいに料理を乗せてご満悦の様子。「まるで食べ放題のバイキングに連れてこられて嬉しくて仕方のない小学生のよう」な面体を晒しています。

 〝閻魔砲〟は次のように喝破しています。

 このような輩には、流罪・死罪の大難を耐え忍ばれた御本仏の大慈大悲、御遺命の重大事などおよそ眼中にないに違いない。

 「受けがたき人身を得て適(たまたま)出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして徒に遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし

 との御本仏の厳しきお誡めを恐れよと言いたい。

顕正新聞令和4年5月15日号

 いかがでしょうか。これが御遺命に背き、極限の師敵対に陥っている現在の宗門(日蓮正宗)の実態です。

入阿鼻獄は必定

 先の松野抄の御文には続きがあります。

 「迹門には『我身命を愛せず、但無上道を惜しむ』ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』と見えたり。本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり。

 此等の禁めを背く重罪は、目には見えざれども積もりて地獄に堕つる事、譬えば寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来たりて草木人畜をせめ、夏は熱来たりて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし」と。

 浅井先生はこの御文について次のように指導下されています。

 ――この「身命を捨てて法を弘むべし」の禁めに背く重罪は、目には見えないが積もり積もって地獄に堕ちること、たとえば寒さ暑さは目には見えないが、冬には寒が来て草木・人畜を責め、夏には熱が来て人畜を熱悩させるようなものである――と。

 出家でありながら、広宣流布を忘れ折伏弘通せぬ者はこのような大罰を受ける。況んや御本仏の一期の御遺命に背く大罪をやです。

 だから今の僧侶たちの臨終は、みな悪いのであります。

「『松野殿御返事』を拝し奉る」

 されば大聖人一期の御遺命に背き奉る大罪を犯して一分の改悔なく、あろうことか「クリスマス」を祝い、「エンターテイメントナイト御会式」などと称して酒池肉林、遊戯雑談する宗門の禿人どもは入阿鼻獄必定と言わねばなりません。

 また、これら入阿鼻獄・師敵対の禿人に「御尊師サマ」などと盲従し、ひらに信服随従する〝食い扶持〟よろしく法華講員たちの末路も同様です。

 宗門は御遺命違背の大罪を大聖人様に謝し奉った上で真摯に出直さない限り、入阿鼻獄そして「餓鬼道に堕つる」こと必定です。