上野殿の純粋不退の信心

「上野殿」とは

 本年の元旦勤行で浅井先生は、上野殿の純粋不退の信心について指導下さいました。「上野殿こそ、熱原の法華講衆とともに、私どもの信心の鑑(かがみ)でありますれば、その強く清らかな信心について、少しく述べさせて頂きたい」と。

 上野殿(南条時光)は、日蓮大聖人の御化導を命かけて助けまいらせた在家のお弟子で、地頭という立場で国家権力の迫害から大聖人の弟子を守り、極度の窮乏の中にも真心の御供養を貫き通され、大石寺建立に資力を尽くされた方です。

 それでは、さっそく浅井先生のご指導を拝していきましょう。

父上の入信

 上野殿の父上は、現在の静岡県・富士郡上野郷の地頭で、南条兵衛七郎というお方です。鎌倉幕府に仕える武士でもあったので鎌倉在勤の日が多く、そこで始めて日蓮大聖人に値い奉り、帰依し奉ったという人です。

 この父上が文永2年に亡くなられ、上野殿は父上の跡を継いで上野郷の地頭となられました。この時わずか7歳。

 大聖人は、父上・兵衛七郎殿の人柄を惜しまれて、鎌倉からわざわざ上野郷の南条家まで赴かれ、墓参・回向を下さいました。なんと有難いことでしょうか。この御慈愛が、南条家の信心の大本になったのです。

上野殿の内薫力

 その後、大聖人は法難に次ぐ法難の連続で、音信は全く途絶えました。竜の口の死罪に引き続き、「生きて帰る者はない」といわれた佐渡へ流罪となったからです。ところが上野殿は、その間も一念も大聖人を忘れ奉らなかったのです。

 そして、大聖人が佐渡からお帰りになって身延に御入山されたと耳にされるや大歓喜し、さっそく真心こめて御供養の品々を身延の山中にお届け申し上げました。このとき上野殿16歳。

 大聖人はこの信心をお喜び下さり、文永11年7月には、「鎌倉にてかりそめの御事とこそ思ひまいらせ候いしに、思ひ忘れさせ給わざりける事、申すばかりなし」とのお言葉で始まる、御慈愛こもる御文を下さいました。

 上野殿が大聖人にお目にかかったのは、父上に手を引かれてのまだ幼少の折の一度か二度であったにもかかわらず、一念も大聖人を忘れ奉らず、身延御入山後直ちに御供養を捧げまいらせ、以来、命かけての御奉公に突入されたのです。浅井先生は、「その宿縁の深さ、内薫力の強さには、ただ驚嘆のほかはない」と仰せられています。

熱原の大法難

 弘安2年、熱原の大法難が起きます。この法難は、官憲と結託した邪宗の者どもが、富士熱原地方で熱烈な信心に立つ神四郎・弥五郎・弥六郎という3人の農民を中心とする「法華講衆」の壊滅を策し、無実の罪で逮捕して鎌倉へ押送し、当時最高実力者といわれた平左衛門が直々に法華講衆を威し、蟇目の矢で苛み、彼らを退転させようとしたものです。

 しかし法華講衆は一人も臆さず、一死を賭して南無妙法蓮華経と唱え奉り、答えに替えました。平左衛門は驚愕し、法華講衆の代表である神四郎・弥五郎・弥六郎の3人を引き出し、ついにその頸を刎ねたのでした。

 しかし、平左衛門は3人の肉体は壊せても、日蓮大聖人に南無し奉る信心は壊せませんでした。法華講衆の「一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず」の信心は、理不尽な国家権力についに打ち勝ったのです。

 この事態を知り給うた大聖人は、深く深く御感あそばされ、神四郎等3人の法華講衆を「願主」として、御一代の最大事・出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を建立あそばされたのです。

上野殿の不惜身命

 この大法難において、地元の地頭であった上野殿の振舞いは、まさに一命を賭しての御奉公でした。

 上野殿は法華講衆の捕縛を耳にされるや、直ちに自宅を対策拠点とし、今後さらに逮捕されるであろう法華講衆の人々を匿い、現地で指揮を執る日興上人の隠れ家まで用意されました。また幕府に対し、不法処分の取り消しを訴えるとともに、怨嫉の中心者・行智(滝泉寺院主代)の罷免を求め、捕縛された者たちが不当な処分を受けないよう積極的に行動されました。

 これらの動きは、幕府の怒りを買うこと当然です。もしかしたら上野殿も逮捕され、頸を刎ねられるかもしれません。まさに一死を賭しての戦いだったのです。このとき上野殿21歳。

 大聖人は大法難直後の弘安2年11月6日の「上野殿御返事」において、この上野殿の不惜身命の御奉公を賞嘆あそばされ、その文末に「上野賢人殿御返事」とお認め下さり、さらに「此れは熱原の事のありがたさに申す御返事なり」と記し給うておられます。堀日亨上人は「門下の中で大聖人様から『賢人殿』と呼ばれた人は他にない。上野殿が始めてである」旨を仰せられています。

献身の御供養

 その後、上野殿に対して、幕府から不当な重税が課せられました。ために南条家は極度の経済的窮迫に陥りました。

 その様を大聖人が思いやり下されて、弘安3年12月の「上野殿御返事」には、「わが身は乗るべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし」と。地頭でありながら乗るべき馬もなく、妻子は着るべき着物もなかったのです。

 しかし、そのような困窮の身でありながらも、上野殿は、大聖人が「山中の雪にせめられ、食ともしかるらん」と案じては、赤誠の御供養を続け通されたのです。

 大聖人はこの真心を「貧女がめおとこ二人して一つの衣を着たりしを乞食にあたへ、りだが合子の中なりし稗を辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとし、たうとし」と仰せ下されています。なんと有難い御文でしょうか。

 この真心の供養の功徳か、上野殿は晩年には大長者になられています。まさに現世の大利益ですね。

 そして大聖人御入滅後、上野殿は日興上人を師と仰ぎ、大石寺建立に資力を尽くされました。その後、上野殿は日興上人・日目上人の御化導を外護し通され、正慶元年、大聖人がお待ちあそばす寂光の宝刹へ旅立たれたのです。

上野殿の清純不退の信心を鑑に

 いかがでしょうか。上野殿の清純不退の信心を伺っては強く胸打たれ、浅井先生が本年の元旦にこの指導を下さった御心を拝察しては粛然と身が正されます。

 今後、巨大地震、経済崩壊、他国侵逼等、広布前夜の大罰によりますます厳しくなる客観情勢を見据え、御遺命成就に戦う私たち顕正会員こそ、熱原の法華講衆、そして上野殿のような清純不退の信心に立ち、これを乗り越えていきなさいとの御慈愛を感じては、私も今一重の強き信心に立って広宣流布に戦わん!との思いが込み上げました。

時いたれば日本国一時に信ずる

 最後に浅井先生は、建治3年5月の「上野殿御返事」を引かれ、広宣流布について大変有難い指導を下さいましたので、引用したいと思います。

 さて、冒頭に拝読した「上野殿御返事」は、熱原法難直中の建治三年五月の御書であります。この翌年が弘安元年になる。

 幕府の不当な圧迫に耐えつつ命かけての御奉公を貫く上野殿に対し、大聖人様はこう仰せ下されている。

 「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし。爾の時、我も本より信じたり我も本より信じたりと申す人こそ、をゝくをはせずらんめとおぼえ候」と。

 ―梵天・帝釈等の諸天の計いにより、日本国一時に信ずる事あるべし――と御断言下されている。

 そして広宣流布になれば、それまで反対していた者たちまで「実は私も前から信じておりました」「信じておりました」と言うであろう――と仰せ下されている。

 いいですか。

 今はまだ日蓮大聖人の仏法を信ずる人は少数ですよ。だが時至れば、全日本人が一時に、みな頭を地につけ掌を合わせて、一同に「南無妙法蓮華経」と唱え奉る時が必ず来る。その御予言を、ここにお示し下されているのであります。

 たとえば、どのような慢心の者も、重病で行き詰まるような時には、折伏を素直に聞くようになる。

 「病によりて道心は起こり候か」とはこのことです。

 もし罰によって亡国の大難たる他国侵逼が起こるとき、そしていかなる力を以てしてもこの国を救えない、我が命も危うしというとき、人々は始めて深刻に日蓮大聖人の絶大威徳・大慈大悲にめざめて、日本一同一時に信じ、「南無日蓮大聖人」「南無妙法蓮華経」と唱え奉るのであります。

 ゆえに撰時抄には

 「前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或いは国を惜しみ或いは身を惜しむゆえに、一切の仏・菩薩に祈りを懸くともしるしなくば、彼の憎みつる一の小僧を信じて、無量の大僧等、八万の大王等、一切の万民、皆頭を地につけ掌を合せて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし

 とも仰せ下されている。

 いま顕正会員は、真心をこめて大聖人様の大恩徳を、全日本人に知らせ、叫んでいる。広告文はすでに七千万枚を超え、やがて一億をも超える。

 たとえ今は軽んずるとも、諸天の働きにより日本の国がいよいよ亡びんとするとき、我が命も危うしというとき、始めて全日本人が、日蓮大聖人の大慈大悲・大恩徳にめざめ、一時にひれ伏すのであります。

 広布前夜に生まれ合わせた私たちは、大聖人様御断言の

 「日本国一時に信ずる事あるべし

 の大現証を、必ず見させて頂ける。

 この広布最終段階に御奉公できるとは、顕正会はなんと有難い宿縁か。

 顕正会こそ、上野殿そして熱原の方々の信心を鑑とせねばなりません。

 さあ、決戦場の第三年、いよいよ強き信心に立って広宣流布を進め、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。

顕正新聞令和4年1月15日号

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