新・新潟会館御入仏式が行われました

8月15日に御入仏式

 8月15日、新・新潟会館の御入仏式が浅井先生によって執り行われました。新・新潟会館は地方会館随一の大法城です。

 御入仏式後には、なんと浅井先生をお見送りする同志が、会館から新潟駅まで沿道を埋め尽くしたそうです。「これが最後」との思いで先生をお見送りした新潟顕正会員の胸中に思いをはせれば、涙が出てきます。

 そして、御入仏式での浅井先生の御講演は、御在世の信心を今に伝えて下さる重大ご指導で、特集号で拝読するたびに有難さが込み上げてきます。

 今回の記事では、浅井先生のご指導の一部を紹介したいと思います。

佐渡御流罪の忍難の大慈悲を拝し奉る

 冒頭、浅井先生は、大聖人がいかに大難を耐え忍び給うて三大秘法をお弘め下さったか、その大慈大悲の御化導を指導下さいました。

 開目抄の「難を忍び慈悲のすぐれたる事は、恐れをも懐きぬべし」との仰せ、日寛上人の「外に大難を忍ぶは、内の慈悲の勝れたる故なり」との御指南を引いて、「まことに、大慈大悲のゆえに、重なる大難を耐え忍び給うたのであります」、「大聖人様は、一閻浮提の人々を成仏せしめんとの大慈大悲のゆえに、いかなる大難をも耐え忍び下されたのです。何と有難いことでありましょうか」と指導下さいましたが、大聖人の無限の大慈大悲に包まれ、ただ有難さでいっぱいになりました。

阿仏房と千日尼

 次いで浅井先生は、佐渡で大聖人に献身のご奉公を貫かれた阿仏房・千日尼夫妻の信心について指導下さいました。

 佐渡中が大聖人を憎み迫害する中に、真夜中に人目を忍んで大聖人の庵室を訪れては食物を供養し、御命を継ぎまいらせた阿仏房夫妻の、身の危険をも顧みぬ献身、そこに大聖人が下された「いつの世にか忘らむ。只(ただ)悲母の佐渡の国に生まれかわりて有るか」(千日尼御前御返事)との仰せを拝しては、思わず涙が込み上げました。

臨終についての御指南と遥拝勤行の大精神

 大聖人は、千日尼の強き信心を賞(め)でられ、次のような大事の御指南を下されています。

 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石(いわ)の如し。善人は設(たと)い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、輭(やわらか)なる事兜羅綿(とろめん)の如し」(千日尼御前御返事)と。

 浅井先生は、「いま広宣流布の前夜、人々に仏法の大事を教えるのに、この御文は極めて大事ですね」と仰せられています。

 また、大聖人は千日尼に対し、次の御指南も下されています。

 「譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾(しゅゆ)に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来たれり。乃至、御面(おんかお)を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」と。なんとも有難いですね!

 浅井先生は、次のように指導下されています。

 「この御文は、遥拝勤行の大精神としてどれほど有難い御指南か。いま広布最終段階の信行として、戒壇の大御本尊を即生きてまします日蓮大聖人と拝し奉り、距離を乗り越え、直接、拝みまいらせる遥拝勤行こそ、大聖人様の御心に叶う唯一の信行なのです。

 ゆえにこの遥拝勤行で一生成仏させて頂ける。そして広宣流布の大願も叶うのであります。

 いま、千日尼に下された御文を、広布前夜に如実に拝させて頂けること、何とも有難い思いであります」と。

日妙殿の佐渡参詣

 次いで浅井先生は、鎌倉から千里離れた佐渡へ命かけての参詣をされた日妙殿の信心について指導下さいました。

 日妙殿は、大聖人を怨嫉する世間の者たちが「佐渡に流されて生きて帰った者はない。必ず日蓮房も彼の地で殺されるに違いない」とうわさするのを見て、「そんなことのあるべきはずがない」と命かけての参詣を決意し、「もし・・・大聖人様の無事の御姿を拝見できれば、たとえ帰りには・・・命を失っても悔いはない」との思いで、幼子の手を引いて佐渡まで渡られたのです。なんと透徹した信心でしょうか。まさに「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」との信心に住しておられたのです。

 大聖人は、この日妙殿の不惜身命の参詣をご覧になって、「日本第一の法華経の行者の女人なり」と賞嘆され、「日妙聖人」との名を授けておられますが、このことを拝するとき、大聖人の御心に叶うのは、裏も表もない不惜身命、恋慕渇仰の「信心」なのだと強く命に響きました。

「暗きにともしび」

 この日妙殿に対し、大聖人は次のような御指南を下されました。

 「法華経は、女人の御ためには、暗きにともしび、海に船、恐ろしき所には守りとなる」(乙御前御消息)と。

 浅井先生は、「みんなよく知っている御文でしょう。先ほどの千日尼に下された御書といい、この日妙殿に下された御書といい、まことに有難い。この大事な御書を、私たちはいま広布の前夜、如実に拝することができるのです」、「いかなる逆境に立つとも、御本尊様を命かけて信じ奉る者には行き詰まりはない。必ず道が開けるということです。だから私はこの御文を拝して『何があっても大丈夫』と、言っているのです」と。なんと有難いことでしょうか。

 さらに大聖人はこう仰せになっておられます。

 「人の心かたければ、神の守り必ずつよしとこそ候へ。乃至、例(ためし)には他を引くべからず。日蓮をば、日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は、一人なれども心のつよき故なるべしとおぼすべし」と。

 「人の心が堅ければ、諸天善神の守護も必ず強いのである。その実例をよそに求めてはいけない」―大聖人御自ら「予(よ)の実証を見よ」と仰せ下されているのです。大聖人の厳然たる御姿を拝見するとき、私たち凡夫も命の底から確信と勇気がわいてきますね。

絶対信に立て

 浅井先生は、次のように指導下さいました。

 「いいですか。あるときは信じ、あるときは疑う。このような薄っぺらな信心、ずるい信心、弱々しい信心では成仏は叶わない。いかなる難に遭おうとも、あるいは地球が壊れるようなことがあろうとも、あるいは我が心中に不信の心が出てこようとも、その魔心・愚心に引きずられてはいけない。『我が心なりとも、不信の心出来せば、忽ちに信心に住すべし』(御講聞書)との仰せはこのことです。

 命ある限り、日蓮大聖人・戒壇の大御本尊を信じ切り、南無妙法蓮華経と唱え奉る。これが絶対信である。この絶対信に立つとき、始めて一生成仏が叶うのであります」と。なんと有難いご指導でしょうか。

 政治のために仏法を曲げ、御遺命に背き奉った学会や、この学会にへつらって全面協力し、未だに改悔なき宗門の無道心の姿をみるとき、彼らには大聖人に対し奉る信心など微塵もないことがよくわかります。だから今生には罰を受け、みな入阿鼻獄となるのです。

 私たちは、ただ一人、御遺命を命かけて守護し奉られた浅井先生の弟子となり得ればこそ、一分なりとも御在世のごとき恋慕渇仰・不惜身命の信心に立たせて頂き、一生成仏を遂げさせて頂けるのです。これほどの大果報はありません。

くまらえん三蔵の故事

 さらに先生は、くまらえん三蔵の故事を引いて、次のように指導下さいました。

 「いま末法においては、日蓮大聖人を命かけて信じ奉る者は、かえって大聖人様が御守護下さる、ということであります。千里離れた嶮難の道を、幼子を連れて一歩・一歩踏みしめ渡った日妙殿は、この御守護を深く実感されたに違いない。

 いま、顕正会の御遺命守護の戦いにおいても、数々の不思議がありましたが、ただ大聖人様の御守護、それ以外には絶対ない。大聖人様に一筋の忠誠を貫くならば、かえって大聖人様が御守護下さるのであります」と。

 学会・宗門挙げての卑劣な謀略、弾圧に潰れもせず、わずか1万2000で解散処分を受けた顕正会が、衰亡の一途をたどる学会・宗門を眼下に、いま広宣流布・国立戒壇建立を見つめて戦う唯一の仏弟子の大集団となって日本国を独走している姿こそ、浅井先生の一筋の忠誠を嘉せられた大聖人の御守護・御意志なのだと伏して拝しては、顕正会員となり得た宿縁の有難さを噛みしめずにはいられません。

8月15日 日本国敗戦の意義

 最後に先生は、御入仏式が行われた8月15日にちなみ、先の大戦で日本が敗戦した仏法上の意義について重大指導を下さいました。

 なぜこのような敗戦に陥ったのか、その根本原因は、「大聖人御入滅後、この国に三大秘法ましますと雖も、時の国主も、民衆も、ことごとく日蓮大聖人を無視し背き続けたから」であること。

 しかし、この敗戦こそ、いよいよ「順縁広布の時代に突入する入り口」であり、その理由は、1つに、この敗戦によって広宣流布を妨害する国家権力が消滅したこと、2つに、マッカーサーが占領政策の一環として押しつけた日本国憲法の中に亡国の「時限爆弾」があること、と指導下さいましたが、すべては大聖人があそばす広宣流布の御化導であれば、いよいよ時の到来を感じずにはいられません。

 そこに「この重大御化導をお手伝い申し上げるのは、御遺命のゆえに解散処分を受けるとも一筋の忠誠を貫き、いま三百万の仏弟子の大集団に成らんとしている顕正会以外には、あるべくもない」との浅井先生の仰せがなんとも有難く、広宣流布・国立戒壇建立への燃える思いが命の底から湧いてきます。

 私も阿仏房夫妻・日妙殿の信心を鑑として、広告文と特集号を片手に、いよいよ広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!