「国家と宗教」特集号が出来しました
冨士大石寺顕正会の令和4年10月度総幹部会を特集した顕正新聞11月5日号が、特集号として出来しました。その名も「国家と宗教」特集号!
ご講演において浅井先生は、いま自民党と邪教・統一教会のズブズブの関係が広く報じられることで俄かにクローズアップされてきた「国家と宗教」の関係、そのあるべき姿について、きわめて重要な指導を下さいました。
ことに「国家と宗教」の関係を論ずる前提として、明確にしなければならない「宗教の正邪」という根本問題について、御本仏日蓮大聖人がお示し下さる「三証」と「五綱判」という大事の御法門をもって明快に指導くださった段は圧巻で、ただただ大感動でした。
今回のご指導はほんとうに重大で、全日本人に知ってほしい内容なので、ぜひ顕正会公式サイトで全文を拝読して頂ければと思います。
このブログでは、ご講演の一部を紹介しながら2回にわけて書いていきたいと思います。
宗教の正邪は国家興亡の根底
みなさんは「国家と宗教」の関係と聞くと、どのようなことを考えるでしょうか。
「そんなの知らないよ。今日・明日の生活で頭がいっぱいさ・・・」とうなだれる人、「自民党と統一教会みたいに癒着したら困るから、キッチリ分けるべきじゃないか」と考える人、「フフフフ、吾が日本國は古来より『神の国』也。故に国家神道を復活させるべきなのぢゃ」と目論む人など、様々だと思います。
でも、その本質を明確に論じることができる識者は絶えていません。なぜでしょか。それは仏法を知らないからです。
浅井先生は、次のように指導下されています。
このところ、自民党と邪教・統一教会のズブズブの関係が広く知れわたり、俄に「政治と宗教」という問題がクローズアップされて来ましたね。
しかし政治家も一般国民も、宗教に「正邪」があることを知らない。また「国家と宗教の関係」はいかにあるべきかを全く知らない。
統一教会などは、その荒唐無稽な教義と阿漕な霊感商法などで一見して邪教とわかる。だが既成宗教の念仏・真言・禅・律等が邪教であることは、人々は全く知らない。
宗教の正邪こそ、国家の興亡盛衰に関わる根本であるから、よくよくこれを弁えなければいけない。
「国家と宗教」特集号より
いかがでしょうか。実に「宗教の正邪」こそ「国家の興亡盛衰に関わる根本」なのです。
つまり、正しい仏法を立てれば国は栄え安泰になり、間違った宗教を用いたり正しい仏法に背けば国は衰え亡ぶ、ということです。これが「国家と宗教」の関係です。
ここに、宗教の正邪を弁え、人と国を根底からお救い下さる「正しい仏法」を立てなければならない所以があるのです。
道理と文証と現証
こう書くと、「ふん、どうせ宗教なんて全部インチキだ!『正しい仏法』なんて無いんだよ!」という声、あるいは「そんなのエゴよ!宗教は、それを信じている人にとってはどれも正しい。それでいいじゃない!」という声が聞こえてきそうです。
でも、これはただの無智や感情論にすぎません。宗教には厳然と正邪があり、また、その判定基準があるのです。
浅井先生の御指導を拝してみましょう。
大聖人様は宗教の正邪を判定する基本的観点として、まず道理と文証と現証の三つをお示し下された。
三三蔵祈雨事には「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理・証文よりも現証にはすぎず」と。
「国家と宗教」特集号
以下、道理・文証・現証の「三証」について簡単に説明します。
まず「道理」とは、正しい論理・筋道のことです。
日蓮大聖人の仏法は、透徹した正しい道理によって成り立っている唯一の正法です。ゆえにいかなる権力を以て圧伏せんとしても、この道理を覆すことはできません。
ちなみに仏法の透徹した道理を知りたい方は、ぜひ「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」をご一読ください。
次に「文証」とは、文献上の証拠です。
もし仏教内の諸宗なら、釈迦仏の経文が正邪判定の基準となります。また、日蓮大聖人の門流ならば、御書こそが正邪を判ずる文証となります。
次に「現証」とは、生活上に現われた証拠です。その中でも臨終の現証は、最も重要な現証です。
たとえば、中国念仏宗の指導者・善導は、晩年に自殺願望を懐き、柳の木の枝に縄をかけて首つり自殺を試みるも失敗し、堅い大地に叩きつけられ、14日間も転げまわった挙句に狂死しました。この悪臨終をみれば、念仏宗のいう「西方極楽浄土」など嘘八百であることがわかります。
以上のように、大聖人様は道理・文証・現証の3つを以て、宗教の正邪判定の基本的証拠としておられるのです。
「五綱判」―教・機・時・国・教法流布の前後
さらに大聖人様は、あらゆる宗教の中で、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法だけが末法の一切衆生の成仏の大法であることを明示されるために、「教・機・時・国・教法流布の前後」という5つの義を示されました。
これを「五綱判」あるいは「宗教の五箇」といい、所詮の三大秘法を「宗旨の三秘」といいます。
日蓮大聖人の仏法は、この五綱と三秘に尽きます。すなわち、この五綱判によって、文底深秘の三大秘法だけが成仏の叶う大法であることが確立されるのです。
以下、浅井先生のご指導に基づいて、五綱判の要点を見ていきましょう。
第一に「教を知る」とは、釈尊一代五十年に説かれた経々の勝劣・浅深を知ることです。
これを知るには「五重相対」というものさしがあります。
「五重相対」には2通りの開き方がありますが、今回、浅井先生は、開目抄に示された五重相対(内外・権実・権迹・本迹・種脱)を教えて下さいました。
一つずつ見ていきましょう。
まず「内外相対」とは、「内」とは「内道」の仏教を指し、「外」とは「外道」で仏教以外の宗教(キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、さらには天理教・PL教等の新興宗教など)を指します。
この勝劣を判ずるに、外道はすべて因果を無視した架空の説を本としているから邪、仏法は透徹した因果の道理を立てるから正、まさに天地の如き勝劣です。
たとえば、キリスト教でいう「天国」も「神」も凡夫の想像上の産物で、実在ではありません。このような虚妄を信じて幸福になれる道理はありません。
一方、仏様は実在です。「成仏」も空理空論ではありません。仏様の実修・実証であり、私たち凡夫も仏様の教えを実践すれば必ず成仏の果を得ることができ、その証拠が「臨終の相」に厳然と現われるのです。
次に「権実相対」とは、釈尊一代五十年の説法のうち、前四十二年に説かれた経々と、後八年に説かれた法華経との勝劣を判ずるものです。
前四十二年の経々は「権教」といって、権(かり)の教え、方便です。ゆえに法華経の開経として説かれた無量義経には「四十余年未顕真実」(四十余年には未だ真実を顕わさず)とあります。
一方、後八年に説かれた法華経は真実の経です。ゆえに法華経方便品には「世尊は法久しうして後、要(かなら)ず当に真実を説きたもうべし」また「正直に方便を捨てよ」と説かれています。
よって権教は劣り、実教たる法華経が勝れているのです。
次に「権迹相対」とは、権教(法華経以前に説かれた経々)と、法華経二十八品中の前十四品である「迹門」との勝劣です。
迹門には、権教には説かれていない「百界千如」「二乗作仏」が説かれています。これは仏法の極理である「一念三千」の前提となるものです。
よって権教は劣り、法華経迹門は勝れているのです。
次に「本迹相対」とは、法華経の前半十四品である「迹門」と、後半十四品である「本門」との勝劣です。
迹門は「百界千如」「二乗作仏」を説くといえども、未だ釈尊の「久遠実成」は説かれていません。一方、本門の寿量品に至って、始めて本因・本果・本国土の三妙合論の上に「一念三千」が説かれています。
つまり、迹門は「諸法実相に約して一念三千が説かれている」といわれますが、奪って論ずれば、迹門はただ「百界千如」に限り、本門において始めて「一念三千」が説かれています。よって、本門と迹門には天地の勝劣があるのです。
最後に「種脱相対」とは、日蓮大聖人の下種の大法と、釈迦仏の脱益の仏法の勝劣を判ずるものです。
釈迦仏法の最高の教法は、法華経本門寿量品です。しかし、その文上は「脱益」といって、末法の私たちに利益はありません。その文底に「下種」の法体が秘沈されており、これこそ最大深秘の大法なのです。
この文底深秘の大法について、開目抄には次のように仰せられています。
「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘して沈め給えり」と。これこそ「文底秘沈」の文証です。
ここに仰せの「一念三千」とは、迹門の諸法実相に約した理の一念三千でもなければ、本因・本果・本国土に約した文上の事の一念三千でもありません。
富士大石寺門流の意は、迹門・本門の一念三千を通じて「理の一念三千」と名づけ、ただ文底独一本門を以て「事の一念三千」と名づけるのです。これがまさしく文底下種の一念三千です。
また、観心本尊抄には次のように仰せられています。
「在世の本門と末法の初は一同に純円なり、但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但だ題目の五字なり」と。
文中の「一品二半」とは、寿量品を中心としてその前の湧出品の半分、後の分別功徳品の半分のことで、釈尊の肝心・要の教法です。大聖人様は、この「一品二半」と対比して、まさしく「文底秘沈の妙法蓮華経の五字こそ下種の法体である」と仰せられているのです。種脱の相対、太陽のごとく明らかですね。
では、この文底秘沈の大法とは、その実体は何でしょうか。単なる「真理」などという抽象的なものではありません。その実体こそ、まさしく「本門戒壇の大御本尊」であられるのです。
以上の「五重相対」を知れば、教法の勝劣は「鏡に懸けて陰り無し」ですね。ここで第一の「教を知る」が終わり、五綱判の第二「機を知る」に移ります。
第二に「機を知る」とは、化導を受ける衆生の機根を知ることです。
衆生の機根には大別して「本已有善」(本已に善有り)と「本未有善」(本未だ善有らず)の2つがあります。
いま末法には過去に下種を受けた衆生は一人もおらず、みな悉く未だ下種を受けたことのない「本未有善」の荒凡夫ばかりです。よって、末法は下種の大法・三大秘法によってのみ成仏が叶う機です。これを「機を知る」というのです。
第三に「時を知る」とは、いわゆる「三時」のうち、今がいかなる時かを知ることです。
釈尊滅後一千年を「正法一千年」といい、次の千年を「像法一千年」といい、それ以降を「末法万年尽未来際」といいます。
いま末法は、釈迦仏の仏法は滅尽して、日蓮大聖人の三大秘法のみが広宣流布する時です。このように知るのを「時を知る」というのです。
第四に「国を知る」とは、仏法流布の国の特質を知ることです。
日寛上人は依義判文抄に、日本国の特質について次のように仰せられています。
「日本国は本因妙の教主・日蓮大聖人の本国にして、本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」と。
すなわち、日蓮大聖人の本国であり、文底独一本門たる三大秘法が流布する根本の妙国なるがゆえに「日本」というのだと。なんと凄いことでしょうか。
ちなみに、なぜ日蓮大聖人が御出現になる以前から「日本」という名がつけられていたのかについて、日寛上人は「これ霊瑞感通し嘉名早立する故なり」(依義判文抄)、すなわち久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人が御出現になられる不思議の瑞相に感応して、この嘉き名が自然と前もって立てられたのだ――とご指南下されています。
第五に「教法流布の前後を知る」とは、教法流布の次第を知ることです。
釈迦仏滅後の教法の流布を見ると、正法一千年には迦葉・阿難、文殊・弥勒等が「小乗経・権大乗経」を弘め、像法一千年には南岳・天台が「法華経」の迹門を以て面とし、本門を以て裏となし、百界千如・一念三千その義を尽くして説いています。
では、次の末法にはいかなる教法が弘められるのかといえば、まさしく下種の御本仏・日蓮大聖人が、寿量品の文底に秘沈された三大秘法を以て全人類をお救い下さるのです。
まして像法時代には、伝教大師が「迹門の戒壇」を京都の比叡山に建立しています。いま末法には、いよいよ「本門の戒壇」が建立されるのです。
かくのごとく知るを「教法流布の前後を知る」というのです。
日蓮大聖人の三大秘法こそ唯一の正法
浅井先生は、次のように仰せられました。
以上の五綱判を知れば、いま日本には18万の宗教法人があるが、これらの正邪は明々白々となる。すなわち富士大石寺に伝わる日蓮大聖人の三大秘法だけが、国家安泰・衆生成仏の正法であり、他の一切の諸宗はことごとく邪法なのであります。
「国家と宗教」特集号
いかがでしょうか。「三証」と「五綱判」を通して宗教の正邪をつぶさに教えて頂くほどに、富士大石寺に伝わる日蓮大聖人の三大秘法だけが国家安泰・衆生成仏の唯一の正法であることが胸に収まり、大感動が込み上げます。
そして、この日蓮大聖人の仏法を、大聖人の仰せのままに正しく信行している団体は、浅井先生率いる顕正会以外にはありません。私たち顕正会員の立場は、何と有難いことでしょうか。
広宣流布の最終段階を迎えた今、このたびの浅井先生の重大指導を繰り返し拝して心肝に染め、いよいよ全日本人に日蓮大聖人の仏法こそ国家安泰・衆生成仏の唯一の正法であることを力強く教えていきたいと思います!(続く)