広宣流布前夜の大魔障

 「顕正新聞」令和3年5月5日号が出来しました。その名も「広宣流布前夜の大魔障」特集号

 学会・宗門による御遺命破壊の本質が、広宣流布前夜の大魔障であったことを教えて下さる特集号です。拝読するほどに、浅井先生の大聖人に対し奉る大忠誠と必死護法のご決意に胸が熱くなります。

 それではさっそく内容を見ていきましょう!

正系門家の歴史と御遺命破壊

 浅井先生は、大聖人御在世から現在に至るまでの正系門家の歴史を大観して、今が仏法上いかなる「時」であるかを教えて下さいました。

 大聖人御入滅以後の宗門の歴史は、弾圧の歴史、法難の歴史でした。それは念仏・真言・禅・律等の邪法あるいは国家神道が、時の政治権力と結託して三大秘法の弘通を妨げたからです。このような時代には、宿縁深き人々が少数、堅く信心を持つことはできても、大規模な弘通は到底なし得ませんでした。

 しかし、昭和20年の敗戦によって、占領軍総司令官のマッカーサーが「信教の自由」を保障する日本国憲法を日本にもたらしました。その結果、国家権力による弾圧・迫害は消滅して、自由に大法弘通ができるという順縁広布の時代が到来したのです。浅井先生は、「これ、大聖人様の申し付けによる諸天の働きなのである」と仰せられましたが、諸天に申し付けて順縁広布の時代をつくらしめる大聖人の御力とは何と凄いのかと大感激が込み上げました。

 この「時」を感じて、戦後、折伏弘通の第一陣を承ったのが創価学会で、二代会長・戸田城聖氏統率のもと、75万までの弘通を成し遂げました。ところが、三代会長に就任した池田大作は、学会の勢力が増すにつれ、その強大な組織と財力を背景にして宗門を圧伏、いつの間にか正系門家最大の権力者となりました。ここに第六天の魔王が、広宣流布を妨害すべく、池田大作の身に入ったのです。

 第六天の魔王が入った池田大作は、忽ちに国立戒壇を否定し、にわかに建てた偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽りました。また、細井日達・阿部日顕という二代にわたる貫首も、池田にへつらって正本堂を「御遺命の戒壇」と承認しました。そこに、宗門全僧侶がこれを讃え、800万信徒もこれになびきました。こうして正系門家から「国立戒壇建立」の御遺命は完全に消滅してしまったのです。

 こうして見ると、第六天の魔王による広布前夜の大魔障がいかに凄まじかったかがよくわかります。なんと、大聖人唯一の御遺命を正系門家から消滅させてしまったのですから。

 しかし、大聖人は広布前夜の御遺命違背を断じて許し給わず、顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門に自界叛逆を起こさしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのです。

 この顛末につき、浅井先生は次のように指導下されています。

 「正本堂は、第六天の魔王が池田大作の身に入ってなさしめた、国立戒壇否定のための偽戒壇であれば、この正本堂崩壊こそ、第六天の魔王の敗退、そして池田大作・細井日達・阿部日顕らのたばかりの終焉を意味する。すべては大聖人様の御力による」

「広宣流布前夜の大魔障」特集号

 このご指導を拝するとき、今が仏法上いかに凄い「時」であるかがよくわかります。

 大聖人御入滅以後ずっと続いてきた弾圧の歴史、法難の歴史は、あの敗戦によって幕を閉じ、いよいよ自由に大法弘通ができる順縁広布の時代が到来しました。まさに歴史的な大転換ですね。

 その後、創価学会が折伏弘通の第一陣を承るも、第六天の魔王の誑かしにより、学会・宗門ともに御遺命破壊という未曽有の大悪を犯します。しかし、大聖人はこの大悪を許し給わず、浅井先生の諫暁により、ついに第六天の魔王は敗退し、学会・宗門のたばかりは終焉を迎えました。そうであれば、あとはいよいよ広宣流布・国立戒壇建立が事実となるだけです。

 「大事には小瑞なし。大悪起これば大善きたる」(大悪大善御書)と。浅井先生は立宗御報恩勤行会において、「この大悪が起きた以上、広宣流布・国立戒壇建立の大善は遠からず、と私は確信している」と仰せられましたが、まさしく大聖人御入滅後七百年の今こそ、いよいよ順縁広布が事実となるその前夜なのだと、大感動が込み上げました。

浅井先生の大忠誠の激闘

 この大事な時に、浅井先生のもとで大聖人の御心のままの信行をさせて頂けるとは、何と有難いことでしょうか。

 今回、御遺命守護の戦いの顛末を指導頂きましたが、改めて、浅井先生の大聖人に対し奉る大忠誠に胸が熱くなりました。

 学会・宗門が偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と大合唱する中、浅井先生はただ御一人、「もし『法主』の権威を憚り、学会の強大を恐れてこの大悪を黙過したら、これこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる」との一念で御遺命守護の戦いに立たれました。

 細井管長が先生に本心を吐露した後、池田に巻き返されて「国立戒壇永久放棄宣言」をしたときには、「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい。さもなければ国が保たない」と決意を述べられました。

 正本堂落成直前の学会代表との法論では、「もう私にはどうにもならない」「どうか、あなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」と、時の貫首としての責務を放棄した細井日達に代わり、「全権を託された」御立場で学会側を屈服せしめ、「法論をして屈服しながら、なおも(訂正を)公開しないというのなら、戒壇の大御本尊の御遷座は許さない」と言い切り、ついに聖教新聞紙上に誑惑訂正を為さしめました。

 その後、池田の巻き返しにより、宗務院から「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない」と通告されたときには、講の安穏よりも大聖人への忠誠を選ばれ、「御遺命守護の御奉公未だ終わらず、徹底してその悪を断ち、法のため、国のため、国立戒壇を宗門の公論とせねばならぬ」と決意され、一段と強烈に諫暁されました。

 そして、昭和49年8月12日、覚悟のごとく解散処分が下され、その宣告書を手にしたときには、「大事の御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」との思いを胸に懐かれたのでした。

 このように、浅井先生の御遺命守護の戦いは、いついかなる時も、「もし大聖人ここにましませば何を命じ給うか」と、大聖人に対し奉る大忠誠のみで貫かれたことを拝するとき、弟子として涙が込み上げます。この先生の大忠誠の激闘あればこそ、大聖人の御裁断により偽戒壇・正本堂は崩壊し、極限の師敵対・大謗法を犯した学会・宗門が衰亡の一途を辿るのを横目に、顕正会は国立戒壇の御遺命を奉ずる唯一の仏弟子の大集団として日本国を独走しているのであり、「これすべて大聖人様の御守護による」と先生より伺えば、なんと偉大な師匠に師事し得たのか、なんと有難い立場とならせて頂けたのかと、その感激は到底言葉に尽くせません。

憂えるは日本の亡国

 そこに浅井先生が、「憂えるのは日本の亡国である」として、正系門家が昭和40年以降、大聖人の御遺命に背き続けてきたゆえに起こる亡国の大難、すなわち米中対決に端を発する「前代未聞の大闘諍」「他国侵逼」を凝視され、「お救い下さるは日蓮大聖人唯御一人」との重大事を全日本人に告げ知らしめる第3回目の一国諫暁をご決意されているのであれば、非力な私も精いっぱいお手伝いさせて頂きたい!とのやみ難い思いが胸の奥からこみ上げます。

 「大聖人様は昿大な慈悲を以て、他国侵逼に怯え戦く全日本人を一時に信ぜしめ、広宣流布をあそばす」、「この重大御化導をお手伝い申し上げるのは、大聖人様を一念も忘れ奉らず、一筋の忠誠を貫き通した三百万の仏弟子の大集団・顕正会以外には、あるべくもない」との浅井先生の仰せを胸に、私も広告文と特集号で広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!