日蓮大聖人の一代御化導の肝要

聞いたことはあるけれど・・・

 みなさんは、日蓮大聖人とはいかなる御方かをご存知でしょうか。

 きっと誰でも一度は御名を聞いたことがあると思います。

 でも、日蓮大聖人の御生涯、一代三十年の御化導をきちんと学んだことがある人は、ほんのわずかではないでしょうか。

 まして、大聖人一代三十年の御化導の中で、何が「肝要」なのかをきちんと弁えている人は皆無です。これを深く知り奉り、いま正しく教えて下さるのは、冨士大石寺顕正会の浅井先生以外にはおられません。

 では、大聖人一代御化導の肝要とは、いったい何でしょうか。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

日蓮大聖人の一代御化導の「肝要」とは

 日蓮大聖人は末法に入って一七一年目に、安房国・東条の郷にご誕生あそばされた。

 十二歳にして仏法を学ぶ志を立てられ、三十二歳までの血の滲むようなご研鑽、実に二十年。ついに末法の一切衆生の成仏の大法を、深く深く知り給うた。この成仏の大法こそ、本門寿量品の文底に秘沈された久遠元初の名字の妙法、すなわち「人法体一・事の一念三千の南無妙法蓮華経」である。このことについて日寛上人は開目抄文段に

 「明星直見の口伝に云く『即ち明星ヶ池を望みたまえば、日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり』」と仰せられている。

 かくて御年三十二歳の建長五年四月二十八日、大聖人は清澄山の頂に立たれ、始めて本門の題目を唱え出された。これが立宗である。

 このときの御決意がいかに堅固であられたか。開目抄には

 「いわずば慈悲なきににたり。乃至、今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」と仰せられている。

 その後、御覚悟のごとく、松葉ヶ谷の草庵襲撃、伊豆流罪、小松原の剣難、竜の口の頸の座、引き続いての佐渡流罪と、大法難が波のごとく大聖人の御身に押し寄せた。

 就中、文永八年九月十二日の竜の口の大法難は、国家権力による絶体絶命の死罪であった。だが、突如出現した「月のごとく光りたる物」によって、太刀取りは眼くらんでその場に倒れ伏し、兵士たちもことごとく逃げ出してしまった。まさに御頸は刎ねて刎ねられず、大聖人の御威徳は金剛不壊であられた。

 この大現証こそ、日蓮大聖人が立宗以来の身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、ついに宇宙法界を我が身と開く久遠元初の自受用身と顕われ給うた、その御尊容であられる。

 そして大聖人様は大慈悲を起こされ、全人類の成仏のために、竜の口で証得された御覚りの全体を大御本尊に御図顕され、一切衆生に授与して下さった。

 この大御本尊こそ、弘安二年十月十二日の「本門戒壇の大御本尊」であられる。

 ここに大聖人の一代御化導の肝要を拝し奉れば、大聖人様は、立宗のとき我が身即久遠元初の自受用身と知り給い、竜の口のとき我が身即久遠元初の自受用身と顕われ給い、そしてその御覚りの全体を「本門戒壇の大御本尊」に図顕あそばし全人類に授与して下さった

 この三つの大事こそ、大聖人一代御化導の肝要・骨目である

令和3年度・4級試験

 いかがでしょうか。大聖人一代三十年の御化導の「肝要」、まさに分明に拝する思いです。なんと有難いことでしょうか。

大聖人一期の御遺命とは国立戒壇建立

 そして、大聖人一期の御遺命は、御入滅直前の弘安5年9月の「一期弘法付嘱書」に次のようにお示し下されています。

 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

 弘安五年壬午九月 日

 日蓮 在御判

 血脈の次第 日蓮 日興

 国主が大聖人の仏法を立てる広宣流布の暁に、富士山に本門寺の戒壇を建立せよと御遺命下されているのです。「就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。この重大の御遺命に背く者は、まさに師敵対の逆徒、魔の眷属です。

 さらに大聖人は、御遺命の本門戒壇が建立されるべき時・手続・場所について、「三大秘法抄」に具体的に次のごとく御教示下されています。

 戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり。

 いかがでしょうか。一期弘法付嘱書では「国主此の法を立てらるれば」と要言し給う戒壇建立の「時」と「手続」が、はっきりと示されています。

 「時」は「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」、「手続」は「勅宣並びに御教書を申し下して」です。

 このように、御遺命の本門戒壇とは、王仏冥合して王臣一同が三大秘法を護持し奉る広宣流布の暁に、仏法守護の国家意志の表明を手続として建立される国立戒壇です。

 ゆえに第56世・日応上人は、「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって」(御宝蔵説法本)と仰せられ、第65世・日淳上人は、「大聖人は広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられる。その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)、「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(日淳上人全集)と仰せられ、さらには後に御遺命に背き奉った第66世・細井日達も、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華昭和35年1月号)、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮昭和36年5月号)と述べていたのです。

 この国立戒壇の御遺命がわからなければ、なぜ大聖人が御一代を貫き身命を賭して国主への諫暁をあそばされたのか、なぜ御入滅の直前に参集した弟子一同に対し、最後の御説法として「立正安国論」を講じ給うたのか等、御聖意を正しく拝することは到底できません。

 そこに、いま学会・宗門が偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇とする大誑惑をなし、正本堂崩壊後も未だに国立戒壇の御遺命に背き続ける師敵対の中、ただ御一人、御遺命の正義を守り奉られた浅井先生から、大聖人の一代御化導の肝要、そして御遺命の正義を正しく教えて頂ける私たち顕正会員は、何と有難いことでしょうか。

 だから顕正会には功徳の歓喜が満ち、素晴らしい成仏の相が絶えず、広宣流布の情熱が滾り、折伏がしんしんと進んでいるのです。