「冨士大石寺正信会」の公式サイトができたようです!

「冨士大石寺正信会」の公式サイトを見つけました

 今日、何気なく冨士大石寺正信会の足立淳正住職のことを調べていたら、すごいものを見つけてしまいました・・・。

 なんと、あの足立住職が立ち上げた「冨士大石寺正信会」の公式サイトができているではないですか!!

 https://fujitaisekiji-shoshinkai.jp/index.html

 さっそく見てみると、まず厳かな富士山の写真に目を奪われます。次いで足立住職が認めた「声明文」や「書簡」が続きます。私も読んでみましたが、足立住職のまっすぐな人柄と一途な信心が伝わり、大感激でした。

 足立住職は次のように宣言しています。

 冨士大石寺正信会は、信仰と志を同じくする冨士大石寺顕正会とともに、師敵対に陥った現在の宗門(日蓮正宗)ならびに正信会を糺すとともに、御本仏の御遺命たる国立戒壇建立に向けて共闘して参る所存であります。

 冨士大石寺正信会 足立淳正

https://fujitaisekiji-shoshinkai.jp/about.html

 いやはや、素晴らしいですね!

正信会ってどんな団体?

 正信会は、もともと第66世・細井日達管長を旗頭にして、創価学会の教義逸脱を責めていた活動家僧侶が作った団体です。しかし、彼らは、次に登座した詐称法主・阿部日顕によって、宗門から追放されてしまいます。それは阿部日顕が創価学会に擁立された、学会ベッタリの人物だったからです。まさに「学会の、学会による、学会のための管長」という感じですね(笑)

 その後も正信会は「正信覚醒運動」と称し、学会と宗門の誤りを指摘し続けてきました。しかし、そこには、ある重大な「限界」があったのです。

 それは、正信会が指摘する学会の教義逸脱よりもずっと以前の昭和40年代から、じつは何より重大な教義逸脱である「御遺命違背」を学会・宗門が一体になって行っていたにもかかわらず、細井日達を旗頭とする正信会にはそれを諫めることができなかった、ということです。

 細井日達の御遺命違背を容認し続ける限り、正信会もまた御遺命違背の大罪を免れません。

 そこに、足立淳正住職は、「国立戒壇建立こそ日蓮大聖人の御遺命」と確信し、令和2年(2020年)、「冨士大石寺正信会」を立ち上げ、広宣流布・国立戒壇建立を目指して顕正会と共闘することを宣言したのです。

これからも「有羞の僧」が続々と

 浅井先生は、昨年の総幹部会において、足立住職の書状に寄せて次のように仰せられました。

 私はこの文書を読んだとき、感動した。足立淳正住職には欲も名利も保身もない。ゆえに「国立戒壇こそが日蓮大聖人の御遺命である」と強く言い切ったのです。

 このように正義を述べれば、どのような仕打ちをされるかわからない。しかし足立住職は大聖人様への忠誠心から、捨身でこの決意を表明した。

 私はその信心が嬉しかった。「あゝ有羞の僧が出て来たな」という思いが沸いてまいりました。

 今後、正信会からも宗門からも、続々と「有羞の僧」が出てくること、私は確信しております。もう「時」が来ているのです。

 さもなければ、大聖人様に申しわけないのであります。

顕正新聞「御遺命守護」特集号8

 広布の決戦場たる20年代に入って、今後、足立住職のように、大聖人への忠誠心から捨て身で正義を述べる「有羞の僧」が続々と出てくることを思うと、今からワクワクしてきますね!

「沈黙は与同罪に等しい」

 最後に、足立住職の「書簡」の一節を紹介します。道念ある正信会の僧俗はぜひ至心に読み、国立戒壇の正義に立ち還ることを願ってやみません。

 日蓮大聖人様は、「涅槃経に云く『若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり』云云、此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。」(全1307 頁)と仰せになられておられます。

 昨今、私の寺院にも宗門法華講員を名乗る者から電話がかかって参ります。その者たちは、名前(本名か偽名かは分かりません)は名乗りますが、所属寺院は名乗らず、とにかく「自分は本山の信者だから正しい」「あなた方は日蓮正宗とは関係ない」「本山から離れた謗法の者」と一方的な誹謗中傷するためだけに電話をかけて来ます。

 そのような電話は、昔は創価学会員が殆どでしたが、今やそのような下品で悩乱したような誹謗は宗門の法華講がその役割を受け継いでいるようです。落ちぶれた宗門僧俗に哀れみを抱くとともに、我々は胸を張って正義を主張すれば良いと確信しています。

 日本の亡国はもうすぐ傍まで来ています。何の正義の声も上げず、後になって「自分も心の中では賛同していた」と言っても、それは謗法を黙認したのと同じです。

 大聖人様は秋元御書に「譬えば我は謀叛を発さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」と仰せ給うておられます。沈黙することは非常に楽ではありますが、非常に無責任なのです。我らは辻々に立たれた大聖人様のことを思い、御遺命の国立戒壇建立に向けて立つべきであります。

https://fujitaisekiji-shoshinkai.jp/letter/letter_03.html