法華講の登山に功徳がない本当の理由

「お金と時間がかかるだけで・・・」

 日蓮大聖人が弘安2年10月12日に御図顕あそばされた「本門戒壇の大御本尊」こそ、まさしく日蓮大聖人の御当体であり、文底秘沈の大法の実体です。この大御本尊を信じてお題目を唱えられることは、なんと有難いことでしょうか。

 ところが、いま法華講では「あり得ないこと」が起きています。それは、宗門(日蓮正宗)から「登山せよ」と言われて登山したのに、「全く功徳がない」ということです。

 「あっ、やっぱり俺だけじゃなかったんだ。そうそう、住職から『登山、登山』って言われて何度も登山するんだけど、お金と時間がかかるだけで、御利益なんて全くないんだよね。むしろ、登山するたびに、なんだか悪いことが起きてくるような気すらするんだけど・・・。なんでなんだろう?」と思われた、そこのあなた!

 実はこれには、宗門(日蓮正宗)では絶対に教えてくれない、仏法上の深い「理由」があるのです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

大聖人の御心に背く登山はお叱りを受ける

 大聖人様の御心に背いては、お題目を唱えても功徳はない。

 いま顕正会を怨嫉する法華講の者たちが、「顕正会は登山行かれなくて、かわいそうですね」などと言っているのは、御法門が全くわかっていない。

 御遺命に背いて登山しても功徳はない。いやかえって大聖人様のお叱りを受けるのです

 このことは私が勝手に言うのではない。

 内房尼御前が、氏神詣でのついでに、身延にまします大聖人の御許に参詣したとき、大聖人様はお目通りを許されず、返しておられる。この一事を拝すれば、よくわかります。

 大聖人様は後日に三沢殿への御文に託(つ)けて、その理由を次のごとく仰せ下されている。

 「内房の御事は、御年寄らせ給いて御わたりありし、いたわしく思いまいらせ候いしかども、氏神へ参りてあるついでと候いしかば、見参に入るならば定めて罪深かるべし。

 その故は、神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君への見参は世間にも恐れ候。其の上尼の御身になり給いては、まず仏を先とすべし。かたがたの御失ありしかば、見参せず候。

 此れ又、尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人々も、下部の湯のついでと申す者を、あまた追い返して候。尼ごぜんは親のごとくの御としなり。御なげき痛わしく候いしかども、此の義を知らせまいらせんためなり」と。

 この御意は、「神は所従、法華経は主君」と仰せのごとく、内房の尼御前が、自身の氏神参詣を先として、そのついでに大聖人の御許に参詣した、仏法上の失をお誡め下されたものです。「見参に入るならば定めて罪深かるべし」と。もし対面するならかえって罪を作るとまで、仰せ下されている

 これを以て知るべきです。

 大聖人様の唯一の御遺命に背いて登山しても、全く功徳にならないどころか、かえってお叱りを受けるのであります

顕正新聞令和2年10月25日号

 いかがでしょうか。雲晴れる思いですね!

 宗門(日蓮正宗)はひた隠しにしていますが、彼らはかつて創価学会の池田大作にへつらい、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇(となる建物)」と偽り、大聖人一期の御遺命である国立戒壇(広宣流布の暁に国家意志の表明を以て建立される本門戒壇)を否定しました。そして、その改悔もなく、未だに国立戒壇を否定し続けているのです。大聖人の御心に背くこと、これより甚だしきはありません(詳しくはこちらの記事をご覧ください)。

 だから、かつての清浄な御開扉とは異なり、いまの宗門(日蓮正宗)の登山には全く功徳がないのです。「付け願い」をはじめ、ただ坊主たちの収入源になっているだけです。

遥拝勤行こそ忠誠の証、信心に距離は関係ない

 「なるほど、そうだったのね!やっぱり、いまの宗門は変だと思ってたのよ!功徳なんて全然ないし、『付け願い』だって、どう見たってカネ集めとしか思えないもの。でも、顕正会には、どうしてそんなに功徳があるのかしら?なんだかとってもキラキラしていて羨ましいんだけど・・・」と思われた、そこのあなた!

 答えはとっても簡単です。

 それは、顕正会で唱えるお題目が大聖人の御心に適っているからなんです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 顕正会は、御遺命を守り奉ったゆえに理不尽な解散処分を受けた。しかし微動もせず、いま距離を乗り越えて、直接、戒壇の大御本尊様を拝みまいらせている

 この遥拝勤行こそ、まさに「忠誠の証」であります。よって、唱え奉るお題目は直ちに大聖人様に通じて、現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、後生も大安楽を得させて頂けるのであります

 信心に距離は全く関係ない。ゆえに佐渡に住む千日尼に対して、大聖人様は身延の地からこう仰せ下されている。

 「御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来たれり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」と。

 この仰せこそ、遥拝勤行の大精神です。そして遥拝勤行こそ、広布最終段階の信行なのであります。

 この恋慕渇仰の信心が日本国中に満ちて国立戒壇を熱願するとき、いよいよ国立戒壇が建立される。そしていよいよ「本門戒壇の大御本尊」はその国立戒壇に御出ましあそばすのであります。

顕正新聞令和2年10月25日号

 いかがでしょうか。我が家から直接、戒壇の大御本尊を拝み奉る遥拝勤行こそ、御遺命をただ一人守り奉った浅井先生率いる顕正会の「忠誠の証」であり、広宣流布の最終段階にはみなが励む信行の姿なのです。だから、大聖人の御心に適い、功徳が頂けるんですね。なんと有難いことでしょうか。

実は「遥拝勤行」を指導している宗門(笑)

 ちなみに、ある法華講員などは、顕正会を怨嫉して、「遥拝勤行というのは、大石寺仏法にはありません」、「大石寺の方角に遥拝として、その途上のあらゆる謗法に感応したら、どうするのですか?大石寺の方角にはたくさんの、邪宗がありますよ。遥拝だとそれら全てに同時に感応してしまいますよ」などと難癖をつけているそうです。

 では反詰します。入信したばかりで未だに御本尊を頂いていない方は、どうやって日々の勤行を申し上げるのでしょうか。この理屈だと、御本尊を頂くまで、自宅で勤行できないことになってしまいます。拝む先にある謗法の「全てに同時に感応」してしまうそうですから(笑)。

 たぶんこの方は知らないのでしょうが、宗門(日蓮正宗)でも、未だ御本尊を頂いていない信徒に対しては、自宅から富士大石寺にまします「戒壇の大御本尊」を遥拝して勤行するように指導しています。実際、私が折伏して顕正会に入会した法華講員も、そのように指導されたと話していました。

 また、先輩から教えてもらったのですが、宗門が平成30年に発行した「勤行―その仕方と観念文の意義」という本には、「自宅に御本尊をご安置するまでの間は、本門戒壇の大御本尊がまします総本山大石寺(静岡県富士宮市)の方角に向かって勤行・唱題をするようにしましょう」と書いてあるというからオドロキです。

 ところが、先ほどの法華講員は、「遥拝勤行というのは、大石寺仏法にはありません」、「大石寺の方角に遥拝として、その途上のあらゆる謗法に感応したら、どうするのですか?大石寺の方角にはたくさんの、邪宗がありますよ。遥拝だとそれら全てに同時に感応してしまいますよ」などと、何も知らずに言っているわけです。「無智」というのは恐ろしいですね

 ちなみに、たとえ法華講員が遥拝勤行をしたとしても、御遺命に背く宗門に身を置く以上、大聖人の御心に背き功徳がないことに変わりはありません。

 そこに、いま浅井先生のもと、大聖人の御心に適う遥拝勤行を実践し、大聖人仰せのままの功徳を頂ける顕正会員の立場は、何と有難いことでしょうか。

 いよいよ恋慕渇仰の遥拝勤行に励んで、広宣流布・国立戒壇建立のお手伝いに邁進していきたいと思います!