もし細井日達が浅井先生の「基礎教学書」を読んで信心を取り戻していたら(1)

もし細井日達が「基礎教学書」を読んでいたら・・・?

 みなさんは、細井日達という人物をご存知でしょうか?かつて日蓮正宗の第66世の管長(トップ)だった人です。

 管長に就任した直後には、日蓮大聖人の御遺命のままに、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(「大白蓮華」昭和35年1月号)、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の暁の国立の戒壇であります」(「大日蓮」昭和36年5月号)と正義を述べていたにもかかわらず、池田大作の権力と金力にへつらった後には、「国立というのは本宗の教義ではない」(「大日蓮」昭和50年9月号)などと「手のひらクルー」で教義を改変した恥知らずさんです。

 ここに、御本仏に敵対する「御遺命の敵」であることが決定した細井日達は、それから4年後の昭和54年7月22日、激甚の心臓発作に襲われて突然死し、真っ黒な堕獄の悪相を現じました(詳しくはこちらの記事をご覧ください)。

 とはいえ、細井日達も、最初から全く信心がなかったわけではありません。はじめは御遺命に背く恐ろしさを感じていたものの、池田大作の権力と金力にへつらうあまり、徐々に信心が逸脱し、御遺命破壊に加担してしまったのです。

 でも、そこに至るまでの間に、もし細井日達にもう少し信心があり、御遺命の重大さを理解していたら、実は立ち直れたかもしれないターニングポイントがいくつかあったのです。

 ある日、基礎教学書の第10章「御遺命守護の戦い」を拝読しながら、ふと思いました。

もし、細井日達にもう少し信心があって、浅井先生が著された『基礎教学書』を読んで心肝に染めていたら、御遺命破壊の大悪に加担することもなかったかもしれない・・・」と。

 そこで、今回の記事では、もし細井日達が浅井先生の「基礎教学書」を読み、信心を取り戻していたら・・・ということについて書いてみたいと思います。

ターニングポイント①:昭和42年の正本堂発願式

 まずは昭和42年に遡ってみましょう。

 この年の10月12日、大石寺境内で「正本堂」の発願式が行われました。このとき、池田大作は、細井日達以下の高僧たちが居並ぶ面前で、「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又(はたまた)仏教三千余年、史上空前の偉業なり」との「発誓願文」を読み上げました。

 この発言は、明らかに、正本堂を「宗門究竟の誓願」である「事の戒壇」、つまり、御遺命の戒壇と宣言するものです。

 仮に細井日達が、それまで学会の教義逸脱を知らなかったとしても(実際はよく知っていましたが)、このとき、池田は、細井日達の目の前で、この大謗法の発言を述べたのですから、もう知らなかったでは済みません。

 ここで、もし細井日達が「基礎教学書」を読んで心肝に染めていたとしたら、どのように振る舞ったでしょうか。

 きっと、発願式が終わる否や、直ちに池田大作を呼びつけ、「池田さん、さっきの発言は一体どういうことですか?『宗門究竟の誓願』たる『事の戒壇』は、御遺命の国立戒壇以外にないでしょう!あの発言は、本宗の教義に照らして明らかに誤りですから、即刻、訂正してください。訂正文は、聖教新聞に掲載して、広く周知してください!」とでも言いつけたことでしょう。

 そうすれば、正本堂はあくまで大御宝蔵、奉安殿の延長の建物となり、御遺命の教義が改変されることもありませんでした。

 ところが、池田大作にへつらう細井日達は、池田の教義逸脱・大謗法を眼前にしながら、一言も諫めず、黙認してしまったのです。

 それだけではありません。その翌年の昭和43年1月には、細井日達みずから、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(「大白蓮華」201号)と述べ、正本堂を御遺命の戒壇とする悪義を公言してしまったのです。

 このように、細井日達は、「時の貫首」として断固打ち摧くべき御遺命破壊の大悪を黙認するばかりか、かえって公言してしまいました。大聖人の御眼よりも、池田大作の目を恐れ、金力に心を蕩かされてしまったのです。

ターニングポイント②:昭和45年3月の諌暁書

 次に昭和45年について見てみましょう。

 この年の3月、浅井先生は護法の一念を込め、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」と題する一書を認め、宗務役僧と池田大作以下の学会首脳幹部らに送付しました。

 当時、学会・宗門が一体となって、偽戒壇・正本堂を指して「御遺命の戒壇」、「広宣流布は達成」と大宣伝する中、浅井先生ただ御一人が「正本堂は御遺命の戒壇にあらず」、「御遺命の戒壇は、広宣流布の暁の国立戒壇である」と諫められたのです(詳しい経緯を知りたい方は、こちらをご覧ください)。

 このとき、細井日達は、浅井先生に会えば正義を述べ、学会側に会えばまた迎合しました。風にそよぐ葦(あし)のように、フラフラしていたのです。

 さて、もしここで細井日達が「基礎教学書」を熟読し、御遺命の大事を心肝に染めていたら、どうしていたでしょうか。きっと、直ちに浅井先生をお呼びして、御遺命守護の固い決意を次のように熱く語ったことでしょう。

 「浅井さん、基礎教学書を読ませて頂きました。誰にもこうは書けないでしょう。あの本は宗開両祖の仰せのまま、歴代上人の仰せのままです。一分の誤りもありません。これまで私は、学会に対して何も言えなかった。私は自分が恥ずかしい、いや大聖人様に申し訳ない・・・。しかし、今日からは管長として肚を決め、命がけで学会の歪曲を糺していきますから、浅井さん、どうか力を貸してください」と。

 しかし、残念なことに、ここでも細井日達は立ち直れませんでした。

 彼は昭和45年4月3日、浅井先生と面談したとき、「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」、「諫めてくれたのは妙信講だけです。浅井さんの信心に、私は負けました」等と本心を吐露したものの、その後、直ちに学会に巻き返され、その年の5月3日には、学会本部総会で次のように述べて国立戒壇の御遺命を放棄してしまいました。

 「日蓮大聖人は・・・決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはあり得ないし、そういう名称は不適当だったのであります。(中略)今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」と。

 ここで細井日達は、「日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはあり得ない」と述べて、それまで宗門が叫んできた戒壇の国家的建立を否定し、その「内容」を改変するとともに、「そういう名称は不適当だった」と述べて、その「名称」をも否定したのです。

ターニングポイント③:昭和45年9月の確認書

 しかし、その後も浅井先生の諌暁は続き、学会首脳との間で激しい論判が重ねられました。その結果、ついに昭和45年9月11日、妙信講代表と学会首脳との間で、「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」、「今後異体同心にして広宣流布達成をめざして・・・」との確認書が交わされ、細井日達のもとに収められました。

 これは、それまで学会・宗門が異口同音に宣伝し続けてきた「正本堂は御遺命の戒壇」、「正本堂が完成したら広宣流布は達成」との誑惑を、浅井先生が訂正せしめられたものです。

 さて、もしここで細井日達が「基礎教学書」を熟読し、信心を取り戻していたら、どうしていたでしょうか。

 完全に曲がりかけていた宗門を、浅井先生が必死の諌暁によってここまで正してくださったのです。きっと、浅井先生に深々と感謝し、正本堂の誑惑訂正と国立戒壇放棄の撤回を約束し、それを実行したことでしょう。そうすれば、宗門は正本堂の誑惑以前の清らかな宗門に戻っていたはずです。

 ところが、実際には、細井日達はなお教義改変を改めませんでした。そして、学会に押し切られる形で、昭和47年4月28日、ついにあの御遺命違背の訓諭を出してしまったのです。

 「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。

 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。

 この訓諭の意味するところは、「正本堂は一期弘法付属書・三大秘法抄に御遺命された戒壇を、前以て建てておいたもの」ということです。

 しかし、言うまでもなく、御遺命の戒壇とは、広宣流布の暁に、「勅宣並びに御教書を申し下して」すなわち国家意志の公式表明をもって建立される戒壇なのですから、広布以前に、宗門だけで建てた「正本堂」がこれに当たらないことは明らかです。

 ここに細井日達は、「訓諭」という最高指南の形をもって、「正本堂」が広布の暁に御遺命の戒壇になる建物と宣言し、宗門が七百年来叫び続けてきた御遺命の教義を改変してしまったのです。これ許されざる御遺命違背です。

おまけ:「たるべき」でゴマかす宗門のハレンチ

 ちなみに、正本堂がなくなってしまった現在、宗門坊主にとって、この「訓諭」は邪魔で仕方ありません。なぜなら、御金言に照らせば、正本堂はおよそ御遺命の戒壇になる余地のない建物であるにもかかわらず、これを「御遺命の戒壇となる建物」と言い切ってしまっているからです。

 さりとて、この訓諭は、「時の貫首」の公式指南であり、また、これに従わないことを理由に妙信講(顕正会)を解散処分にした経緯から、宗門坊主としても、今さらこの訓諭が間違いだったとは認められないようです。

 そこで、往生際の悪い無道心の坊主たちは、訓諭の「たるべき」との文言を口実にして、このとき細井日達は、正本堂が将来御遺命の戒壇になると「断定」したわけではない、ただ「願望」を述べただけだ、などと苦しい言い訳をしています。

 これ、いかにもご都合主義で苦しいですよね?(笑)

 わざわざ「正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」とまで前置きして宣言したにもかかわらず、今になって「いや、単なる願望だったんです」などと言い逃れようとしているのですから、彼らの程度が知れるというものです。きっと世間の人たちからも笑われることでしょう。「いや、さすがにそれは無理でしょう(笑)」と。

 このように、大聖人一期の御遺命を改変する大罪を犯しながら、素直に「ごめんなさい」もできない幼稚な人たちが、今の宗門には大勢いるのです。