正しいお題目を唱えると・・・
みなさんは「南無妙法蓮華経」という言葉を耳にしたことはありませんか?
そう、日本の仏教でいちばん有名といっても過言ではない、あのお題目です。
鎌倉時代に日蓮大聖人という御方がはじめて唱え出され、大慈悲をもって全人類にお教えくだされた大功徳を頂ける法術が、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る「信心口唱」なのです。
こう書くと、「うちのお祖母ちゃんもよく仏壇に向って『南無妙法蓮華経』って唱えてたけど、そんな功徳があるようには見えなかったけど・・・」と思われる方がいるかもしれません。
実はこれ、とても大事な問題なんです。同じ「南無妙法蓮華経」でも、日蓮大聖人の御意のままに正しく唱えなければ功徳がないからです。
いま日蓮大聖人の御意のままに正しくお題目を唱えることができる団体は、冨士大石寺顕正会以外にありません。
では、正しいお題目を唱えたとき、どんな功徳が頂けるのでしょうか?
それは私たちの想像をはるかに超える、とてつもない大功徳なのです。
信心口唱の功徳を明かされた「当体義抄」
信心口唱をするとどのような功徳・利益が頂けるかを明かされたのが「当体義抄」です。大聖人様が佐渡御流罪直中の文永10年に著された、たいへん重要な御書です。
その文意は甚深・難解で、私たち凡夫には到底わかりません。
しかし有難いことに、先般の日曜勤行において浅井先生が、不世出の大学匠・日寛上人の御指南をもとに、その要点を懇切に教えてくださいました。
その大功徳を一言でいえば、「我と唱えるお題目に身も心も引かれて、御本尊・日蓮大聖人と一体になり、凡夫が仏に成らせて頂ける」ということです。なんと凄いことでしょうか!
それでは、さっそく当体義抄の御文を拝していきましょう。
本文拝読
「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ、三観・三諦即一心に顕われ、其の人の所住の処は常寂光土なり。
能居・所居、身土、色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体の蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。
是れ即ち法華の当体、自在神力の顕わす所の功能なり。敢へて之を疑うべからず、之を疑うべからず」
いかがでしょうか。あまりに甚深すぎて、思わず目を丸くした方も多いのではないでしょうか(汗)
でもご安心ください!浅井先生が一文一文、わかりやすく解説して下さっています。順番にみていきましょう。
まず、「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は」とは
一切の謗法を捨てて、ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は――ということ。これ本門の題目を唱える人、信心口唱する人のことです。
三道即三徳と転ずる
その功徳はどのようなものかというと
「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ、三観・三諦即一心に顕われ、其の人の所住の処は常寂光土なり」と。
「煩悩・業・苦の三道」とは、私たち凡夫の因果流転の姿です。
「煩悩」とは貪欲・瞋恚・愚癡、つまり、欲ばりで、怒りっぽくて、物事の道理がわからない愚か。この煩悩に引きずられて様々な悪いことをするのが「業」。その結果、受ける苦報が「苦」です。
この煩悩・業・苦は互いに因となり果となり通じ合っているので「三道」といいます。凡夫の生活の実相は、まさにこの煩悩・業・苦の三道を輪廻しているのです。
ところが、この三道輪廻の凡夫が、もし御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、最高の幸福境界を得ることができるのです。
そのことを「法身・般若・解脱の三徳と転じ」と仰せられています。
「三徳」とは三身のこと。仏様の一身には法身如来、報身如来、応身如来の三身が具わっています。
法身如来とは仏様の清らかな生命そのもの、報身如来とは智恵、応身如来とは一切衆生をお救い下さる慈悲をいいます。先ほどの「法身・般若・解脱」のうち、「法身」は法身如来、「般若」は報身如来、「解脱」は応身如来に当ります。
つまり、凡夫の「煩悩・業・苦の三道」が、そのまま仏様の清らかな生命と、智恵と、慈悲に転じていくのだと。なんと有難いことでしょうか。
ちなみに日寛上人はこの「転ずる」について、「其の体を改めず、ただ其の相を変ず」と釈されています。その人の体はそのままで、その相が変わる、働きが変わってくると。自害害他のいのちが、自利利他の働きに変わってくるのです。
当体の蓮華と顕わる
次に「三観・三諦即一心に顕われ」とは
「三観」は智、「三諦」は境です。つまり、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、本地難思の境智の妙法を、即、私たちの一心に覚り顕わし、本門寿量の当体の蓮華仏と顕われるのである――と。
何とも甚深の御指南ですね。
依正不二
次に「其の人の所住の処は常寂光土なり」とは、三道即三徳と転じた人、三観・三諦即一心に顕われた人が住む所は、仏様の住所たる常寂光土となるということ。
これは依報(国土)と正報(所住の人)の一体不二をお示し下されているのです。
文底の意に約し釈成す
次に「能居・所居、身土、色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体の蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」と。
この一節は「釈成」(しゃくじょう)といって、前の御文を文底の意に約して釈された上で、それが「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」と。つまり、日蓮大聖人の末弟こそそれに当るのだ、ということを結成された御文です。
その要点は、次のとおりです。
まず「能居・所居、身土、色心」とは、前文の「其の人の所住の処は常寂光土なり」を、無作三身の依報・正報に約して釈されたものです。無作三身の所住の処こそ寂光土だからです。
次に「倶体倶用の無作三身」とは、前文の「三道即三徳」を文底に意によって釈されたもので、日蓮大聖人の御事です。
さらに「本門寿量の当体の蓮華仏」とは、前文の「三観・三諦即一心に顕われ」を文底の意によって釈されたもので、まさしく本地難思の境智の冥合・本有無作の当体の蓮華仏、つまり「本門の本尊」の御事です。
言語を絶する有難さ
いかがでしょうか。御本仏日蓮大聖人が信心口唱の大功徳について、たいへん甚深そして重大なことを仰せられているのがわかります。でも悲しいかな、私たち智恵浅き凡夫にはあまりに深すぎて、はっきりと掴めません。
ここに浅井先生は、日寛上人の御指南をもとに、その御意を平易な言葉で次のように指導くださいました。
いいですかー。
日寛上人は「有る時、解して云く」として、この当体義抄の御文の深意を、端的に次のごとく御指南下されている。
「『三道即三徳』とは、人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり。『三観・三諦即一心に顕われ』とは、法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」と。
まことに、我ら凡夫が口に出せば、罰が当りそうな恐れ多い御指南でありますが、これが御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る功徳なのであります。
すなわち信心口唱し奉れば、我と唱えるお題目に身も心も引かれて、御本尊・日蓮大聖人と一体にならせて頂けるということです。だから凡夫が仏に成らせて頂けるのです。
その証拠が臨終に現われる。こんな不思議なことはないでしょ。すべては御本尊の仏力・法力によるのです。
ゆえに結文に「是れ即ち法華の当体、自在神力の顕わす所の功能なり。敢へて之を疑うべからず、之を疑うべからず」と仰せあそばすのであります。
日曜勤行指導⑱
いかがでしょうか。御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、そのお題目に身も心も引かれて、本門戒壇の大御本尊・日蓮大聖人と一体になり、私たち凡夫がそのまま仏に成らせて頂けるというのです。
なんと凄い大功徳でしょうか!何の智恵も行功もない私たちが、ただ信心口唱に励むだけで、仏様と同じ最高の幸福境界に一足飛びで到達させて頂けるのです。これほど大功徳ある、これほど勝れた仏法は他にありません。まさに言語を絶する有難さです。
臨終の夕べまで
この有難さを思うほどに、信心に退転なく、臨終の夕べまでしっかりとお題目を唱えることがいかに大事かが胸に迫ります。
浅井先生はこのように指導くだされています。
いま私たちはこの有難い御本尊に値い奉ることができたのです。大歓喜で信心口唱に励まなければいけない。
私たちは信心口唱によってのみ、成仏を遂げさせて頂けるのです。だから怠けてはいけない。臨終の夕べまで励むなら、必ず成仏させて頂ける。
いかなる罪障があろうと、何があろうと大丈夫。この大確信に全顕正会員が立ってほしい。
そして、我もいたし人にも勧める。この熱と光を持った人を、地涌の菩薩というのであります。
日曜勤行指導⑱
