「大陣すでに破れたり、余党は物の数ならず」

「御遺命守護」特集号3が出来!

 待望の「御遺命守護」特集号3(顕正新聞令和元年6月5日号)が出来しました!

 学会・宗門ともに国立戒壇建立の御遺命に背いたゆえに、広宣流布を進める「資格」も「力」も失ってしまった中、顕正会だけが大聖人の仰せのままに広宣流布を力強く進めていること、なんとも不思議ですね。

 これも浅井先生がただ御一人、御遺命を守護し奉られたゆえに、大聖人が顕正会に広宣流布を進める「資格」と「力」を与え給うたものと伏して拝しては、感激でいっぱいです。

御遺命の重大さを知らない宗門僧侶

 さて、本特集号において浅井先生は、今の宗門僧侶は国立戒壇建立の御遺命の重大さを知らず、ゆえに池田大作が宗門700年の悲願・宿願であった「国立戒壇」を否定しても、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽っても、さして驚かず、ただ「猊下の仰せに従っていればいいのだ」と涼しい顔をしていることを指摘され、「大聖人様の御眼を恐れず、己れの保身のために国立戒壇否定に与する者は、大聖人様の弟子ではない。僧侶ではない。『法師の皮を著たる畜生』です。後生は必ず無間地獄に堕つる」と、松野抄を引いて指導くださいました。

 そして、「ここに、正系門家の全僧侶は、国立戒壇建立の御遺命がどれほど大事、いかに重大かを、改めて拝し奉るべき」とて、改めて、一期弘法付嘱書・三大秘法抄の御聖意をつぶさに教えてくださいましたが、「早く宗門に御遺命の正義を蘇らせたい」との先生の御心を強く感じました。

「三大秘法抄」は広布前夜の今のための御書

 ご講演において先生は、「三大秘法抄」がいかなる時のための御書であるかにつき、「一見の後は秘して他見あるべからず、口外も詮無し」との仰せを拝され、かく指導くださいました。

 「本抄は御在世の時のためではない、数百年後の広宣流布前夜に、第六天の魔王のたばかりによって、門下一同が『御遺命の戒壇とは一体いかなるものか』について異議を生じ、混乱を生じた時のために書き遺した御書」、「いま正系門家の中で異議が生じてますね。権力者・池田大作が『選挙に不利になる』として国立戒壇を捨てた。そして絶対権威者である『時の貫首』が池田大作にへつらって『国立戒壇は本宗の教義ではない』『正本堂こそ御遺命の戒壇である』と言ったので、もう誰も分からなくなってしまった。そのときのために、大聖人様はこの三大秘法抄を留めおかれたのです。この御金言に背くこと、誰人ができましょうか」と。

 いま宗門では、正本堂の誑惑以降、「御遺命の戒壇とは一体いかなるものか」がわからなくなっています。「国立戒壇」だけは頑なに否定しつつも、では御遺命の戒壇とはいかなるものかと問われると、「いや、それは、いま論ずべきことではない・・・。」とか、「『国主立戒壇』という言い方も、できるのではなかろうか・・・?」とか言ってゴマかすのです。

 第65世・日淳上人の頃までは、広宣流布の暁に勅宣・御教書を申し下して国家的に建立される「国立戒壇」であることを、正系門家の誰もが知っていたにもかかわらず、です。これが第六天の魔王に壊乱された宗門の現状なのです。

 思うに、正系門家700年の歴史において、御遺命の戒壇建立の「時」と「手続」に異議が生じたことは、正本堂の誑惑を除いて一度もありませんでした。まさしく三大秘法抄は、広布前夜の「今」のために書き遺された御書なのです。

 では、大聖人が三大秘法抄に記された「門家の遺弟」とは誰人でしょうか。正本堂問題の前後を通じて、三大秘法抄の御指南に基づき、一貫して御遺命の正義、「国立戒壇」を叫ばれている御方は、浅井先生以外にはおられません。答えは、自ずと明らかでしょう。

昭和57年10月9日「一万人・武道館大総会」(顕正会公式サイトより引用)

「勅宣」の仏法上の重大意義

 今回のご講演で特に有難かったのは、戒壇建立の「手続」である「勅宣並びに御教書」について重々のご指導を頂けたことでした。

 「勅宣」とは天皇の詔勅、「御教書」とは行政府の令書、当時においては幕府の令書、今日においては閣議決定・国会の議決等がこれに当たります。つまり、「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、「仏法を守護し奉るとの国家意志の公式表明」を戒壇建立の必要手続とせよ、ということです。

 この国家意志ということをさらに掘り下げてみると、通じていえば、専制独裁国家であろうと、民主国家であろうと、統治形態の如何を問わず、国家がある以上、国家意志は必ず存在します。

 そうであれば、戒壇建立の手続においても、あるいは「勅宣」ということが空文化する時もあり得るのかといえば、そうではないのです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 別していえば、日本国は下種の御本仏・日蓮大聖人の本国であり、三大秘法広宣流布の根本の妙国です。ゆえに、この御本仏を守護することを使命とする王法が、前以て存在しているのです。それが天照太神を祖とする日本の皇室であります。

 世界を見ても、二千数百年にわたって存続した王室はどこにもない。(中略)なぜ日本の皇室は存続し得たのか。それは、実にこの仏法守護の使命あるがゆえだったのです。

 仏法と皇室の関係を遡って見てごらんなさい。(中略)(聖徳太子、桓武天皇の事例を挙げられ)これらはみな、日蓮大聖人御出現の露払いなのです。法華経迹門の戒壇が建立されることは、まさしく本門の戒壇が建立される露払いであります。(中略)

 いよいよ広宣流布の時には、皇室に「本化国主」が出現される。このことは日興上人が富士一跡門徒存知事にお示し下されている。

 この本化国主は、富士山天生原に本門戒壇が建立されれば、そのすぐそばに「王城」すなわち皇居を築いて、本門戒壇の大御本尊を守護し奉るのです。

 ゆえに日興上人は同じく富士一跡門徒存知事において、次のごとく仰せられている。

 「一、王城の事。右、王城においては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中、仏法と王法とは本源躰一なり、居処随って相離るべからざるか。・・・然れば駿河国富士山は広博の地なり、・・・尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。

 この御文は、広宣流布の暁に本門戒壇が建立されたとき、王城すなわち皇居はいずれの地に建てられるべきかを示された大事な仰せであります。

 「仏法と王法とは本源躰一なり」とはどういうことか。

 大聖人様は日眼女抄に「天照太神・八幡大菩薩も、其の本地は教主釈尊なり」と仰せ下されている。

 すなわち日本国の王法の祖である天照太神も八幡大菩薩(第十六代・応神天皇)も、その本地は釈尊である―と。その釈尊の本地をさらに尋ねれば、久遠元初の自受用身に行き着く。ゆえに「仏法と王法とは本源躰一なり」なのです。

 ゆえに広宣流布の暁の「本門寺」と「王城」は相離れてはいけない。一つの所でなければいけない。これこそ日蓮大聖人の本願の所である―と日興上人が仰せられているのです。

 この御文を拝せば、仏法を守護し奉るとの国家意志の表明における「勅宣」の重大さが、よーくわかりますね。

顕正新聞令和元年6月5日「御遺命守護」特集号3

 いかがでしょうか。日本国の仏法上の特質、皇室の重大使命、そして唯仏与仏の御境界であられる日興上人の仰せを拝すれば、三大秘法抄に示された「勅宣」が必要不可欠の重大手続であることがよくわかります。

 この御本仏が定め給うた重大手続を、「現代では建築許可証でいいんだ」などと冒涜した阿部日顕の無智・無道心、そして罪障の深さはいかばかりでしょうか。深く懺悔しなければなりません。

国立戒壇を堅持された日淳上人の清らかな宗門へ

 最後に先生は、大聖人が学会・宗門の御遺命破壊の大悪を許し給わず、顕正会をして諫暁せしめ、ついに正本堂を打ち砕き給うた経緯を簡潔に示された後、かく指導くださいました。

 第六天の魔王が、御本仏の御遺命を破壊せんとした企みは、ここに完全に崩壊し畢ったのです。

 弘安二年九月の四条抄の仰せに云く「大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず」と。

 大聖人様の御化導をどれほど妨害しようとしても、怨嫉者の大陣はすでに破れた。あとの残党どもは物の数ではない―と仰せられている。

 この御文を拝せば、正本堂の崩壊こそ、まさに御遺命破壊のたばかりにおける「大陣すでに破れぬ」に当る。

 阿部日顕はその六年後の平成十六年の全国教師講習会において、二冊の悪書の幕引きを図ったが、これは己れの謗法の罪を隠す保身に過ぎない。またそのとき「『国立戒壇を間違いだ』と言ったことは正しかった」などと悪言を吐いたが、これは改悔なき者の減らず口に過ぎない。

 大陣はすでに破れたのです。いま阿部日顕の残党どもがなお「国立戒壇」を誹謗しているが、まさに「余党は物のかずならず」であります。

 また「悪は多けれども一善にかつ事なし」と。悪の残党どもは間もなく消滅し、宗門は遠からず、国立戒壇を堅持された日淳上人の清らかな宗門に立ち還ること、断じて疑いない

 いつまでも正系門家が、このまま汚濁でいるわけがないのであります。

顕正新聞令和元年6月5日「御遺命守護」特集号3

 宗門に御遺命の正義が蘇ることも、日本の広宣流布も、すべては顕正会の前進にかかっているのだと心し、私も広告文を片手に一人でも多くの人々に日蓮大聖人の大恩徳を教えていきたいと思います。