「近現代における戒壇問題の経緯と真義」という名の「言い訳」

最近、宗門が本を出したそうです(笑)

 冨士大石寺顕正会の3月度総幹部会で、浅井先生より、宗門(日蓮正宗)が2月16日、「近現代における戒壇問題の経緯と真義」という本を発刊した、とのご指導がありました。

 これは、阿部日顕が平成16年8月26日、「全国教師講習会」で講義した内容に加筆・修正を加えたもののようです。

 私自身、以前に「最後に申すべき事」を読んでその概要を知っていたので、「え、なんで今さらそんな本を出すんですか??」と驚き、そして呆れました。

 だって、この本の内容って、要するに「いや~、あの時はさあ、池田大作に言われて変なこと書いちゃったんだよね。まあ、でも当時は仕方なかったじゃん?」みたいな、見苦しい「言い訳」が書いてあるだけじゃないですか(笑)

 まさに「近現代における戒壇問題の経緯と真義」という名の「言い訳」にすぎません。

「近現代における戒壇問題の経緯と真義」

ダラダラ書いてあるけれど・・・

 さて、せっかくなので中身についても少し触れてみましょう。浅井先生は、「だらしなく、長々と書いておりますけれども、端的にいえば次の2点に尽きる」として、次のように指導くださいました。

① 阿部日顕がかつて書いた2冊の悪書の幕引きを図ること

② 国立戒壇だけはなおも否定せんとして、「国主立戒壇」などという珍妙な新しいたばかりを持ち出していること

 ・・・おやおや、実にくだらない内容ですね(笑)

 たとえば、阿部日顕は、正本堂を御遺命の戒壇であると論じた2冊の悪書(「国立戒壇論の誤りについて」「本門事の戒壇の本義」)について、次のように幕引きを図っています。

今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を「三大秘法抄」の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である

御遺命破壊の悪侶・阿部日顕

 いかがでしょうか。大聖人一期の御遺命をほしいままに歪曲し、偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇に仕立て上げた大謗法を、単なる「言い過ぎやはみ出し」で済まそうとする信心の無さ、ハレンチぶりには、ただ驚くばかりです。まさに猊座をかすめ取った「詐称法主」だからこそできる離れ業といえるでしょう(笑)

 浅井先生は、中国の三論宗の元祖・嘉祥が、天台大師に破折されて帰伏した後、後生を恐れる道念ゆえに身を肉橋として罪障消滅しようとした姿について指導くださいました。そこまでの懺悔をしたのだから、どれほど法華経を悪口したのかと思いきや、大聖人は「いたう法華経を謗じたる疏にはあらず」(報恩抄)と。

 つまり、それほどの誹謗をしたわけではないものの、あの懺悔の姿を示したのです。この仰せを拝すれば、正法誹謗の罪というものがいかに重いか、また、この罪を滅するにはいかに深い懺悔が必要か、ということがよくわかります。

 そこに、阿部日顕の所行は、熟脱の法華経の誹謗ではありません。実に下種仏法における最も大事な御遺命を歪曲・破壊したのですから、その罪の深きこと、嘉祥の百千万億倍です。五体投地の懺悔なくして、どうして重き罪障を消滅させることができるでしょうか。

 しかるに阿部日顕は、「はいはい、言い過ぎ・はみ出しでした」などと軽口を叩いているわけです。要するに、阿部日顕には、御遺命の大事も、これを歪曲した罪の深さも、まったくわかっていないのです。この無道心、まさに入阿鼻獄は必定と断ぜざるを得ません。阿部日顕に同調する改悔なき宗門僧俗もまた同罪です。

 次に「国主立戒壇」なるたばかりについて。

 そもそも阿部日顕自身が、「私は『国主立ということを言いなさい』と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで・・・」などとフラフラしているのですから、「口から出まかせ感」が否めないのですが(笑)、これも浅井先生の「最後に申すべき事」により、すでに完膚なきまでに破折されています。

 端的に言えば、憲法を改正せずに建立できる戒壇とするために、「国主」を「国民」とたばかり、三大秘法抄の「勅宣並びに御教書を申し下して」の重大な御定めを無視している点で、重大な御遺命違背であり、正本堂と本質的に変わらないということです。

 だから、日蓮正宗は、公式サイトにおける「三大秘法抄」の解説でも、「勅宣並びに御教書を申し下して」の一文だけを不自然に隠しているのでしょう。いやはや、惨めですね(笑)

 ちなみに、「最後に申すべき事」の全文は、なんと一刀両断さんのサイトに掲載されているようです。まだ読んだことがない方はぜひご一読ください。

御遺命破壊のたばかり、いよいよ「最終章」へ

 いかがだったでしょうか。顕正会の破折に追い詰められた宗門(日蓮正宗)が、一体何を出してくるかと思いきや、所詮、この程度の本しか出せないということです。これが大聖人の御遺命に背き続ける者の惨めな姿です。

 浅井先生は、このたび宗門が恥知らずにも平成16年の講義録を一冊の本として新たに発刊したことをご覧になり、「何とも愚かしい限り。これを見て私は、昭和四十年以来、長きにわたった正系門家における御遺命破壊のたばかりも、いよいよ最終章に至ったと思っている」と仰せられました。

 そして、「広宣流布の時には、日目上人がご出現になる。その広宣流布はもう近い。ならば、どうして日目上人ご出現の露払いとして、正直にして道念ある僧侶が次々と出現しない道理があろうか」と。20年代の決戦場に向けて、御遺命成就への燃えるような決意がこみ上げます。

 私も平成17年の「最後に申すべき事」を心肝に染め、無道心の禿人を「駆除」するとともに、国立戒壇の正義に目覚める「有羞(うしゅう)の僧」出現のつゆ払いの御奉公をさせて頂きたいと思います!