十界論(1)

仏法の基本の「き」=十界論

 今回は「十界論」について書いてみたいと思います。

 十界論といえば、仏法の基本の「き」ですね。私もはじめて十界論を学んだとき、「へえ、すごいなぁ」と感激したことを覚えています。

 友人に仏法を教えるときも、よく十界論の話をします。

「仏法で『十界』っていうのがあってさ」

友人A「あ、知ってる知ってる!あの、海がパカーって割れるやつでしょ?」

「・・・いや、それ『モーセの十戒』じゃない?」

 というやりとりがこれまで何度かありました(笑)

 仏法でいう「十界論」は、そのような架空のおとぎ話ではありません。実に仏様が大智恵をもって覚られた、生命と宇宙を貫く一大理論なのです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

「十界」とは?

 この大宇宙は大きく分ければ有情と非情で構成されている。有情とは、人間や動物など心・感情・意識を持つ生物のことで、広く衆生という。非情とは、草木・国土など心の働きを持たないものをいう。しかし委細に観察すれば、草木・国土等の非情にも色(物質)・心(精神活動)の二法が具わっている。

 十界とは、この宇宙に存在するすべての有情を、その境界にしたがって十種に分類したものである。そして非情はこの有情の所依となる国土であるから、宇宙法界は広漠といっても、すべてはこの十界に収まる

 十界の名を挙げれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏界である。

基礎教学書第3章「十界論」より

 このように仏法では、まず、宇宙に存在するすべてのものを、大きく10種に分類して捉えます。たとえば、私たちは「人間界」、ポチ(犬)やミケ(猫)は「畜生界」といった具合です。

 そして驚くべきことに、なんと私たちの生命にも、この十界が素質として具わっているというのです!

 再び浅井先生のご指導を拝してみましょう。

人界に具わる十界

 十界論で大事なことは、我々人間界にまた十界が具わり、御本尊を信ずることにより、所具の仏界が湧現して成仏させて頂けるということである。(中略)

 人間生活の種々相は、すべてこの十界に収まっている

地獄界

 大苦悩に沈み、しかも束縛されてその苦から逃れられないという境界

 戦場に駆り出されて恐れ戦いたり、重病で苦痛と死の恐怖に怯えたり、借金の取り立てに脅えたり、あるいは家庭不和で心身ともに苛なまれる等の状態がこれに当たろう。つまり生命の維持発展が妨げられ切った境界である。

餓鬼界

 貪欲にとらわれ、常に不足不満の念に満ちている境界

 食物・金銭・地位等において、一を得れば十を望み、十を得れば百を望み、飽くことを知らぬ者、また自分はありあまる財を持ちながら人には惜しみ、あるいは自分は美食しても親には惜しむなどの者はこれに当る。

 この慳貪(強欲で物慳み)の報いとして、欲しくても得られぬ飢渇の苦を得る。(中略)貪りは因、飢えは果、これ餓鬼の因果である。

畜生界

 目先のことにとらわれ、物事の道理をわきまえぬ癡かな境界。また強きを恐れ、弱きを侮る卑怯な境界

 この界の特徴は癡(おろ)かしさと卑怯にある。たとえば、目先の一時的快楽を得るために麻薬・覚醒剤等におぼれる者、あるいは大勢で弱い者を苛め、あるいは自己中心で母性本能を失い幼児を虐待する母親等の姿はこれである。

 佐渡御書には「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」と仰せられている。

修羅界

 常に他人より勝ろうとする異常な嫉妬・競争心に満ちた境界

 この修羅界は常に争いが絶えない。(中略)また修羅は驕慢で心がひねくれ曲がっているから、人から正しいことを云われても素直に受け取れず、すぐにカッとなって腹を立てる。

人間界

 穏かで平和を愛し、道義をわきまえ、親・兄弟・妻子・友人を思いやるなど、平らかな境界である。

天上界

 願いがかなって喜びに満ちている境界、また先天的な福運により恵まれた生活が送れるような境界

 ただし天上界の喜びは「天人の五衰」といって永続しない。先天的な福運などはバケツに汲んだ水と同じで、もし今生に仏法に背けば、たちまちに果報は消滅してみじめな境界となる。

声聞界

 真理の探究に、生きがい喜びを感ずる境界

 学問・研究などに一筋に打ちこむ学者などはこれに当ろう。ただしこの境界の者は自身の知り得た小さな智識に固執して独善的となり、他を利益する心がないのが特徴である。経文には舎利弗・目連等の名が挙げられている。

縁覚界

 世間の無常や飛花落葉などを見て一種の諦観を持つ境界

 一道一芸に秀で、ある種の安らぎを得ている者などはこの一分であろう。ただしこの縁覚もまた独善的さとりにこだわり、利他の心がない。

菩薩界

 他を救わんとする慈悲の境界

 (中略)自身を顧みず他を救わんとする境界がこれに当る。

 ただし末法における菩薩界とは、御本仏日蓮大聖人の眷属として、我も南無妙法蓮華経と唱え奉り人にも勧め、大聖人の大願たる広宣流布・国立戒壇建立に勇み立つ者である。ゆえに「日蓮と同意ならば地湧の菩薩たらんか」(諸法実相抄)と。

 別しては、日興上人・日目上人の御姿こそ、末法における菩薩界そのものであられる。

仏界

 御本仏日蓮大聖人の御境界こそ仏界であられる。生命の極理・南無妙法蓮華経を証得された大智恵、竜の口で示し給うた絶大威力、大難を耐え忍んで一切衆生に三大秘法を授与し給うた大慈悲、まさに全人類の主君・師匠・父母であられる。この三徳を兼ね備えた大境界を仏界と申し上げるのである。

 ちなみに、この十界のうち、地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道、人間・天上を加えて六道といい、声聞より仏界までを四聖という。

基礎教学書第3章「十界論」より

 いかがでしょうか。「こんな人、いるいる!」と思われた方も多いのではないでしょうか。

 いつもいじめられている人、ガツガツ欲張りな人、目先のことに囚われている人、傲慢ですぐにカッとなる人、よくいますよね。これは「四悪道」の命が強いのです。

 「人間生活の種々相は、すべてこの十界に収まっている」と。世の中にはいろんなタイプの人がいますが、その生活を大きく見れば、ことごとく、この10種のどれかに当てはまってしまうのです。いやはや、凄い理論ですよね。

 もちろん、これは日本人だけではありません。中国人も、アメリカ人も、ドイツ人も、ネパール人も、みんな同じです。

外界の縁に触れて十界が湧現

 そして、私たちの生命に素質として具わる十界は、それぞれ外界の縁に触れて湧現するのです

 たとえば、仕事中に大きなミスをしてしまったとします。カンカンに怒った上司から、1時間近くも延々と説教されたとしたら、ふつうは落ち込みますよね?このとき、上司の説教を縁として、自分の命の中に「地獄界」が湧現しているのです。

 見かねた同僚が、昼休みに会社近くのおしゃれなカフェに連れて行ってくれました。ふと入口の立て看板を見ると、なにやら新作メニューが・・・。「あ!そういえば、今日は前から楽しみにしていた新作パフェの発売日だった!」と思い出した瞬間、それまでの暗い気持ちはどこかへ吹き飛んで、途端にうれしい気持ちになりました。これ、パフェの立て看板を縁として、命の中に「天上界」が湧現したからです。

 お気に入りのパスタをいそいそと食べ終わると、お待ちかねの新作パフェがテーブルに運ばれてきました。グラスから溢れんばかりのいちごの盛り付けと、それを覆うほどの贅沢なホイップクリーム、そして、グラス越しに見えるバニラとストロベリーソースの鮮やかなグラデーション・・・。おや、思わずヨダレが(笑)。どうやら、パフェを縁として、命の中に「餓鬼界」が湧現したようです。

 このように、私たちの生命には、誰もが素質として十界を具えており、それが外界の縁に触れて湧現しているのです。これも「あるある」ですよね。

 ところが、「仏界」だけはなかなか湧現してくれません。さて、どうしてでしょうか?

 それは、私たちの身の回りに「仏界」を引き出す縁がないからです。

 ですから、せっかく仏界の素質を持っていても、それを引き出すことができないまま、みな宿命に流されて苦悩の人生を送り、最期、空しく死苦を迎えていくのです。

 そこに、日蓮大聖人が大慈悲をもって御本尊をあらわして下さった所以があります。仏様の御生命があらわされた御本尊を信じ、仏様の御名である南無妙法蓮華経を唱え奉ることが、「仏界」を湧現させる縁となるからです。

 このとき、私たちの心に仏様が宿って下さるゆえに、心法が変わり、宿命が変わり、現世に幸せを得るだけでなく、一生のうちに「成仏」を得させて頂けるのです。

 なんとも有難いですね。