正本堂の誑惑を破す(5)事の戒壇の定義変更による誑惑

誑惑の概要

事の戒壇とは、広布の暁に建てられる御遺命の戒壇です

しかるに池田大作はこの事の戒壇を「正本堂である」と偽りました。

そこで顕正会は「正本堂は事の戒壇ではない」と第1回諌暁書で破折しました。

すると細井日達と阿部日顕は「戒壇の御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇である」と定義を変更し、だから「正本堂は事の戒壇といえる」と言い出したのです。

この定義変更の欺瞞は次の2つです。

①〝正本堂が御遺命の戒壇か否か〟ということと、〝戒壇の大御本尊まします所が広布以前にも事の戒壇といえるか否か〟ということとは、全く無関係・別次元の事柄であるにもかかわらず、「事の戒壇」という名称を共通させることにより、顕正会の破折を紛らわせ、池田の誑惑が通用するかのように錯覚せしめている

②本宗の伝統法義の上からは、広布以前に戒壇の大御本尊まします所を「事の戒壇」とは絶対に云えない

①は自明のことなので、以下では②について見ていきたいと思います。

「事の戒壇」についての伝統法義

まず本宗伝統の法義を示します。

本門戒壇における事と義とは、とは事相(事実の姿)の意、とは義理・道理の意です。

すなわち、三大秘法抄に定められた条件が整った時に事実の姿として建立される戒壇を「事の戒壇」といい、それ以前に本門戒壇の大御本尊のまします所義の戒壇と申し上げるのです。

その文証を引きます。

日寛上人は法華取要抄文段に、まず義の戒壇を説明されて

義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当たるなり・・・故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし、広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり

次に事の戒壇を釈されて

正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く「王法仏法に冥じ・・・」等云々

と御指南されています。

また日享上人は

この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当たるのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える(正宗要綱)

また日淳上人は

御文(三大秘法抄・一期弘法付嘱書)に、王法と仏法と冥合して国主が此の法を御用いの時は、此の戒壇が建立せられる、それを「事の戒法と申す」と仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります(日蓮大聖人の教義)

文証・赫々明々、一点の疑問の余地もありません。

これが本宗伝統の「事」と「義」の立てわけです。

学会においてもこの定義は同じです。

戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である(折伏教典・35版)

池田大作でさえ、次のように言っています。

日蓮大聖人の三大秘法の仏法においては、本門の本尊まします所が義・戒壇にあたる。・・・ここに日蓮大聖人御遺命の戒壇建立とは事の戒壇であり、「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法」である

定義は正しい、しかしこの定義を以て正本堂を事の戒壇と偽るから「御遺命違背」というのです。

細井日達もかつては正しい定義を用いていました。

事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立であります(大日蓮昭和36年5月号)

広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立ということになるのでございます(大日蓮昭和34年9月号)

定義変更の誑惑

しかるに昭和45年の顕正会の諫暁以降、突如としてこの定義が変更されます。

すなわち細井日達は次のように言いました。

この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45年4月27日・教師補任式)

前言との自語相違は明らかです。

また阿部日顕も

戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇である(「本門事の戒壇の本義」)

などと言っています。

しかし日寛上人は

未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し(寿量品談義)

と御指南くだされています。まるで正反対なのです。

これまさに、細井日達・阿部日顕が池田の誑惑を扶けるため、勝手に日蓮正宗の伝統法義を改変して「義」を「事」と偽ったものです。これを「己義を構える」というのです。

日開上人の御宝蔵説法本の文意

細井日達・阿部日顕が定義改変を正当化するために挙げた文証はただ2つです。

1つは日開上人の御宝蔵説法本。

これを細井日達はわざと日開上人の御名を隠したうえで「御相伝」と称し、次のように引用します。

其の本堂(原本は戒壇堂)に安置し奉る大御本尊いま眼前に当山に在すことなれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土(大日蓮昭和50年9月号)

原本の「戒壇堂」を「本堂」と改ざんするのも無慚ですが、許されないのは文意の歪曲です。

日開上人は、戒壇の大御本尊まします所を直ちに「事の戒壇」と仰せられたのではありません。

この前文には、次の御文があります。

事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし

すなわち広宣流布の暁に国立の事の戒壇が建てられることを大前提とし、その事の戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊いま眼前にましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、その功徳においては事の戒壇に詣でるのと全く同じであるということを「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられたのです。

これが「義理・事の戒壇」すなわち義の戒壇の意です。

この御意は、37世・日琫上人の御宝蔵説法本の次の御文と同一轍です。

未だ時至らざれば、直ちに事の戒壇はなけれども、此の戒壇の御本尊ましますことなれば、此の処即ち本門戒壇の霊場にして、真の霊山・事の寂光土と云うものなり

しかるに細井日達は、日開上人の御宝蔵説法本の前文をわざと隠し、御遺命の戒壇を無視した上で、戒壇の大御本尊所住の処を直ちに「事の戒壇」と言ったのです。これ明らかに文意の歪曲です。

日相上人の文書?

もう1つの文証は、「最近出てきた」という日相上人の文書なるものです。

この文書について細井日達は、「日寛上人の御説法を日相上人がお書きになった。これは間違いないんです」と言います。

また阿部日顕も、この日相上人文書なるものが日寛上人の「密意」を伝えるものであるとして、

日相上人の聞書、大弐阿闍梨(日寛上人大学頭時代の呼び名)講の三秘六秘中の戒壇の文にも書かれている(「本門事の戒壇の本義」)

などと言っています。

これではまるで、日相上人が日寛上人の御説法の場に在って書いたように取れます。

「聞書」とは聞きながら書く速記録だからです。

しかし、日相上人は第43世の貫首にして、その御出家は日寛上人の滅後44年ですから、日寛上人の御説法を聴聞できるはずがありません

浅井先生は「たばかりもいいかげんにせよ」と叱責されています。

また阿部日顕は、この文書が日寛上人の「密意」を伝えるごとくにいいますが、あの用意周到の日寛上人が、どうしてこのような形で大事の御法門を後世にお伝えになるでしょうか。

寛尊の精美を極めた大事の御法門は、六巻抄及び重要御書の文段に説き尽くされています

ことに畢生の大著といわれる六巻抄に至っては、御遷化の前年に再治を加えられ、その中で「敢えて未治の本を留むることなかれ」とまで念記されています。

その上人が、このような頼りないメモで、しかもご自身の他の言説と相反する大事の法義を密伝されることなどありえません

またもしそれほど重大な文書なら、今まで誰もその存在を知らず、昭和50年になってはじめて発見されたというのもあまりに不自然です。

そのため、この文書がもし日相上人の直筆だとしても、恐らく日相上人が日寛上人の大学頭時代の御説法本を拝見し、その要旨をメモされたものにすぎないでしょう。

「密意」などとたばかってはいけません。

さて、宗門が鬼の首でも取ったように披露したこの文書ですが、その内容を見れば、

本門戒壇

・在々処々本尊安置の処は理の戒壇なり。

・富士山、戒壇の御本尊御在所は事の戒(壇)なり。

とあるだけです。

この意は、日寛上人が諸々に示し給うた御意と何ら矛盾するものではありません。

すなわち嫡々書写の本尊安置の処を「理の戒壇」とし、広布の暁・富士山に建てられる戒壇の大御本尊御在所の戒壇を「事の戒壇」と示されただけのことです。

このように、嫡々書写の本尊の所在と国立戒壇とを直ちに相対して理と事に立て分ける捌きは、日寛上人の報恩抄文段にも見られます。

本門の戒壇に事あり理あり。理は謂く道理なり、また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る処の山々・寺々・家々は皆これ道理の戒壇なり。次に事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり

先の文書の文意は、この報恩抄文段と同一轍です。

故意に文意を歪曲してはいけません。

「日相上人の聞書」についての疑惑

ちなみに、阿部日顕が「日相上人の聞書」と称するこの文書については、実は第43世・日相上人の文書ではなく、日寛上人の時代にいた「日相」という学僧が書いたものである疑惑があるようです。

詳しくは下記の記事をご覧ください。

「日相上人の聞書」の疑惑
...

また、あえて一言付け加えさせて頂けば、戒壇論という重大法義について、日寛上人が相互に矛盾するご指南をされるはずがありません。

「報恩抄文段」等の日寛上人ご自身の正式な御指南と、弟子が筆記したメモ、どちらがより正確な表現・内容であるかは自ずと明らかでしょう

このようなメモで、日寛上人はじめ歴代上人が一貫して御指南されてきた「事の戒壇」の定義改変を正当化しようとすること自体、そもそも無理があります。

戒壇の大御本尊所在の処は「義の戒壇」ではない?

しかし、なお阿部日顕は〝猛々し〟く次のように言います。

本門戒壇の本尊所住の処が、理の戒壇とか義の戒壇とおっしゃってる所は一ヶ所もないと思うんです。寛師のあの尨大の著書の中で、おそらく一ヶ所でもあったら教えていただきたい。まず絶対ないと私は思うんです(大日蓮昭和49年8月号)

これに対して浅井先生は、次のように破折されています。

では、御要望にしたがって明文を挙げよう。願くば守文の闇者たらずして理を貴ぶ明者たらんことを――。

まず法華取要抄文段に云く

義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当に知るべし、是の処は即ち是れ道場』とは是れなり。天台云く『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり」と。

「当山」とは、本門戒壇の大御本尊まします大石寺のことである。この大石寺を指して「義理の戒壇」と明らかに仰せられているではないか。

また寿量品談義に云く

未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊在す上は、其の住処は即ち戒壇なり」と。

「事の戒壇は未だ無し」とした上で「其の住処は即ち戒壇」と仰せられるのは〝義理(道理)において事の戒壇〟という意である。なにゆえ義理・事の戒壇に当るのかといえば「本門戒壇の御本尊在す上は」とある。文意全く取要抄文段と同じである。

また依義判文抄に云く

「南条抄に云く『教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘し隠し持てり、……斯かる不思議なる法華経の行者の住処なれば、争か霊山浄土に劣るべき……』云々。応に知るべし、『教主釈尊の一大事の秘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり。『日蓮が肉団の胸中』とは、即ち本尊所住の処これ義の戒壇なり。……『斯かる不思議なる法華経の行者の住処』等とは、所修は即ち本門の題目なり、住処と云うとは題目修行の処、即ち義の戒壇なり」と。

「教主釈尊の一大事の秘法」とは、本門戒壇の大御本尊の御事である。ゆえに文底秘沈抄には

「『教主釈尊の一大事の秘法』とは、結要付嘱の正体・蓮祖出世の本懐・三大秘法の随一・本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫来心中深秘の大法の故に『一大事』と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士山の下に在り」と。されば「日蓮が肉団の胸中」とは本門戒壇の大御本尊所住の処である。日寛上人はこの処を「これ義の戒壇なり」と明確に仰せられているではないか。

また「斯かる不思議なる法華経の行者の住処」をまた「義の戒壇」とされている。「法華経の行者」とは即日蓮大聖人、そして日蓮大聖人の御当体は即本門戒壇の大御本尊、その「住処」をまた「義の戒壇」と仰せられているではないか。

以上、明文・白義あたかも天日のごとし。阿部教学部長、もっていかんとなす。

※顕正会が正しかったことを認めるに至った宗門

ちなみに宗門は最近、「事の戒壇」の定義をこっそり元に戻しました。

最近の日蓮正宗公式サイト(関連項目・正しい本尊とは)には、次のような記載があります。

「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(新編1675頁)と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。

これは「戒壇の御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇である」とする細井日達・阿部日顕の見解と全く相反するものです。

しかし、何より重要なことは、これが顕正会の主張と全く同じであるということです。

つまり、宗門は、「事の戒壇」の定義について、宗門が間違っていたこと、そして、顕正会が正しかったことを認めたということです。

平成15年に宗門が発刊した「諸宗破折ガイド」などは、顕正会への誹謗に躍起になるあまり、この「事の戒壇」の正義に対し、「そこに不相伝の輩の短絡的な考え違いがある」「このように宗門における『事の戒壇』義は、終始一貫しており、なんら疑義を差し挟む余地はない。顕正会浅井の基本的な誤りは、大聖人の御書の意を自分勝手に判断するところにあるのであり、これは師弟子の道を違える謗法である」などと貶めています。

宗門自身も正論と認めるに至った歴代上人の正義に対し、あろうことか、「不相伝の輩の短絡的な考え違い」、「大聖人の御書の意を自分勝手に判断する(もの)」などと口を極めて中傷していたのです。

これがコロコロと変節を繰り返す無道心の宗門の実態です。まさに「師弟子の道を違える謗法」と断じざるを得ません。