正本堂の誑惑を破す(4)三大秘法抄の曲会

次に、国立戒壇を否定するために、阿部日顕らがどのように三大秘法抄を曲会したかを見ます。

以下、阿部日顕の発言等は「国立戒壇論の誤りについて」からの引用になります。

「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」

「王法」とは

阿部日顕はまず「王法」の語義を歪曲して、

「そもそも王法という言葉が当時いかなる概念をあらわすものとして用いられたか。一つには公の儀礼(有職故実がその作法として知られる)を指す言葉として用いられたとする歴史学者の考察がある」などと、根拠のない見解を挙げた後、

御書に用いられた「王法」の意を「政治を含むあらゆる社会生活の原理」と解釈しています。

しかし、「政治」は許されるとしても、それを含む「あらゆる社会生活の原理」とするのはごまかしです。これでは曖昧模糊としてつかまえどころがなくなるからです。

王法」の意は、「国家、国主、国主の威光勢力、統治主権、国家権力、政治」等であり、これら国家及びその統治に関わる諸概念以外に「王法」の意は全くありません。

御書における「王法」が、はたして阿部日顕のいう「あらゆる社会生活の原理」を意味するか、あるいは前述の「国家・国主」等を意味するかは、御書における用例を拝する以外にありません。

そして、御書中の全用例38箇所を拝せば、1つとして「あらゆる社会生活の原理」などの意はなく、ことごとく「国家、国主、国主の威光勢力、統治主権、国家権力、政治」等の意に用いておられます。

一例を挙げれば、

仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり」(四条金吾殿御返事)

夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)

我が朝に代始まって人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人、王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし」(富木入道殿御返事)等です。

このように阿部日顕の解釈は、明らかに御書の意に反しています。聖意に背く勝手な解釈を、曲会私情というのです。

「冥合」とは

次に「冥合」について、阿部日顕は次のように言います。

生命の奥深い所で合一するということで、仏法がそのまま生の形で王法にあらわれてくることではない。それは、仏法が仏法の使命に生き、王法がその理想実現に専心していくとき、結果として自然に冥合するということなのである。したがって今日、王仏冥合と政教分離とが抵触するものでないことは明白である。いずれにせよ、かかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出し得ない。

つまり、「王仏冥合」とは、生命の奥深い所で合一するということであって(意味不明)、戒壇の国立という趣旨は全く見出し得ないのだ、と言っているわけです。

しかし、宗門(日蓮正宗)は、かつて学会が「王仏冥合・国立戒壇のための選挙」と叫んでいたとき、宗門機関誌「大日蓮」に「王仏冥合の実現をめざして」と題する特集を組み、次のように書いていました。

国家を救う道は、邪宗邪義を倒して正法を立てる以外にはないのである。王仏冥合実現のために、参院選にのぞむ創価学会の政治家を、われわれ日蓮正宗の信徒はこぞって力を合わせ勝利へみちびきたい。・・・平和楽土の建設は、日蓮大聖人の大理想なのであり、その実現は、国立戒壇という王仏冥合の姿においてなされる(大日蓮昭和37年6月号)

つまり、「王仏冥合の姿」とは「国立戒壇」建立であると明言していたのです。

しかるに、学会が国立戒壇を捨てるや、たちまち「かかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出し得ない」などと豹変したのです。この無節操、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。

まさしく「王法仏法に冥じ・・・」の正意は、国家が日蓮大聖人の仏法を根本の指導原理として尊崇守護することです。

阿部日顕の解釈は、政教分離原則への抵触を恐れ、憲法に合わせて御聖意を曲げたものです。

まさに「靴に合わせて足を切る」の愚行というほかありません。

「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」

「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」の御文について、阿部日顕は次のように言っています。

この「王臣一同」ということであるが、現代では、民衆が王であるとともに臣である。ゆえに「民衆一同」と読むのが、今日では正しいのである

この曲会は、一期弘法付嘱書の「国主」を民衆と歪曲したのと同じ手口です。

しかし、御書を拝せば、いたる所に国家の構成について「王・臣・万民」との仰せを拝します。

例えば、「悪鬼の入れる大僧侶等、時の王・臣・萬民を語らいて」(撰時抄)

王・臣・萬民みなしづみなん」(妙心尼御前御返事)

末法の法華経の行者を軽賎する王・臣・萬民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(出世本懐成就御書)等です。

これらの御文にある「萬民」が、阿部日顕の好きな「民衆」に当たりますが、もし「民衆が王であるとともに臣である」ならば、国家の構成は「民衆」だけとなり、国家の体をなさなくなります

「王」=「民衆」の誤りは明白でしょう。

では、大聖人は「王」についてどのように仰せられているかといえば、

王と申すは三の字を横に書きて一の字を竪(たて)さまに立てたり。横の三の字は天・地・人なり、竪(たて)の一文字は王なり、須弥山と申す山の大地をつきとをして傾かざるが如し。天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名けたり」(内房女房御返事)と。

すなわち「」とは、天地と人民を治める最高統治者なのです。

政治学では、国家成立の三大要素を「領土・人民・主権」と説明していますが、この主権こそ最高統治権力、仏法でいう「王法」に当たります。これを欠いては国家は成り立たないのです。

そして「臣」とは、最高統治者たる「王」を補佐して行政の衝に当る者です。

この「王」と「臣」は、たとえ名称・形態は変わるとも、古今東西、あらゆる国家にその存在が欠けることはありません。

ゆえに撰時抄には、「一閻浮提の内・八萬の国あり、其の国々に八萬の王あり、王々ごとに臣下並びに萬民まで」として、「王臣」の存在が世界共通であることを示されています。

まさしく三大秘法抄における「王・臣」とは、とは日本国の国主たる天皇とは総理大臣以下各大臣です。

すなわち「王法仏法に冥ずる」広宣流布の日には、全国民はもちろんのこと、国家の統治機関たる天皇も各大臣も一同に三大秘法を受持するということです。

「有徳王・覚徳比丘の其の乃住を末法濁悪の未来に移さん時」

「有徳王・覚徳比丘」の故事は涅槃経に説かれています。この故事は、正法まさに滅せんとする時、国主はかくのごとく正法を守護すべしということを示されたものです。

この有徳王・覚徳比丘の振舞いの中に、国家権力と仏法の関係と在り方が自ずと示されています。

正法を説く覚徳比丘も不惜身命、覚徳比丘を守る有徳王も不惜身命、そこには微塵も利己がなく、ともに法を惜しむ大道念あるのみです。

このような、仏法のためには身命も惜しまぬ護法の大道心が一国に満ち満ちた時、戒壇を建立せよと、大聖人は定め給うたのです。

この御文について阿部日顕は、次のように言っています。

この御文は広宣流布の時、在家の中より身命がけで仏法を守る指導者が必ずお出になる事を示されたものと拝されます。その広宣流布の時とは、まさに今日、創価学会の出現により、又その大指導者たる会長池田大作先生が身を以て示される、法主上人猊下と宗門に対する不惜身命の御守護をもって、いよいよ、その時が到来した事を、断じてはばからぬものでございます(大日蓮昭和41年6月号)

つまり、「有徳王」とは池田大作、「覚徳比丘」とは細井管長だと言っているのです。

この邪義について、浅井先生は次のように痛烈に破折されています。

教学部長(筆者注、阿部日顕)は「有徳王」を不徳王とまちがえたのではないか。いったい、総本山を経済封鎖する「有徳王」がどこにいよう。〝時の法主〟を大衆の面前で罵倒して十三億五千万円を巻き上げた「有徳王」がどこにいよう。また、学会にへつらって御本仏の御遺命を曲げる「覚徳比丘」がどこにいようか-。御金言を曲げるものいい加減にせよといいたい。

「勅宣並びに御教書を申し下して」

勅宣並びに御教書」とは、国家が戒壇の大御本尊を守護し奉るという〝国家意志の表明〟を意味します。

仏国実現のため、大聖人はこの〝国家意志の表明〟を戒壇建立に不可欠の手続と定め給うたのです。

しかし阿部日顕は、2冊の悪書において、これを単に「建築許可証」と歪曲しました。

その誑惑をつぶさに見ると、おおむね次の2つの論法に分けられます。

① 叡山の戒壇は、義真の建立であって、官の許可並びに天皇の詔が下りたのみであるが、大聖人もこの叡山の先例にならって「勅宣並びに御教書」と仰せられたにすぎない。今日では、もはや大聖人御在世のような勅宣や御教書はないから、そうした文書は必要ない。

② 今日では国法、制度、宗教的実状、国主の意味等のすべてが変わっており、大聖人御在世の頃の意味の国主は民衆だから、勅宣・御教書は、信教の自由の制度下における建立の手続、即ち建築許可証の意味となる。

つまり、①は叡山の戒壇建立における勅許の意義を矮小化し、②は現憲法下での制約等を口実にして、「勅宣並びに御教書」の意義を歪曲するものといえます。

これらに対しては、次のように破折することができます。

叡山の戒壇建立における勅許の意義

阿部日顕は、大聖人が先例として所々に挙げ給う叡山の戒壇の勅許について、ことさらこれを建築許可のレベルに矮小化し、「建立したのは義真であって、天皇は許可したのみ」などと言っていますが(①)、これはこの勅許すなわち「勅宣」の仏法上の重大意義を隠すものです。

すなわち叡山の戒壇建立における勅許とは、国家が法華経を唯一の正法と認め、諸宗をことごとく叡山の末寺とするという〝国家意志の表明〟を意味しています。

なればこそ、戒壇建立の前提として、まず正邪決断が公場で行われたのです(延暦21年1月の公場対決)。

まさしく叡山の迹門戒壇の建立は、日本の諸宗を円定・円慧のみならず、戒においても法華経の円頓戒に統一するという、名実共の仏法の大革命だったのです。

かくて、「終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取って末寺と為す。日本の仏法唯一門なり、王法も二に非ず。法定まり、国清めり」(四信五品抄)は実現したのです。

かかる叡山の先例における「勅宣」の重大意義からすれば、大聖人仰せの「勅宣並びに御教書」が単なる「建築許可証」などでないことは明らかです。

また、大聖人は、伝教大師を例として、本門戒壇建立の容易ならざることを密示されています。

設(たと)い日蓮死生不定たりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か。伝教大師、御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定・慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕わす、事相たる故に一重の大難之れ有るか」(富木殿御返事)との仰せがそれです。

もし三大秘法抄の「勅宣並びに御教書」が「建築許可証」で済むのなら、「一重の大難」などのあるべき道理がありません。

まさに大聖人が本門戒壇建立の手続として定め給うた「勅宣並びに御教書」こそ、国家が宗教の正邪を認識決裁し、三大秘法を国家の根本の指導原理として護持擁護するという〝国家意志の表明〟そのものなのです。だから大難事なのです。

しかし、これなくしては国家・国土の成仏、仏国の実現はありません。

ゆえに必要不可欠の手続と定め給うたのです。

現憲法下での制約等について

阿部日顕は、今日では国法、制度、宗教的実状、国主の意味等がすべて変わっていること等を理由に、「勅宣・御教書」を単なる一時代における文書とし、「そうした文書は現代ではありえないし、必要ないのである」(「国立戒壇論の誤りについて」)などと言っていますが(②)、これは御本仏に敵対し奉る謗言というべきです。

たとえ国の機構・法制等は変わるとも、国家ある限り〝国家意志〟は必ず存在します時代を超えたこの本質を、大聖人は「勅宣・御教書」と仰せられたのです

このような癡論を弄するのも、詮ずるところ憲法を「主」、仏法を「従」とする顛倒より発しているのです。

それゆえに阿部日顕は、

今日、憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も「戒壇建立」などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放棄することになる

などというのです。

しかし、広宣流布以前に作られた憲法の枠内で戒壇建立が実現し得ないのは、ことわるまでもなく当然のことです。

だから大聖人は「時を待つべきのみ」と仰せられているのです。

広宣流布が達成されれば、当然憲法も改正されるでしょう。

これが「王法仏法に冥ずる」の、国法上の一事相でもあります。

そして〝かかる時が来るまでは本門戒壇を建ててはならぬ〟というのが御本仏の厳しきお戒めですから、違憲などのあるべきはずもないのです。

浅井先生は、次のように仰せられています。

およそ憲法は、国家・国民のためにあるのであって、憲法のために国家・国民があるのではない。ゆえにもし国家・国民が、安泰・至福をもたらす唯一の法が三大秘法であると認識すれば、三大秘法を基本原理として憲法を改正することは、当然のことである。このように、時代の進展にともなって憲法が改正されることは、国家社会の発展の法則でもある。ゆえに明治憲法においても、また現憲法においても、それぞれ『改正』の手続がきめられているのである

なお、確かに法律論的には、憲法改正には限界があると言われます。

たとえば明治憲法においては「国体」に関する規定は改正の対象とすることはできないと解されており、現憲法についても同様の趣旨の限界があると一応いわれます。

しかし、敗戦という革命的事態を迎えて、明治憲法が基本原理を超えて全面改正されたごとく、広宣流布という国家の宗教的大革命があれば、また基本原理を超えた改正がなし得るのは理の当然ですそしてこれを決定するものは、低次元の法律論などではなく、実に〝国民の総意〟なのです

ゆえに憲法学者も、次のように言っています。

改正の限界という問題は理論的には重要な問題であるが、実際に憲法を改正すべきかどうかが問題となる場合においては、それを決定するものは、改正の限界を超えるかどうかでなく、この憲法の内容に対する国民の判断であるといわなければならない(佐藤功「日本国憲法概説」)

「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」

本門戒壇建立の場所は、日本国の中には富士山、富士山の中には南麓の勝地・天生原と、日興上人以来歴代上人は伝承されています。

しかし、大石寺の境内に建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽るためには、どうしても「天生原」を否定しなければなりません。

そこで阿部日顕は次のように言います。

現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を紹継され、時に当たって仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徴するも大石寺であることを拝信すべきである

すべてを「法主」の権威でねじ曲げようとしているのです。

では、細井日達はどのように「天生原」(この中心点が天母山)を否定したかといえば、その要旨は、日興上人の文証である「大坊棟礼」を〝後世の偽作〟といい、また「天生原」説は〝要山日辰が云い出したことで本宗の教義ではない〟等というものです。

しかし、日寛上人の「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)を始めとして、歴代先師上人の御文はあまりに赫々明々で否定しきれません

そこで、細井日達は最後の一手として「天生原とは大石寺のある大石ヶ原のことである」とこじつけました。

すなわち天・生・原の一々の字義を諸橋大漢和辞典によって、「天」とは至高、「生」とは蘇生、「原」とは源、等と解釈したうえで、

天生原は無限の生命の源を表している。よって天生原とは最高独一の妙法の原、即ち本門戒壇の御本尊であります。・・・天生原こそここにありと信じてこそ、真実の我々の心である(大日蓮昭和45年9月号)

と支離滅裂なこじつけをしたのです。

だいたい「天生原」がどこにあるかを説明するのに、どうして諸橋大漢和辞典が出てこなければならないのでしょうか。

古来より大石寺の周辺一帯は「大石ヶ原」と呼ばれてきました。

この地名によって「大石寺」と名づけられたのです。

そして、この大石寺より東方4キロの小高い岡が「天母山」であり、その麓に広がる曠々たる勝地が「天生原」と呼ばれてきました

このように「大石原」と「天生原」は場所が異なるから、地名も異なったのです。

そして、日興上人以来歴代先師上人は、大石寺の御宝蔵に戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し給い、広布の暁、「天生原」に国立戒壇が建立されることを熱願されてきたのです。

ゆえに48世日量上人は、「『本門寺に掛け奉るべし』とは、事の広布の時、天生原に掛け奉るべし、・・・夫れまでは、富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と仰せられています。

また、明治45年に刊行された御宝蔵説法本には、「此の大石寺より東の方、富士山の麓に天母原と申して曠々たる勝地あり、茲(ここ)に本門戒壇建立ありて」と書かれています。

このように「天生原」は明らかに大石寺とは異なる場所にあります。

それを大漢和辞典の字義の解釈によって同一地にするとは、見えすいたたばかりです。

かかるたばかりにより、日興上人以来の伝承を否定することは、まさに重大な師敵対と言わざるを得ません。

「時を待つべきのみ」

この御文は、時至る以前に戒壇を建てることを堅く禁じ給うた制戒です。

一期弘法付嘱書と三大秘法抄に、同文を以て重ねて訓戒あそばされていることに、この御制戒の重大性を拝さなくてはなりません。

では、その「」とは何時を指すのかといえば・・・

一期弘法付嘱書には総括的に〝国主此の法を立てらるる時〟と定められ、三大秘法抄には具さに〝王仏冥合・王臣受持・勅宣御教書の申し下される時〟と定められています。

御本仏の定め給うこの重大な時を無視する者は、まさに仏勅に背く逆賊といわねばなりません

随自意で判断してよいか

阿部日顕が、この「時」をどのようにごまかしているかを見ます。

まず彼は、次のように言っています。

「時を待つべきのみ」の「時」をどのように考えたらよいのか。仏法の「時」というのは、本質的には、随自意で判断すべきものである。日蓮大聖人が今こそ三大秘法の大白法流布の時と判断されたのは、究極するところ、大聖人の御内証からの叫びであった(「国立戒壇論の誤りについて」)

これに対して浅井先生は、次のように破折されています。

反詰して云く、しからば大聖人は正像二千年に出現されて〝今こそ三大秘法流布の時〟と随自意に判断されたのか。「時鳥(ほととぎす)は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ、畜生すらなおかくのごとし」(撰時抄)と仰せられる大聖人が、どうして正像末の三時・五箇の五百歳等の客観的「時」を無視されようか。(中略)

大聖人が「後五百歳」「末法の初め」という、経文に定められた「時」を待って出現し給うたこと、明々白々ではないか。御本仏にしてなおこのように「時」を待ち給ういわんや末流の門下が、御本仏の定め給うた戒壇建立の「時」を無視し、「随自意」などと称して、勝手に「時」を判断する己義が、どうして許されようか

「一時点」ではなくもっとダイナミックなものか

また阿部日顕は、次のように言います。

仏法の「時」は、決して固定化した一時点を指すのではなく、もとダイナミックで、かつ大きいものである。したがって大聖人が「時を待つべきのみ」と仰せられたのも、一つには末法万年尽未来際の広宣流布を望んで壮大なビジョンの上から仰せられたものと拝する(「国立戒壇論の誤りについて」)

これに対して浅井先生は、次のように破折されています。

これは池田大作の「広宣流布は終着点のない流れ自体」という欺瞞を扶ける妄語にすぎない。

心を沈めて御聖文を拝せよ。王仏冥合・王臣受持の状況を背景に、「勅宣・御教書」が発せられるその「時」は、まさしく年・月・日・時刻までも記録されるべき「一時点」ではないか

他の御書で戒壇の内容を説明されていない理由

また阿部日顕は、次のように言います。

大聖人が「時を待つ可きのみ」と仰せられた御聖意を拝するに、予め社会次元での形式を論ずることは、かえって一定の制約をつくることになり、むしろ、時代に応じて、最も適切な方法をとるべきであるとの余地を残されてこのように仰せられたとも考えられる。大聖人が他の御書においても、一切戒壇の内容に触れられていないのも、こうしたご配慮があったればこそではなかろうか

しかし、阿部日顕は、大聖人が他の御書において本門戒壇の内容を一切説明されていないことについて、昭和37年頃には、次のような正論を述べていました。

この理由は、まず第一に、戒壇建立は国家の宗教的大革命であるから、国主帰依の後においても非常な大難があるべきこと、まして謗徒国中に充満の時、これが顕説は、慎重に慎重を加えられたものと思われます(大白蓮華昭和37年6月号)

この自語相違、会通のしようがありません。

広布以前に戒壇の建物を建ててよいか

また阿部日顕は、「現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる」として、昭和47年4月28日の訓諭を引き、その意を自ら釈して次のように言っています。

正本堂は現在直ちに一期弘法付嘱抄、三大秘法抄に仰せの戒壇ではないが、将来その条件が整ったとき、本門寺の戒壇となる建物で、それを今建てるのであると、日達上人が明鑑あそばされ、示されたのが此の度の訓諭であろう

つまり、正本堂は、一期弘法抄・三大秘法抄に定められた条件が未だ整わないうちに建ててしまったものと、自ら結論づけているのです。

御本仏が定め給うた条件の整わぬうちに戒壇を建てることは重大な仏勅違背、御遺命破壊と断じざるを得ません

では、大聖人はなにゆえ広宣流布以前の戒壇建立を厳戒し給うたのか。

浅井先生は、次のように仰せられています。

謹んで案ずるに、もし宗教の正邪未だ決せぬ時に建立するならば、一国において邪正肩を並べ、自ずと邪宗・謗法を容認することになり、仏国実現が不可能になるからである。

ゆえに立正安国論には立正の前提として破邪すなわち謗法禁断を国主に示され、また如説修行抄には「終に権教・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時」と仰せられ、また治病抄には「結句は勝負を決せざらんの外は、此の災難止み難かるべし」と仰せられるのである。

また大聖人の御振舞いを拝するに、鎌倉幕府を三たび諫暁ののちは鎌倉を去って身延に入山あそばされ、それよりは一歩も山を下り給うことがなかった。これ、諫暁を止めたのちになお鎌倉にとどまることは、邪正肩を並べ謗法を容認することに当るゆえである。

この大精神に基づき、日蓮正宗においては、一国において邪正が決せられぬ間は、大聖人の御当体たる戒壇の大御本尊は宝蔵にこれを秘し奉り、謗法と堅く境を隔てて厳護申し上げてきたのである。

最後に

以上、阿部日顕の凄まじいまでの三大秘法抄の御金言破壊を具さに見てきました。

今これを総括すれば・・・

「王法」を「あらゆる社会生活の原理」と歪曲し、

「王臣」を「民衆」と欺き、

「有徳王」を「池田先生」と諂曲し、

「勅宣・御教書」を「建築許可証」とたばかり、

「霊山浄土に似たらん最勝の地」を「大石寺境内」と偽り、

「時を待つべきのみ」を「前以て建ててよい」と欺誑し、

もって国立戒壇を否定して正本堂の誑惑を正当化さんとしたものです。

浅井先生は、

大聖人滅後七百年、三大秘法抄の御聖意をここまでふみにじった曲会は、宗内外に未だ見ざるところである。「外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず破るべし、師子身中の虫の師子を食む」(佐渡御書)の仰せが転た身にしみる。

正系門家の中に在って、御本仏の唯一の御遺命を破壊せんとした「師子身中の虫」とは、誰あろう宗務院教学部長・阿部信雄その人であった。

と痛烈に叱責されています。