「最後に申すべき事」(4)~「戒壇の大御本尊」に対し奉る誹謗を破す~

 あるべからざるこの大謗法がなぜ起きたのか。――その動機を一言でいえば、栄達の道が閉ざされたと思い込んだ阿部日顕の憤懣です。

 当時、細井管長は池田大作との不和に心身を労していました。このとき阿部日顕は教学部長の要職にありながら、池田に内通していました。これを知った細井管長は憤って阿部を疎外し、いわゆる反学会活動家僧侶(後の正信会)を多数身辺に集めて事に当らせました。このため宗務院は事実上機能停止に陥りました。この反学会活動家僧侶というのは細井管長の弟子を中心とした若手僧侶で、この中には「次期法主」と目されるような有力僧侶もいました。

 ここに出世の芽がなくなったと思い込んだ阿部日顕の憤懣が、細井管長への批判だけに止まらず、恐れ多くも戒壇の大御本尊への八つ当りとなって現われたのです。

 信心うすく名利の強い者は、我が身が不遇に陥れば反逆の心を懐きます。熱原の大法難のときの三位房、また幕末の久遠院日謄等はその先例です。

1、「偽物」と断じたのは阿部信雄その人

 阿部日顕(当時「信雄」)は、昭和53年2月7日、腹心の参謀・河辺慈篤と帝国ホテルで会い、その2日後に総本山で開かれることになっていた「時事懇談会」について情報交換をしました。

 この時事懇談会とは、総本山に反学会活動家僧侶が200名ほど結集し、学会と手を切るかどうかについて討議するという、容易ならざる集会でした。

 このとき阿部日顕は、反学会僧侶を偏重して宗務院を疎外している細井管長への憤りを吐露するとともに、あろうことか、戒壇の大御本尊に対し奉り八つ当たり的な大それた誹謗をしたのです。

 あまりのことに仰天した河辺は、阿部日顕の発言を記録しました。これがいわゆる「河辺メモ」(昭和53年2月7日付)です。

 メモにはこうあります。

 阿部日顕は恐れ多くも――

 御本仏日蓮大聖人の出世の御本懐、全人類成仏の大法、唯授一人血脈付嘱の法体、そして二祖上人が「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」と仰せられ、日寛上人が「就中 弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」と言い置かれた、最極無上・尊無過上の戒壇の大御本尊を、あろうことか「偽物」と断じたのです。

阿部日顕の虚偽に塗れた言いわけ

 この「河辺メモ」が流出したのは、21年後の平成11年7月7日でした。

 2人だけの密談であれば、よもや外部に洩れることはないと思って語ったことが、白日に晒されたのです。驚愕狼狽した阿部日顕は、2日後の7月9日、宗務院から通達を発せしめました。

 この院達は、事実を全面否定する内容かと思いきや、そうではありませんでした。阿部日顕は「河辺メモ」の存在と面談の事実を認めたのです

 ただ発言内容についてだけ、「当時は外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難もあり、それらの疑難について、教学部長として河辺師に説明したもの」として訂正せしめました。

 しかし、「河辺メモ」に記された荒唐無稽の理由を挙げて戒壇の大御本尊を疑難した者は、700年来「外部」には一人もいません。

 そこで阿部日顕は翌7月10日、あわてて次の院達を出します。この院達には、河辺に書かせた「お詫びと訂正」なる一文が載せられていました。いわく、

 「宗内においても(中略)妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは、明らかに私の記録ミスであります。このような私の不注意による事実とは異なる不適切な内容のメモが外部に流出致し、本門戒壇の大御本尊の御威光を傷つけ奉り、更には御法主上人猊下の御宸襟を悩ませ……」等と。

 先の院達の「外部からの疑難」が、ここでは「宗内においても生じる可能性のある疑難」と言い換えられています。

 しかし宗内においても、阿部日顕が挙げた荒唐無稽のヨタ話で戒壇の大御本尊を誹謗した者は一人もなく、またその「可能性」があったわけでもありません。

 まさしく大御本尊を偽物呼ばわりしたのは、外部の者でも、宗内の者でもなく、またその可能性があったわけでもありません。メモに克明に記されたとおり、ただ一人、阿部日顕こそが、この大それた悪言を吐いたのです。

 ゆえに河辺が〝書かされた〟「お詫びと証言」にも、明らかに矛盾が表われています。

 「強烈に記憶に残った」ことを記録するのであれば、たとえ話の前後を省略しようとも、「偽物と断じた」のは誰かという「主語」を間違えるはずがありません。メモの記載は明らかに、「A(阿部)」の発言として記録されているのです。

 ですから、「あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいました」とは、実は「記録ミス」ではなく、その通りだったのです。

 まして「河辺メモ」には、「種々方法の筆跡鑑定の結果解(わか)った」との記載があります。〝宗内で将来生ずるかもしれないことを想定しての破折〟なら、この一語は平仄が合いません。いったい誰が「種々方法の筆跡鑑定」を行い、その「結果」として「偽物」と「解(わか)った」などと発言するでしょうか。河辺に対して語った張本人たる「阿部日顕」以外にはいないのです。

対面の機会あらば…

 浅井先生は、大謗法の悪言を吐き一分の改悔なき阿部日顕を、次のごとく呵責されています。

 ここで少しく二月七日付の「河辺メモ」に触れよう。この「メモ」によれば、汝は「日禅授与の本尊云々」「模写の形跡云々」等と述べている。

 この大それたたばかりを見たとき、小生は、かの善無畏が「法華経と大日経とは、天竺にては一経」といって一行をたばかった故事が胸に浮んだ。汝は河辺の無智につけ込み、己が博識を自慢げに、「日禅授与の本尊」を引き合いに出して河辺をたばかったのであろう。

 弘安三年五月九日の「比丘日禅」授与の御本尊については、小生は法道院において十余回にわたって眼のあたりに拝観している。そして当時の早瀬道応主管より、この御本尊が北山から流出した状況、同日付の御本尊が北山に現存する理由、また応師が明治四十一年にこれを買い取り法道会に奉蔵されたときの状況等、再三にわたり克明にこれを聞いている。

 これを以て判ずるに、汝の「模写の形跡云々」の思わせぶりのたばかりなど、裏の裏まで見透せる。

 但し、ここにはこれ以上は言わぬ。もし対面の機会あらば、必ずや一刀両断して、大御本尊の御宝前に五体投地の懺悔をさせること、小生の不変の決意である。

2、「Gは話にならない」

 河辺メモにおける「Gは話にならない」の発言について、阿部日顕は返書において、「日達上人に対する不遜の言も、間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」と見えすいた嘘をついています。

 しかし前述のとおり、メモに記された数か条のうち、冒頭の一条については阿部日顕自身が自らの発言を記録したものであることを認めているのですから、その他の発言についてのみ「活動家僧侶(後の正信会)の発言」と偽るのは明らかに無理があります。メモの記載は明らかに、いずれも面談相手たる「A(阿部)」の発言として記載されているからです。

 何より、当時の宗門と学会の関係、学会と阿部教学部長の関係、細井管長と活動家僧侶との関係等を知れば、この嘘は即座に崩れます。

当時の宗門状況

 そもそも、細井管長と池田大作の癒着に亀裂が入ったのは、顕正会の必死の諫暁によります。

 正本堂落成の翌昭和48年10月14日、池田は正本堂から退出する細井管長を待ち受け、大勢の学会員の前で面罵した上、学会に10億円の寄附をするよう要求しました。池田はこの面罵について、後日、側近の原島嵩にこう語っています。

 「あのときなぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島嵩「池田大作先生への手紙」)と。

 これで、両者の亀裂は決定的となりました。

 細井管長も反撃します。翌49年7月27日の「宗門の現況と指導会」では、「おととしの秋ぐらいから、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また教義的にも逸脱していることが多々ある」

 「また、会計を、大石寺の会計を調べるという。……その時に北条さんが云うには、もし調べさせなければ手をわかつ、おさらばする、とはっきり云ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ、自分ら正宗から手を切ると云うのである」

 さらに

 「これはもう、このままじゃ話にもならない。もしどこまでも学会が来なければ――それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、正本堂はその時の、日蓮正宗を少なくとも信心する人の集まりによって、その供養によって出来た建物であるから、もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してよいという、覚悟を私は決めたわけです」と。

 なんと醜い仲間割れでしょうか。「こっちの生活が立たない」とならば「御本尊は御宝蔵へおしまい」すると。訓諭の「後代の誠証」とは、この程度のものだったのです。

 そして、いわゆる「五十二年路線」を迎えます。

 昭和52年の元旦、池田は宗門を痛烈に批判した上で、「大聖人の御遺命の戒壇建立は創価学会がした。私がしたんです」「もはや御本尊は全部同じです。どの御本尊も同じです」と、暗に戒壇の大御本尊を否定蔑如するような発言をしました。

 そして同年1月2日には、学会批判の論文を書いた菅野憲道が学会本部に呼びつけられ、吊し上げられるという事件が起きます。しかし同行した阿部日顕は、ただ学会の側に立って菅野をたしなめるだけでした。この菅野憲道への恫喝は、細井管長への威しでもあります。細井管長は憤激しました。

 このとき学会は、阿部日顕の「次期法主」への野心を知り、それを利用して宗門対策を進めようとしていました。同年8月4日、学会は副会長会議を開いて宗門の動きに対する戦略を討議していますが、その記録によれば、「阿部教学部長が次(次期「法主」)を狙っているので、相対して(連携して)やっていく」「作戦は密を要す」(副会長会議記録)等と語られています。

 一方、阿部日顕も池田に追従します。この1ヶ月後の9月2日、宗務役僧と学会首脳が学寮で会談した際、阿部日顕は池田大作に対し、「創価学会は末法にあって、今後も出ない団体だと思います」(学寮記録文書)と諂った上で、僧侶の練成についての伺いを立てています。このとき池田が自身の教学について、「阿部教学部長はどう思われますか。間違っていますか」と質されると、阿部日顕は「社会に開いた先生の教学はよくわかります。完璧であると思います」と答えています。細井管長が「学会は教義的に逸脱している」(前掲)と言っているのに、阿部日顕は「完璧である」と追従していたのです。

 そして、学会は同年11月14日、「僧俗一致の原則(五ヶ条)」「僧俗一致のために(七ヶ条)」「反学会僧侶十一名の処分要求書」を宗務院に提出してきました。これらの案文は学会に都合のいいように作られていました。これを見た細井管長は憤り、同月28日に活動家僧侶有志を集めてこう述べました。

 「(五ヶ条は)粉砕じゃない。これはもう(学会と)手を切んなきゃだめだと思う」「若い者が結束して、わしを突き上げてくれ。とにかく若い者は結束しなきゃだめだ。バラバラじゃだめなんだ」

 ここに細井管長は、学会と手を切ることを決意し、それを明言したのです。

 明けて昭和53年1月19日、活動家僧侶147名が本山に結集しました。そのときの質疑において細井管長は、「(学会を)堂々と大いに破折せよ。……必ずしっぺ返しが来る。より以上のケンカ、その時こそ腹を決めなけりゃいかんと、私は考えている。だから諸君もそのつもりで、いざ今度何かあれば、手を切らなきゃならん頭でいてもらいたい。檀徒名簿も作っておきなさい」と述べています。

 一方、池田は翌2月5日の「宗学友人会」(学会べったりの僧侶が宗門情報を池田の耳に入れる秘密機関)で次のように語っています。

 「人が変わればまた変わると思う。新しい人が台頭していただいて、先は明かるいと思う。一番心配しているのは、阿部さんではないか」と。

 池田は細井管長の退座と阿部教学部長への期待をにじませています。しかし当時の阿部教学部長の立場は、学会への内通が細井管長の不興を買って閉塞状態にあり、次期法主の芽は消えていました。

 このような状況下で、細井管長は、学会と手を切るかどうかの討議を反学会活動家僧侶にさせるべく、「時事懇談会」を2月9日と決定したのです。

 阿部日顕が帝国ホテルで河辺と密談をしたのは、実にこの時事懇談会の2日前でした。かくて阿部日顕は河辺に対し、「Gは話にならない。人材登用、秩序回復等、全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。Gは学会と手を切っても、又二・三年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている」と、細井管長への憤懣をぶちまけたのです。

 そして、この時事懇談会の翌日には、阿部は学会本部近くの料亭「光亭」で池田と会い、細井管長と活動家僧侶の動向を報告しています(山崎裁判における池田大作証言、昭和58・10・31)

 このような当時の状況を見れば、「Gは話にならない」が阿部日顕の発言であることは一点の疑いもありません。

「メモ」により正体露見

 しかるに阿部日顕が返書において、この「Gは話にならない」につき「間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」などと見えすいた嘘をつくのは、もう一つの重大問題を隠すためです。

 それは――「相承疑惑」です。

 細井管長は昭和54年7月22日、貫首の最大の責務たる御相承をすることも叶わず、急死しました。この現証こそ御遺命に違背した罰なのですが、このとき阿部日顕は通夜の席において、「昨年(昭和53年)4月15日、総本山大奥において、猊下と自分と2人きりの場において、すでに内々に相承を受けていた」(取意)と自己申告して、猊座に登りました。

 ところが、この「昨年(昭和53年)4月15日」とは、「Gは話にならない」発言の、わずか2か月後のことなのです。このような相互不信の関係において、大事の御相承のあり得るはずがありません。ゆえに、もし「Gは…」が当時の阿部日顕の発言となれば、「4月15日相承」の欺瞞が発覚してしまう――。これが、阿部日顕が同発言を「活動家僧侶の発言」とせざるを得ない最大の理由なのです。

 しかしながら、嘘というものはどうしても露見します。

 相承があったという「4月15日」の2ヶ月後の6月29日、総本山大講堂で全国教師指導会が開かれました。席上、細井管長は活動家僧侶に対し、学会員を折伏して末寺の檀徒とする、いわゆる「檀徒運動」を公然と支持・奨励しました。ところがこの集会終了後、阿部日顕は直ちにこれを学会に通報。これを知った細井管長は憤り、内事部において大勢の僧侶を前にして、「こちらから通報するなんて、阿部はとんでもない。学会べったりでどうしようもない奴だ」(時事懇談会記録)と声を荒げたのです。

 もしこの2ヶ月前に阿部日顕への相承が済んでいたのなら、阿部が学会に密告することもあり得ず、細井管長が次期法主のことを、大勢の僧侶たちの前で「学会べったりでどうしようもない奴」と罵るはずもありません。

 この6月29日における阿部及び細井の言動も、その2ヶ月前の「4月15日」に相承授受が行われていなかったことを雄弁に物語っています。

 かくして、河辺メモにより露見した2月7日の「Gは話にならない」の発言と、阿部・細井の6月29日の言動により、その中間に当る「4月15日」に相承を受けたという阿部日顕の自己申告が「嘘」であることが白日に晒されたのです。

 浅井先生は阿部日顕を次のように喝破されています。

 ここに「河辺メモ」は、汝が戒壇の大御本尊を「偽物」と断じたことと、詐称法主であることを、克明に立証したのである。

 仏法の眼を以てこれを見れば、この一枚のメモ流出こそ、まさしく諸天が河辺にこれをなさしめ、尊げなる姿を装った「阿部日顕」の醜悪なる正体を、白日の下に晒したものである。