浅井先生の三回忌法要が厳修されました

 冨士大石寺顕正会の初代会長・浅井昭衞先生の三回忌法要が、10月16日、浅井城衞会長のもと、本部会館と全国の地方会館で厳粛に奉修されました。

 この日、班長以上の全幹部がご報恩の思いを胸に馳せ参じ、厳かな勤行と焼香が行われました。

 最後、浅井会長から頂いたご指導はたいへん有難く、浅井先生の仏法上の重大なお立場とそのお徳をつぶさにお聞きしては、先生に師事し得た宿縁に震える大感動がこみ上げ、御遺命成就への誓いを新たにさせて頂きました。

先生の御逝去より二年を顧みて

 席上、浅井会長は、先生ご逝去からの2年間を振り返られ、万感の思いを述べられました。

 言葉に尽くせぬ悲嘆と哀惜に包まれる中、先生の御金言どおりの素晴らしい成仏の妙相に、「先生はご自身の成仏の妙相を以て、御本尊様は絶対なること、そして先生がお遺し下さった数多のご指導は大聖人様の御意に寸分違わぬものであり、先生が指さされるままに前進していけば広宣流布は必ず成ることを、我ら弟子一同にお教え下さった」と拝されたこと。

 それより2年、かかる先生の成仏の妙相を確信の源とし、日々御霊前に額づいては「先生ならばいかなる戦いを起こされるか」を拝察し、指揮を執ってこられたこと。

 その中、全顕正会一丸となり、「あと5年以内に成すべし」との先生のご筆記を胸に刻み、2028年、令和10年までに三百万を成さんとの先生のご決意を各々が我が誓願とし、脇目も振らずに戦ってきたこと。

 かくして、先生ご逝去から実に23万を超す死身弘法が展開され、一分でも先生へのご報恩に擬しまいせることが叶ったこと等。

 会長は、「厳然たる諸天の働きを目の当たりにしながら、非力の凡夫にはとうてい為し得ぬ前進が叶った不思議を噛みしめるばかりである」として、「但日蓮を杖・柱ともたのみ給うべし。けはしき山、あしき道、杖をつきぬればたおれず。殊に手をひかれぬればまろぶ事なし」との御金言は、単なる譬喩や形容ではなく、「少しも偽りなき事実」であり、「霊山にまします先生が、我ら弟子の手をグイグイと引いて下さっておられることを如実に感じては、感涙に咽ぶこと頻りであった」と述懐されましたが、常に先生のお心を見つめ、道なき道を切り開いてこられた会長の孤高の戦いにひれ伏す思いとなりました。

 ましてこの10月、先生のご自宅のお庭に植わる山桜がいくつも開花した不思議、その現象に大聖人様そして浅井先生の「お頷き」を拝し奉られる会長の師弟相対のお心には胸を打たれ、「一分でも成長を刻んだ顕正会の姿を霊山にまします先生にごらん頂くことが叶い、感無量である」との仰せに熱きものがこみ上げました。

恋慕渇仰の信心口唱の大事

 また、たいへん有難かったことは、会長が参列した全幹部に「本紫檀」でできた「記念の数珠」を贈呈して下さったことでした。

 会長は、「先生のご逝去という深い深い悲しみを乗り越え、そのご遺志を継いで戦ってきた皆さんの真心を、先生は霊山からごらんになり莞爾と笑みを湛え、『よくがんばってくれました。いよいよ『強盛の御志』に立っていきなさい』と、その労をねぎらい激励下さるに違いない」として、「どうかこの記念の数珠を、先生から頂戴したものと心して、広宣流布の暁まで、そして臨終の夕べまで『月々日々につより給へ』の決意で御奉公に励んでほしい」、「この記念の数珠を手に、苦楽ともに思い合わせて、先生がお教え下さった成仏の直道たる恋慕渇仰の信心口唱に励み、一生成仏と広宣流布に向けて御奉公を貫いてまいろうではないか」と仰せ下さいましたが、浅井先生の弟子を思われるお心をわが心とし、広宣流布のみならず、私たち一人ひとりの成仏までも願って下さる会長のご慈愛に泣き伏しました。

 まして今般、この記念の数珠に寄せて、浅井先生が常にお教え下さった「恋慕渇仰の信心口唱」の大事、その有難さを懇切に指導頂いてはなおさらであり、日寛上人の「御相承に基づく重大御法門」「三大秘法の極理、肝要の中の肝要の御法門」を惜しみなく教え頂けるとは、何という大果報か。

 しかも「最大深秘の大法」ゆえの深さとは対照的に、その信行は至ってシンプルであり、あたかも何も知らない赤子が母乳を飲めばその完全栄養ゆえにすくすくと育つように、ただ恋慕渇仰の信心口唱で仏に成らせて頂けるとは、なんと凄いことか。

 そこに、かつて浅井先生が指導下さった「私は、勤行がいちばん楽しい。勤行のときは、もう難しい御法門のこともすべて忘れる。そして赤ん坊が母親の乳房にすがって無心におっぱいを飲むように、ただ有難い、ただお慕わしいの思いだけで、南無妙法蓮華経を唱え奉る。大聖人様は御義口伝に『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』と仰せ下されている」とのご指導が胸に染み入り、有難さでいっぱいになりました。

浅井先生の仏法上の重大なお立場を拝す

 このたび会長は、先生の三回忌法要にあたり、「顕正会発足より六十六年、大聖人様に一筋の忠誠を貫き通された先生の、仏法上の重大なお立場とそのお徳を改めて拝し、以てそのご報恩とさせて頂きたい」として重大指導を下さいましたが、まさに先生の最もお傍でお仕えされた会長にしか拝し得ぬ重大事と、大感動に全身が包まれました。

日寛上人の御指南で御書の極理を拝される

 かつて浅井先生は、御遺命守護の戦いについて、池田大作・細井日達・阿部日顕らの大誑惑をすべて打ち摧くことができたのも、「ひとえに日寛上人の御指南あればこそである。もし日寛上人の御指南なくば、どうして御遺命守護の御奉公ができたであろうか」と述懐されました。

 そこにこのたび会長は、先生がお若きころから日寛上人の御指南をいかにして学んでこられたのかを教えて下さいました。

 時は終戦直後、当時十代であられた先生は、初代講頭先生が掘った防空壕の中で、日寛上人の御筆記をはじめて手にされたのでした。

 それより先生は、日寛上人の御指南に基づいて御書を拝することを重ねていくうちに、「掌中の菓の如く了々分明ならん」とのごとく、大聖人様の御書四百余篇の御意、その極理がわかってきたと仰っておられたと。凡夫の誰人にこのようなことができるでしょうか。

 会長は、日寛上人の只人ならざる宿縁に準え、「僭越を承知のうえで言わせて頂けば、私は先生のお姿を間近で拝見して、先生の宿縁も、久遠元初以来、大聖人様に仕え奉ったお方であると思っている」と仰せられました。

 事実、日寛上人の御著述は、江戸時代の当時のために著されたものではなく、「以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏えに広宣流布の為なり」とて、将来の広宣流布の時のために留め置かれたもの。かかる日寛上人の御指南を十代の頃から学ばれ、その御指南を以て、広布前夜の御遺命破壊の大悪を打ち摧かれた先生とは、一体いかなるお方なのでしょうか。まさに日寛上人仰せの「後代の君子」にして「久遠元初以来」の大宿縁のお方と拝するほかはありません。

 さらに会長は、先生と中島円妙院日彰上人との縁について教えて下さいました。

 日彰上人は、終戦前夜における宗門の異常事態のときに管長代務者(貫首のお代理)をお務めになった御方で、教学に造詣が深く、ことに宗門の化儀に関しては権威と言われていた大学匠です。

 その日彰上人の六巻抄の講義に、当時20歳だった先生が参加され、あまりの難解さゆえ他の受講者が脱落していく中で、ついには日彰上人と先生の一対一の講義となり、そのご縁で終講後も定期的に御法門の教示を頂いたのでした。

 その際、先生は、明治以降の宗門の歴史、ことに歴代上人のお振舞いなど「三人四人座を並べては話せないようなこと」や、第58世・日柱上人が隠居しておられた青山教会に通っていた橋場兵吉という老人から「自分は日柱上人の意を体して大事なことを書き留めてある。あなたは若いけれど、たいへん熱心だから・・・」と手渡された、日柱上人から日亨上人への御相承に関する文書をきっかけとして「御相承をめぐる重大事」まで、つぶさにお聞きになったのでした。

 この不思議な縁について会長は、単なる偶然では決してなく、「先生が重大な御奉公にお立ちになるに当っての、大聖人様の甚深の思し召しにほかならない」と仰せです。

解散処分によって「遥拝勤行」を確立

 次いで会長は、「謹んで思うに、御遺命守護のゆえに蒙った死罪に等しき解散処分が、仏法上、そして順縁広布の進展のうえで、いかに只事ならざる重大意義を持つものであったのか、いま千鈞の重みを感ずるばかりである」として、この理不尽なる解散処分こそ「御仏意」であり、「大聖人様は〝それならば、御遺命違背の貫首の本尊を拝む必要はない。戒壇の大御本尊を直接拝みまいらせよ――〟と遥拝勤行をお教え下さった」との先生の仰せを引いて、重々の指導を下さいました。

 無二の師匠・浅井先生のもとで、大聖人様が「一閻浮提総与」(全人類に総じて授与)あそばされた戒壇の大御本尊を「我も総与の中の一人」として直接拝みまいらせる遥拝勤行こそ、広布最終段階の信行、広宣流布の大道であり、この恋慕渇仰の遥拝勤行が国中に満ちて国立戒壇を熱願するとき、いよいよ戒壇の大御本尊が国立戒壇にお出ましになること。

 この遥拝勤行こそ、身命を賭して御遺命を守り抜かれた先生の「国立戒壇建立への『唯願説之』」に御感あそばされた大聖人様が先生に授け給うたものであり、まさに先生の「忠誠の証」であること。

 この遥拝勤行が大聖人様の御心に適い奉るを示す何よりの証拠こそ「解散処分以降、劇的に加速した折伏弘通」であり、これこそ「先生の大忠誠の賜物」、「先生の弟子として実践する遥拝勤行に大功徳ある証拠」であり、「やがて遥拝勤行が一国に満ち満ちて広宣流布が必ずなる確証」であること。

 これらの重大事を指導頂いては、いま浅井先生の弟子として、大聖人様に唯一通ずる「遥拝勤行」に励み、日々に大功徳を頂ける大歓喜でいっぱいになりました。

「国立戒壇」の本義を顕わさる

 次いで会長は、「正本堂の誑惑の根」である阿部日顕の二冊の悪書を破折される中に、かえって国立戒壇の本義を顕わされた先生のご事績を指導下さいました。

 池田大作の指示のもと、学会の教学部首脳と弁護士・検事グループが邪智を出し合い、それを阿部日顕がまとめ、「日蓮正宗宗務院・教学部長」の名を以て三大秘法抄の御聖意をズタズタに破壊した二冊の悪書こそ、まさに第六天の魔王その身に入りし学会・宗門が総力を挙げてつくった誑惑の結晶であり、並みの凡夫なら破折どころか幻惑され、阿鼻獄に引きずられてしまいます。

 この悪書粉砕にあたり先生は、平成2年の元旦から4か月間一室にこもり、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する諫暁書を書き上げられました。

 この諫暁書がいかに凄まじいものであったかを、会長はかく指導下さいました。

 「国立戒壇を否定して正本堂を御遺命の戒壇とする阿部日顕の巧みなたばかりに対し、先生はありとあらゆる御金言を縦横無尽に引かれてそれを文証とし、また政治学・憲法学まで駆使して、完膚なきまでに一刀両断され、返す刀で大聖人様の甚深の御聖意、御本仏の究極の大願たる御遺命の国立戒壇の本義を豁然と顕わされた。その太刀捌きは、大聖人の下種仏法の奥底を究め尽くされた浅井先生にしか、絶対になし得ぬものである

 「まさしく平成二年の諫暁書こそ、御本仏の御遺命破壊という未曾有の大悪にトドメを刺されると同時に、国立戒壇建立への大展望を開かれた先生の大忠誠の結晶、広布の歴史に永遠に輝く比類なき大著である」と。

 いかがでしょうか。あまりの凄さに大感動を禁じ得ません。

 ましてこのたび会長より、浅井先生が執務室の書庫に蔵しておられた阿部日顕の悪書「国立戒壇論の誤りについて」に記されたご筆記のことをお伺いした大感動は言葉に尽くせません。

 先生は、巻末の白紙のページに「為所破持此也(所破の為に此れを持すなり)浅井昭衞」と雄渾なご筆致で認められ、いたるページの余白には、赤と黒の鉛筆で阿部日顕のたばかりに対する破折が所狭しと書き込まれていました。

 そして悪書末尾に阿部日顕が記した〝一刻も早く国立戒壇への執見を捨てて、輝かしい正本堂建立に向って邁進することが肝要である〟との結語に対し先生は、正本堂崩壊の大現証を以て、「この正本堂、後に崩壊す。この現証を以て一切を判ずべし」と記されていたのです。

 あたかも立正安国論「奥書」の「此の書は徴有る文なり」のごとき先生のご筆記は大衝撃で、会長の「正本堂崩壊という凡慮を絶する大現証を伴ったこの諫暁書の重みがズッシリと身に迫り、大瀑布に打たれるごとくの衝撃をおぼえた」、「これら先生のご筆記から、御本仏一期の御遺命を破壊せんとした天魔その身に入る阿部日顕の悪辣・巧妙な邪義を、一念に億劫の辛労を尽くして徹底粉砕された先生の凄まじいご気魄、護法のご一念が痛いほど伝わり、大地にめり込む思いになった」との仰せに、ただひれ伏す思いとなりました。

偽戒壇・正本堂を崩壊に至らしむ

 次いで会長は、平成2年7月に横浜アリーナ大総会で「本門寺改称」の陰謀粉砕を叫ばれた先生の師子吼を示されました。

 「その時、顕正会はいかにすべきか。立正安国論に云く『もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし』と。

 私は思う。その時、全顕正会員は、こぞって大石寺に総登山すべきであると。・・・二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に拝せ参じ、大石寺の境内を埋め尽くし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか。

 私はその先頭に立つ。顕正会は、あの不当なる解散処分を受けた時も、抗議行動などはしたことがない。我が身のために動いたことは一度もない。しかし、御遺命の滅・不滅のためならば、断固として抗議行動を起こす。顕正会の命がここで尽きても、いささかの悔いもない。必ずや大聖人様のおほめを頂ける」と。

 なんと凄まじいご気魄でしょうか。

 この先生の捨身の師子吼に怖畏を感じた阿部日顕は、池田大作を裏切り「本門寺改称」を断念。これに怒り心頭に発した池田と阿部の「修羅と悪竜の合戦」のごとき大抗争の末、ついに平成10年、阿部は池田が誇りとしていた正本堂を取り壊してしまったのでした。

 会長は、「まさしく大聖人様は、この大悪を断じて許し給わず、ゆえに浅井先生をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を自界叛逆せしめ、ついに偽戒壇・正本堂を打ち砕き給うたのである」と。

 そして、この大現証をごらんになり、紅の涙を流された浅井先生は、かくご心情を吐露されました。

 「大御本尊様が偽りの正本堂に押し込められ奉ってより二十六年、大聖人様の御悲しみ・御憤りを拝し奉れば、心安き日は一日としてなかった。〝今日も大御本尊様はあの誑惑・不浄の正本堂にまします〟と思えば、心の晴れる日はなかった」と。

 常に大聖人様を見つめ、大御本尊の御事を一日も忘れ奉らず、26年に及ぶ御遺命守護を貫き通された先生の大忠誠心に、ただひれ伏すばかりです。

「広告文」で大聖人の大恩徳を顕わさる

 次いで会長は、正本堂崩壊の後、「御遺命を守り奉った者こそ、御遺命成就に身を捨てて御奉公しなければならない」と、二度の一国諫暁と広告文を以て日蓮大聖人の大恩徳を一国に顕わされた先生のご事績を指導下さいました。

 一国諫暁について先生は、いよいよ亡国の大難が起こる時、「日本国一時に信ずる事あるべし」の御金言を仰ぐべく、前もってその根本原因を告げ知らしめるものと仰せられ、「たとえ国中が悪口を言い嘲笑しようとも、『もし言ったとおりになったら、そのときどうする』この確信で、私は行く」、「もしこの戦いを見て、諸天が見て見ぬふりをするならば、諸天は必ず大聖人様から罰を受けると私は確信している」と叫ばれましたが、これこそ大聖人があそばす順縁広布の御化導そのものと強く確信されるゆえの仰せと伏して拝しては命が震え、その後日本に現れた観測史上最大の東日本大震災をはじめとする数々の大災難をみれば、「先生の一国諫暁に対し、たとえ悪口は言えても、否定できる者は一人としていない」との会長の仰せが千鈞の重みで身に迫ります。

 さらに先生は、日蓮大聖人の大恩徳を一枚の「広告文」に顕わされ、その絶大威徳と大慈大悲を全日本人に告げ知らしめられました。

 今や発行部数は1億部を優に突破しており、「このような期を画する大規模な開目の大運動は御在世以来で、先生にしかなし得ぬもの」と伺っては大感動であり、まして今般会長より、「この広告文こそ、お若き頃から御書を心肝に染め、日寛上人の御指南を通して極理を師伝せられた先生が『日蓮大聖人とはいかなる御方か』との全人類の問いに対し、その絶大威徳と大慈大悲を、誰にもわかる平易な言葉で知らしめるために顕わされた究極の折伏の要諦である」とお聞きしては、一枚の広告文の計り知れない重みに身震いしました。

 まさに「日蓮大聖人は、三大秘法という根源の仏法を以て、末法の全人類を現当二世(現世と来世)にわたってお救い下さる、唯一人の御本仏であられる」から始まるこの広告文こそ、「日蓮大聖人とはいかなる御方か」との「全人類の問い」に対する浅井先生の「答え」であり、この広告文なくしてかくも広く深く大聖人の大恩徳が一国に浸透し得なかったことを思うとき、「これこそ順縁広布をあそばす大聖人様が、遣使還告の浅井先生をして顕わさしめ給うたもの」との会長の仰せが強く胸に迫りました。

先生の激闘こそ大聖人の御化導そのもの

 これら先生のお振舞いを拝されたうえで会長は、かかる一筋の忠誠を貫かれた浅井先生の激闘における大事を、次のようにお示し下さいました。

第六天の魔王が広布前夜の正系門家に打ち下り、御本仏一期の御遺命を破壊せんとしたとき、日寛上人の御指南を本に唯お一人、身を捨てて諫暁に立たれ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊に至らしめたこと

死罪に等しい解散処分を以て、かえって広布最終段階の信行にして「忠誠の証」たる「遥拝勤行」を確立されたこと

御遺命破壊という未曾有の大悪を以て、かえって御遺命の「国立戒壇」の本義を瞭然と輝かされたこと

二度にわたる一国諫暁をはじめ、誰人も否定できぬ三つの現証を示された「広告文」を以て、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大御聖意を日本国に広く顕わされたこと

あらゆる弾圧を乗り越え、大聖人様の御心に異体同心する三百万にならんとする地涌の菩薩の大集団を出現せしめられたこと等。

 いかがでしょうか。星霜六十六年の大河のごとき先生の激闘を、かくも端的に要言し得るお方は、浅井会長以外には絶対におられません。

 そしてこの5つの大事こそ、広布前夜に一度だけ起こる御遺命破壊の大悪を破し、御遺命の「国立戒壇」とはいかなるものかを示され、全日本人に日蓮大聖人の大恩徳を知らせる中、「日本国一時に信ずる」広布最終段階の信行たる「遥拝勤行」を確立され、戒壇建立の「願主」たる仏弟子の大集団・顕正会を出現せしめられたものであれば、まさに順縁広布に必要な準備をすべて整えられたものと伏して拝するものです。

 このような大偉業を、いったい誰人ができるでしょうか。

 そこに浅井会長は、かく叫ばれました。

まさしく六十六年にわたる先生の激闘こそ、順縁広布をあそばす御本仏・日蓮大聖人の御化導そのもの。そして、それをなされた先生こそ、久遠元初以来、大聖人様に随伴してこられた大宿縁のお方と、伏して拝するものである。

 天魔に誑かされた濁乱の正系門家にあって、・・・一切の濁りに染まらず、富士大石寺の源流、峻厳極まる御在世の信心を広布前夜に蘇らせることは、前生所持のお方でなくしては決してなし得ぬものである」と。

 かかる先生の仏法上の重大なお立場をお聞きしては、大瀑布に打たれるような感動に全身が包まれました。

 その先生が確立して下さった広布最終段階の「自行」と「化他」の信行こそ「遥拝勤行」と「広告文」であり、これにより「先生の国立戒壇建立への『唯願説之』の熱誠」が一国に漲るとき広宣流布は必ず成ること、そして「私たちはなんと偉大な師匠の弟子として、広布最終段階の重大御奉公が叶う身となれたのか、その宿縁を思えば、有難さに咽ぶのほかはない」との会長の心底からの大歓喜を伺っては、広宣流布は大聖人様のお力、そして「遣使還告」たる先生の「唯願説之」の熱誠によって必ず成るのだと、勇躍歓喜を抑えきれません。

先生のご願業必ずや果さん

 最後に会長は、かかる先生の激闘の重みを知る弟子として、「そのご遺志を継ぎ、師匠のご念願を事実にすることが甚重の師恩に報いる術」として、いま為しつつある学会員を救う戦いや宗門諫暁も、そしていよいよお立ちになる第三度の一国諫暁も、「すべてはそのご報恩の思いによるもの」であり、ただ願うは、ついに御遺命が成就するの時、先生のご遺影を胸に、苦楽をともに戦い切った顕正会の幹部一同、「ここに先生のご願業のすべてを果させて頂きました」とご報告申し上げることであり、「それ以外に私が望むものはない」とご心情を吐露されましたが、いささかの私心なき会長の崇高なお心に熱きものが込み上げ、御遺命成就のその日まで御供させて頂きたいとの熱鉄の決意が衝き上げました。

 私も意義重大な三回忌法要に参列が叶った有難さを胸に、記念の数珠を手に恋慕渇仰の信心口唱に励み、「いよいよ全顕正会は打って一丸、先生が命を焦がして熱願された国立戒壇建立へ驀進し、以て、浅井先生にお頷きを頂く美事なる御奉公を貫いてまいろうではないか」と叫ばれる会長の下、今一重の御奉公に勇み立っていきたいと思います。