浅井昭衞先生の一周忌法要が厳修されました

 去る10月16日、冨士大石寺顕正会の初代会長・浅井昭衞先生の一周忌法要が厳粛に奉修されました。

 私たち顕正会員にとって無二の師匠・浅井先生が御逝去されてよりはや1年。全顕正会員は、かつてない悲嘆と哀惜に打ちひしがれるも、先生の美事な成仏の妙相に涙し、底知れぬ悲しみのなか一人決然と立ち上がられた浅井会長のもと一結、先生への御報恩の思いを胸に無我夢中で戦ってきました。

 そこに迎えた先生の一周忌の感慨はひとしおで、席上、浅井会長より頂いた指導は大感動でした。今回の記事では、顕正新聞10月25日号「浅井昭衞先生一周忌法要」特集号をもとに、その一部を紹介したいと思います。

先生が手を引いて下さった

 私自身、何より驚きだったのは、浅井先生の御逝去を機に、かえって全顕正会がご報恩の一念で奮い立ち、過去最高・空前の大折伏が始まったことでした。

 浅井会長は、「先生がご逝去されて以降の全顕正会員の熱誠は涙が出るほどけなげなものであり、一年前からは想像もつかぬほど、一人ひとりの信心が格段に成長し、また多くの同志が戦列に加わり、法戦ごとにまことに力強い前進がなされるに至った。先生は、かかる顕正会の姿を霊山よりごらんになり、莞爾と笑みを湛えられ、お頷き下さっておられるに違いない」と仰せられ、この大前進がどのようにしてなされているかを指導下さいました。

 「顕正会の前進は大聖人様が手を引いて下さっておられる。これは観念的なものではない。そうでなければ、現在の顕正会はあり得ない。その時々において、道を誤らず力強く前進できたのは凡夫の力ではない。大聖人様が手を引いて下さったゆえ。これを私はいつも実感している」との先生の仰せを、会長はいま「肌身に迫る思い」である――と。

 すべては大聖人様の御守護、そして先生が手を引いて下さっておられるゆえと、ゾクゾクする大感動が込み上げ、「これを以て思うに、今後いかなる魔障や困難が競い起こるとも、必ずやそれらを乗り越え、『立正』成就の大事の御奉公を完遂させて頂けることを強く確信する」との会長の仰せに奮い立ちました。

先生へのご報恩のため「特別追悼号」を

 次いで浅井会長は、一周忌にあたり、浅井昭衞先生「特別追悼号」の冊子を発刊したことを教えて下さいました。さっそく私も手にしましたが、美しい装丁と上質な紙面の全67ページに及ぶ「特別追悼号」は、まさに「永久保存版」です。

 会長は、この特別追悼号を発刊した理由を、「先生へのご報恩に擬しまいらせるため」、そして「顕正会の全幹部が改めて先生の甚重の師恩を弁え、その六十六年の激闘の延長線上にある『国立戒壇建立』に戦ういっそうの決意を堅めるため」であり、同時に「これから入信・入会してくる六百万学会員そして全日本人にも、この特別追悼号を以て、先生のご恩徳とその正しさを伝えていきたい」と仰せられました。

 そして、特別追悼号の表と裏の表紙の各裏面に「本部会館の正門」と「天生原の方角から望む富士山」の写真を掲載した所以について、「先生のご念願を留めて置きたかったから」と、つぶさに教えて下さいました。

 浅井先生は、令和2年に本部会館の立派な正門が完成したとき、たいへんお喜びになられました。しかし先生ご自身は、本部会館にいつも裏口から入っておられたため、「私はいつも通用門から入るので、あの立派な正門から本部会館に入ったことがない。一度、正門から入ってみたいものだ」とたびたび仰せられ、お車で本部の正門前を通るときにはいつも「立派な正門だ」と感嘆しておられたと。

 先生は、今後、大勢の日本人が日蓮大聖人の仏法にめざめて本部会館を訪れ、その荘厳な空気にふれて信心を起こし、広宣流布が力強く進むことを念願されており、何より時来たり、本部会館に特別に設けられた「貴賓室」に国立戒壇の御遺命を堅持あそばす貫首上人をお迎えする日のことを慮っておられたことを会長よりお聞きしては、涙があふれました。

 また、裏表紙の裏面に「天生原の方角から望む富士山」の写真を掲載されたお心について会長は、「昭和三十二年の発足から昨年十月十六日の御逝去にいたる実に六十六年にわたり、身命を賭して戦い抜かれた先生が常に見つめてこられたのが、富士山天生原に建立される御遺命の国立戒壇建立、この一事だから」であり、「まさにこの写真こそ、国立戒壇建立だけを見つめて戦う顕正会を象徴するものである」と伺っては、先生の一筋の大忠誠と顕正会の清らかさが胸に迫りました。

 そこに会長より、「私は浅井先生の弟子として、先生のご念願を成し遂げ、『よくがんばった。よき弟子を持った』とのお誉めさえ頂ければ本望である」とお聞きしては涙がこぼれ、私も折にふれては特別追悼号を開き、先生の御逝去という深い悲しみの中に堅めた紅涙の誓いを思い起こし、先生が弟子に託して下さった御遺命成就の御奉公を貫く決意を新たにしました。

戒壇の大御本尊への峻厳極まるご信心

 次いで会長は、浅井先生の六十六年の激闘を貫く不変の大精神こそ、「『日蓮大聖人ここにましませば何を命じ給うか』と、その御命令のままに身命を賭して戦われた大忠誠心」であり、また「その戦いは、大聖人様の御法魂たる戒壇の大御本尊様への不敬・冒涜を断じて許さぬ峻厳極まるものであった」と教えて下さいました。

 先生の激闘をつぶさに拝見するとき、御遺命守護の戦いも、一国に対する開目の大運動も、戒壇の大御本尊を怨嫉する仏敵への破折も、「不敬の御開扉」「極限の大謗法」に対する厳しき呵責も、すべては「大聖人ここにましませば・・・」の大忠誠心から発するものであり、またそのすべてが、大聖人様の御法魂たる戒壇の大御本尊への不敬冒涜を断じて許さず、その御威光を輝かしめんとされたものであったことをお伺いしては、不当なる解散処分を受けようと、無智の宗門僧俗からいかに罵られようとも、先生の大忠誠心は些かなりとも揺るがず、生涯、大聖人様に対し奉る一筋の忠誠を貫かれたのだと、胸がいっぱいになりました。

 ことに今回、会長より、戒壇の大御本尊の御安危を心から憂えられた先生が、「もしできることなら、完璧なる免震構造の新御宝蔵建設の費用をすべて顕正会で負担しても構わない」とまで仰せられ、しかもそれを先生が直接おっしゃれば宗門が反発することをも見据え、会長が日曜勤行に出仕した際にそれを伝えさせ、早瀬管長にその声が届くことを切望しておられたとお聞きしては、胸が締めつけられ、この「不敬の御開扉中止」も「今後の顕正会の大前進の中に諸天が動き、事実となる」との会長のお言葉を胸に、ただ死身弘法に励むのみと心するものです。

 会長は、かかる大忠誠の浅井先生と、無道心の学会・宗門との違いを、次のように総括されました。

 「先生は〝戒壇の大御本尊の御為には身をも捨て、命をも惜しまぬご信心〟すなわち仏法のためなら、我が身を捨てることはもちろん、命より大事な顕正会が潰れても構わないと、この法のためには身命を惜しまぬご信心なのである。

 対して学会・宗門は〝身の為に法を惜しまない無道心〟すなわち組織を維持するため、あるいは禿人がメシを食っていくためには、御遺命がどうなろうと、戒壇の大御本尊を捨て奉るとも、あるいは利用し奉るとも何の痛痒も感じない。どんなことでもやってしまう。

 このように、浅井先生と、池田大作・細井日達・阿部日顕とは、大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊への姿勢が全く異なる。これが真の仏弟子と、第六天の魔王その身に入る輩の決定的な違いなのである」と。

先生の大忠誠のお姿と仏法上のお立場

 いま何より有難いことは、浅井先生のいちばんお傍におられた会長が、私たち弟子には到底窺い知れない先生の深きお心とお姿を、次々と教えて下さることです。

 会長は、「私はこの一年、先生に対するご報恩の思いで、先生の仏法上の重大なるお立場と、その透徹のご信心を顕わさせて頂いた」と仰せですが、会長のご指導を通して、先生の只人ならざる偉大なお立場を如実に拝させて頂ける有難さは言葉に尽くせません。

 先生は、解散処分を蒙り登山を妨害されてより実に半世紀にわたり、一年の御奉公を終えた年の暮れには必ず富士大石寺のそば近くに赴かれ、寒空の下で防寒具も召されず、凍てつく大地に坐し、戒壇の大御本尊様に遥拝勤行をなされていたこと。

いつも勤行を終えた帰りの車中では、清々しいご表情で、「この年末の遥拝も今年で何年になるかな」「このように大聖人様への忠誠を尽くしているのは顕正会以外には絶対にない」と感慨深げにお話しされていたこと。

 御逝去の2~3年前からは、先生は体力の衰えが窺われ、心ならずも年末の参詣を控えられ、代わりに会長に「代参(代理での参拝)」を命じられ、忠節を尽くしておられたこと。

 平成27年、佐渡会館御入仏式に臨まれた先生は、船から佐渡島が見えてくると、席を立って船の先頭の窓へ歩み寄り、「見てみろ、あれが佐渡島だ」と、じっとごらんになっておられたこと。そして、佐渡会館にお着きになるや、直ちに会館の展望台に上られ、塚原配所を望んで厳かにお題目を唱えられたこと。その七百年前の極寒の塚原三昧堂にまします大聖人様を深く偲ばれる先生のお姿を、会長は「終生忘れるものではない」と。

 御入仏式において先生は、阿仏房・千日尼夫妻の捨身の御奉公と日妙殿の命がけの絶対信について、幾度もお声を詰まらせながら指導下さり、帰りの車中でも、大聖人様へのご報恩として佐渡会館御入仏式を心から喜んでおられ、そのお姿に接した会長は抑えていた思いが一気にあふれ、嗚咽を堪えきれなかったこと。

 まさに会長が仰せのごとく、浅井先生におかれては、七百年前などはあたかも昨日のごとくで、常に「大聖人ここにまします」のお心で仕え奉られ、その「常住此説法」を如実に拝し、命尽くまで戦われたのでした。

 会長は、先生の仏法上のお立場について、次のように指導下さいました。

 「恐れながら謹んで思うに、私は先生の、御本仏・日蓮大聖人に対し奉る金剛のごとき大忠誠心、何ものをも恐れぬ不惜身命の師子王心、日寛上人の御指南から御書の極理を師伝され、富士の地下水に達せられた透徹の教学力、御遺命成就への志念堅固・大忍辱力等――

 かかる先生の只人ならざる偉大さを間近で拝見してきて強く感じることは、大聖人様と先生の縁は今生だけのものでは決してないということである。

 僭越ながらその仏法上のお立場を思うに――

 実に久遠元初以来の大聖人様の本眷属にほかならず、大聖人様が広布前夜の大悪出来のときに、かかる先生を召し出され、大障碍をなした第六天の魔王を降さしめ、御在世より七百年、未だに背き続ける日本に日蓮大聖人の大恩徳を顕わし、帰依を促す『遣使還告』の戦いをなさしめられたものと、伏して拝するものである」と。

 誰よりも先生のお姿を間近で拝見してこられた会長の、心底からのお言葉だけに、なんと重いことでしょうか。

 そこに会長より、近き将来、御遺命がいよいよ成就するとき、「本化国主」たる日興上人と「本門寺の座主」たる日目上人の再誕がご出現になり、身命を捨てて御遺命を死守され、その実現に命尽くまで戦われた先生を必ずや賞讃され、「かくて先生の御名は後代に留められるものと私は深く思っている」とお聞きしては、弟子としてその実現を一日でも早める前進を決意せずにはいられません。

国立戒壇建立の戦いに身命を捨てん

 浅井会長は、「最後のご講演」となった昨年9月度総幹部会において先生が、「我ら門下の弟子一同は、ただ随力弘通に徹して、日蓮大聖人の大恩徳を早く全日本人に教えなければいけない。早く、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇建立を実現しなければいけない」と、「国立戒壇建立こそ日蓮大聖人の究極の御遺命である」とご教示下されたことこそ、「先生が我ら弟子に、最後に遺された甚重のご命令である」として、次のように叫ばれました。

 「顕正会発足より六十六年、日に換算すれば二万四千余日にわたり、その間、死罪に等しい解散処分をも乗り越え、たったお一人で、誰に励まされることも、誉められることも、相談することもなく、ただ大聖人様への忠誠心だけで命尽くまで戦われた先生が、ひたすら見つめてこられた御本仏の御遺命、これを果させて頂くことが、我ら弟子の責務である。

 そこに私は本日、先生の一周忌を迎え、先生が命を焦がして熱願された『国立戒壇建立』の戦いに身命を賭す覚悟を改めて堅めるものである

 「国立戒壇実現に向けて戦う私たちの功徳は、すべて先生の御身に集まり、またその御奉公こそが先生への最大のご報恩なのである

 「先生は霊山において、我ら顕正会員のひたぶるなる御奉公を必ずやお見守り下さる」と。

 このたび特集号に掲載して下さった、先生の最後のご講演における原稿のお写真を拝見しては、ご逝去間近の先生が一文字一文字、心血注いで原稿を執筆されたお姿がまぶたに浮かび、熱涙を禁じ得ません。

 私も先生の最後のご命令を胸に、浅井会長の驥尾に付して立ち上がり、いよいよ御遺命成就のお手伝いに邁進していきたいと思います!