上・中・下の三根があっても一生のうちに

「十如是事」のご指導が掲載されました

 顕正新聞12月15・25日合併号に、先般の日曜勤行における「十如是事」の浅井先生のご指導が掲載されました。たいへん有難いご指導でしたので、その一部を紹介させて頂きます。

本抄の大意

 「十如是事」は、正嘉2年に著わされた御書です。

 本抄の大意は、方便品の十如是に約して、法身・報身・応身の三身如来を明かされ、私たち凡夫も南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身がそのまま三身即一の本覚の如来と一体不二にならせて頂けることをお示し下されたものです。

 ここまで読むと、「えっ、『十如是』?『法身』って??うーん、なんだか難しそう・・・」と頭を抱えてしまう方がいるかもしれないので、できるだけわかりやすく書いてみたいと思います。

 まず「方便品」という名前のお経があります。そのお経の中に「十如是」という文があります。

 この「十如是」とはどんなものかというと、「所謂諸法、如是相、如是性、如是体、乃至、本末究竟等」という文です。

 きっと毎日勤行をしている顕正会員であれば、「あっ!お経本に出てくる、あの3回繰り返して読む部分ね!」とおわかりになることと思います。

 大聖人様は、この「十如是」の文に約して、「三身如来」を明かされているのです。

 では、「三身如来」とは何でしょうか。順番に見ていきましょう。

 まず十如是の文に出てくる「如是相」。これは表に現われた姿・形で、「応身如来」という仏様の慈悲を表わします。

 次に「如是性」とは、内面の心性で、これは「報身如来」という仏様の智恵を表します。

 最後に「如是体」とは、仏様の体、御生命そのもので、これは「法身如来」という仏様の清らかな生命を表します。

 この法身・報身・応身を「三身如来」というのです。そして、その元意(究極の深意)は、久遠元初の無作三身、つまり日蓮大聖人の御事です。

 いかがでしょうか。とても深い御法門なので難しそうに感じますが、本抄にいう「三身如来」とは御本仏・日蓮大聖人の御事なんだということがわかると、本抄の大意がよくわかると思います。

 浅井先生は、「我ら煩悩だらけの凡夫が、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡夫がそのまま無作三身の御本仏と一体不二に成ることを御教示下された、まことに有難い御書である」とズバリと指導下されています。

一生成仏と歴劫修行

 ことに本抄には「一生成仏」についての懇切なご教示があります。

 「一生成仏」というと、私たち顕正会員はいつも耳にしているので、どこか当り前のように思ってしまいがちですよね。でも、実はこれはたいへんなことなのです。

 それは「一生成仏」はインドの釈迦仏の仏法には全く説かれていないからです。ただ日蓮大聖人の下種仏法だけの大利益なのです。

 「えっ、お釈迦様の仏教だと、一生のあいだに成仏できないの!?」と驚かれる方がいるかもしれませんが、何を隠そう、そのとおりなのです。

 では、釈迦仏法ではどうやって成仏するのかというと、「歴劫修行」といって、想像もできないほど長遠の年月を経て生まれ変わり、死に変わりを繰り返しながら、布施とか持戒といった厳しい修行を続け、最後に熟脱の仏に値って法華経本門寿量品に至り、やっと仏に成ることができるというのです。いやはや、想像を絶する大変さですね・・・。

 どうしてこんなに大変なのでしょうか。それは、釈迦仏に縁のある衆生というのは、実はみな過去に下種仏法に値いながら途中で退転したり、逆縁だったりして、一生成仏に失敗した人たちだからです。その結果、無量劫という長年月のあいだ、釈迦仏のような熟脱の仏のもと、厳しい修行を延々と続けていかなければ仏に成れないのです。

 ところが、日蓮大聖人の下種仏法は、わずか数十年の一生のうちに仏に成らせて頂けるのです。何と有難いことでしょうか。

 ゆえに撰時抄には「彼の天台の座主よりも、南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」と。

 人に仰がれる天台の座主になっても成仏は叶いませんが、癩病の者であっても南無妙法蓮華経と唱えるならば一生のうちに成仏の大果報を得させて頂けるゆえに、実はその立場の方がずっと有難いのです。

本文拝読

 それでは「十如是事」の本文を拝していきましょう。

 此の道に入りぬる人にも、上・中・下の三根はあれども、同じく一生の内に顕わすなり。

 この御本尊を信ずる人に、上・中・下の三根があります。「根」とは「機根」で、信心をつかむ能力のことです。

 その機根に上・中・下の三根があっても、同じく一生のうちに仏に成ることができる――と。

上根の人

 上根の人は、聞く所にて覚りを極めて顕わす。

 上根の人は、聞いたとき即座に覚りを顕わす――と。

 この「覚り」とは、末法においては智恵・思惟によって哲学的な覚りを得ることではなく、「信じ切ること」です。日蓮大聖人を信じ切る、御本尊を信じ切ることが、そのまま覚りになり、自然と我が身が大聖人様・御本尊と一体不二になることができるのです。

 たとえば、熱原の法華講衆や上野殿、あるいは過去の大菩薩であられる日興上人・日目上人のように、即座に命で仏様を感じて絶対信に立つ方々が「上根の人」です。

中根の人

 次は中根の人です。

 中根の人は、若しくは一日、若しくは一月、若しくは一年に顕わすなり。

 中根の人は、聞くところ即座に、とはいきません。あるいは1日、1月、1年を経て、次第に絶対信に立ちます。

 末法の衆生は三毒強盛なので、中根・下根が多く、あるいは3年・5年・10年、あるときは信じ、あるときはフラつき、未活動になることもあります。

 では、そんな私たちはどうしたら良いのでしょうか。

 浅井先生は、「ここに組織の有難さがある。信心は一人ではできないのです」「異体同心の組織の中で、励まし、励まされ、上と下で信心の歓喜を語り合う中に、いつしか絶対信に立てる」と指導下されています。いま顕正会の一員として、日々同志と励まし合いながら信心させて頂けること、本当に有難く思います。

下根の人

 さて、「下根の人」はどんな人でしょうか。それは、2年、3年、5年、10年経っても、まだわかりません。世間のことに流されて絶対信が掴めず、臨終の時までそのまま行ってしまうのです。

 下根の人は、のびゆく所なくて詰まりぬれば、一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて、諸(もろもろ)のみえつる夢も覚めて現(うつつ)になりぬるが如く、只今まで見つる所の生死妄想の邪(ひが)思い・僻目(ひがめ)の理はあと形もなくなりて

 本覚の現(うつつ)の覚りにかえりて法界をみれば、皆寂光の極楽にて、日来賤しと思いし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。

 下根の人は、もう先がないどん詰まりの臨終の時に至ると、それでも一生成仏の大法なので、あたかもそれまで見ていた夢が覚めるように、おカネ、愛憎、執着などのすべての妄想が跡形もなく消え失せるのだと。

 そして「願うは成仏だけ」「大聖人様にすべてをお任せしよう」との絶対信に立ってこの世を見れば、この国土は寂光土であり、日ごろ卑しいと思っていた我が身が、そのまま無作三身の御本仏・日蓮大聖人と一体不二なのだということが、命でわかる――と。このとき「有難い」「有難い」という心が自然に湧き出てくるのです。

必ず一生の内に成仏

 秋の稲には、早(わせ)と中(なか)と晩(おく)との三つのいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上・中・下の差別ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合はせてあるべき事なり。

 秋に収穫する稲には、早稲・中手・晩生の三種があっても、そのすべてが1年のうちに収穫できるように、これも上・中・下の三根はあっても、一生のうちに「諸仏如来と一体不二」、つまり久遠元初の御本仏・日蓮大聖人と一体不二との有難い思いが、自然と湧いてくる――と。なんと有難いことでしょうか。

内証成仏と外用成仏

 このように、私たち凡夫が一生成仏させて頂けるのも、すべては御本尊様の仏力・法力によるのです。あとは私たちの信力・行力です。

 浅井先生は、次のように指導下されています。

 いかなる人も、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その人の心に仏様が宿る、日蓮大聖人が宿って下さる。これを内証成仏という。

 しかし内証成仏だから、我も知らず、他人も知らない。時には愚痴の心、臆病の心に悩まされることもある。

 でも、愚痴のままでもいい。しっかりと勤行に励むことが大事なのです。

 臆病のまま、一歩前進すればいいのです。逃げてはいけない。大聖人様のお味方をして、自分の力に応じて折伏しよう、広宣流布のお手伝いをしようと、一歩前進すればいいのです。

 この信力・行力に励むうちに、心に宿って下さった仏様がだんだん大きくなる。内証成仏が堅固になる。そしてついに臨終には成仏の相を現ずる。これが外用の成仏であります。

 いかがでしょうか。たとえ愚痴のままでも、臆病のままでもいい。カッコ悪くてもいい。どんな人でも、しっかりと勤行に励み、自分の力に応じて広宣流布のお手伝いをしようと一歩前進するなら、心に宿って下さった仏様がだんだん大きくなり、内証成仏が堅固になり、ついには成仏の相を現ずること(外用の成仏)ができるのです。

 このことを「一念三千法門」という御書には、「現世に其の内証成仏するを即身成仏と申す。死すれば光を放つ、是れ外用の成仏と申す」と仰せられ、さらに「法華経の行者は、如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし」と。この「必ず」と「一人も残らず」との仰せは、例外がないということです。

学会・宗門の師敵対・極限の大謗法

 ただし、退転して大聖人様に背いたり、戒壇の大御本尊様に背いたりしたら、その者は一生成仏どころか堕獄します。

 ですから、大聖人一期の御遺命に背いた宗門(日蓮正宗)や、戒壇の大御本尊を捨て奉る極限の大謗法を犯した創価学会では、みな現世に罰を受け、後生には入阿鼻獄となっているのです。

 そこに、御遺命をただ一人守り奉られた浅井先生が築かれた地涌の菩薩の大集団・顕正会の一員として、大聖人様の御心のままの信行が叶い、一生成仏を遂げさせて頂ける私たち顕正会員の立場は、なんと有難いことでしょうか。

 「いよいよ顕正会は、内には学会員を救い、外には三毒の大衆を救い、日本国を独走して三大秘法を弘め、何としても大聖人様に応え奉ろう」との浅井先生の御心を体し、私も一歩前進して広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!