松本日仁尊能師の大恩

「松本日仁尊能師の大恩」特集号が出来しました

 顕正会の6月度総幹部会を特集した顕正新聞7月5日号が出来しました。その名も「松本日仁尊能師の大恩」特集号

 今回の総幹部会では、身延派・邪宗日蓮宗の僧侶だった壮年が正義にめざめて熱烈に活動する発表や、池田大作の次男・城久の臨終の相についての報告など、驚くような登壇が相次ぎましたが、何といっても最後、浅井先生より、顕正会の発足時に御庇護下された松本日仁尊能化の大恩について初めて指導頂き、大感動でした!

 それではさっそく見ていきましょう!

松本日仁尊能化とは?

 みなさんは、松本日仁尊能化という御方を御存知でしょうか?

 松本尊能化は、東京吾妻橋にある宗門(日蓮正宗)の一末寺・妙縁寺の住職だった方で、戦前・戦後にかけて長期にわたって宗門の機関誌「大日蓮」の編集・発行という大任を担当され、宗門僧侶としては「能化」という貫首上人に次ぐ高い位の僧侶でした。

 その御性格は律儀で温和、生活は質素、そして宗門の方針には細大漏らさず従うというたいへん遵法精神の強い御方でした。

 この松本尊能化と顕正会との出会いは、昭和32年に遡ります。

 当時、顕正会は「妙信講」と称していました。この妙信講の新たな発足にあたり、総本山の第65世・日淳上人が異例の御認承をして下さり、所属寺院を妙縁寺と定め、指導教師に松本日仁尊能化を充てて下さったのです。

 今年の6月15日は、ちょうど松本尊能化の第47回忌。この日、浅井先生は御報恩の勤行をなされました。

 松本尊能化が御逝去されてから満46年――。私を含め、松本尊能化を知らない多くの会員に、先生はその大恩を切々と指導下さいました。

松本日仁尊能化の御庇護

 松本尊能化は昭和48年12月、妙信講の大法弘通が進むようにと、「妙縁寺重宝」の脇書ある「第60世・日開上人」御書写の御本尊を自ら奉持し、当時の本部会館に掛け奉って下さいました。

 また、細井日達は昭和49年8月12日に妙信講に解散処分を下した後、妙信講の潰滅を策し、松本尊能化になりふり構わぬ狂気のような圧力を加えました。しかし松本尊能化は、身を挺して妙信講を庇護して下さったのです。

 細井日達が「妙信講の本部会館の御本尊を取り上げろ」と命じた際には、「これだけは、人間としての信義の上からも、信仰の上からも、私にはとうていできない」と言って拒絶して下さいました。

 また、学会弁護団が裁判にかけてこの御本尊を取り上げようとしたときには、「もしも裁判で必要だったら、妙信講から裁判所にこの文書を提出したらいい」と言って、「この御本尊は妙縁寺住職として、確かに妙信講に授与したものである」との一通の文書を書いて下さいました。かくて本部会館(現在の東京会館)の御本尊は安泰だったのです。

 また、細井日達が松本尊能化と妙信講員との接触を絶たせるために「妙縁寺の本堂を取り壊せ」と命じ、尊能化のただ一人の弟子で本山在勤の光久諦顕を使って「妙信講と手を切らないとエラいことになる」と脅した際にも、これを拒絶されました。

 すると細井管長は昭和49年11月14日、松本尊能化を本山に呼び出し、「妙縁寺に住職代務者を置きなさい。あんたは一切、妙信講員と接触してはいけない。すべてをその代務者に任せなさい」と直々に命令を下しました。しかし、それでもなお、松本住職はなかなか承諾なさらなかったのです。

 いらだった細井管長はあとの処置を阿部信雄・総監代務者(後の阿部日顕)に一任、すると阿部はご高齢の松本尊能化を一室に閉じ込め、「猊下の命令に背くのか。承知したという署名・捺印をするまで、今日は帰さない」と恫喝し、夜まで責め続けました。当時83歳で身体もお弱りになっておられた松本尊能化は、疲労困憊の末、ついに判を押してしまいます。

松本尊能化 捨身の御決意

 松本尊能化は深夜、妙縁寺に戻られると、すぐ「来てほしい」と浅井先生に電話しました。先生はすぐに駆けつけました。

 尊能化はその日の経過を詳しく説明された上で、「もう自分は疲れ切って、頭が朦朧として、ついに判を押してしまった」と、力なく、申しわけなさそうに仰せられました。そのお顔は疲労で黒ずみ、何とも痛々しいお姿でした。

――それから約2時間、浅井先生は一念こめてお話申し上げました。今回の宗門の処置がいかに理不尽で卑怯であるか。この背後には御遺命を破壊せんとする池田大作がいること等。

 そして最後に、「妙信講を守って下さいとは申しません。どうか、大聖人様の弟子として、御遺命を守り奉るの決意にお立ちあそばしませ」と申し上げました。時刻はすでに零時半を過ぎていました。

 すると、それまで土気色だった松本尊能化のお顔に血の気がさし、頬が桜色に輝きました。ついに身を捨てる決意をされたのです。尊能化は仰せられました。

 「もしこのまま何もせずに死んだら、本当に大聖人様に申しわけない。残るわずかな命は、大聖人様に捧げたい」と。

 そして夜明けとともに細井管長に一通の電報を打たれました。「住職代務者の件はお断りいたします」と。翌々日、細井管長は直ちに「住職罷免」の処分を下しました。

 ほどなくして妙縁寺に新任の住職らが送り込まれ、4人の学会弁護士がやってきました。弁護士らは松本尊能化を奥の小さな一室に閉じ込めると、「このまま行けば住職罷免だけでは済まない、必ず擯斥処分になる」と脅しました。

 すると松本尊能化は4人の弁護士にこう告げられました。「私は生きていても、あと一年ぐらいと思っている。このわずかな命、もう大聖人様に捧げる決意をしているので、何があっても恐くはない」と。弁護士たちはみな下を向き、黙ってしまったそうです。

 さらにこの日、妙縁寺の総代で法華講連合会副会長の佐藤悦三郎が来て、松本尊能化に「早く妙信講と手を切って、猊下にお詫びをするように」と勧めました。

 これに対し、松本尊能化はこう言われました。

 「在家のあなた方には教義のことはわからないかもしれないが、実は正本堂は御遺命の戒壇ではない、国立戒壇が正しいのです。いま妙信講が命がけでやっている御奉公こそ、本来なら、自分たち僧侶がやらなければならないことなのです。このこと、今まで言わなかったのは僧侶として恥ずかしい」と。

 かくて昭和49年12月25日、ついに松本日仁尊能化に「擯斥処分」が下されました。擯斥処分とは「宗門追放」ということです。なんと残酷、そして卑劣な処分でしょうか。

 浅井先生は次のように仰せられました。

 いいですか。細井日達管長自身、かつては

 「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・昭和35年1月号)と述べていたではないか。

 また池田大作すら

 「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのである」(大白蓮華・昭和31年4月号)と叫んでいたではないか。

 しかるに、池田大作が政治野心から「国立戒壇」を否定するや、細井日達もこれにへつらった。そして正直の老僧の首を切ったのです。

 松本尊能化は、十二歳で出家して八十三歳の老齢に至るまで、堅く富士大石寺の僧侶として精進され一分の過失もない。この老僧に対し「妙信講に味方して『国立戒壇は正しい』と言った」という理由で、宗門追放にしたのです。

 この非道・卑劣・残酷、私はこれを忘れない

顕正新聞「松本日仁尊能師の大恩」特集号

 いかがでしょうか。松本日仁尊能化の大聖人様に対し奉る捨身の信心と、尊能化を想われる先生の深き御心を伺っては、思わず涙が込み上げます。

捨身の御慈愛

 擯斥処分から御逝去までの2年半、松本尊能化はもう誰に憚ることもなく、妙信講と全く一体であられました。

 その御心は、「将来、広宣流布に御奉公する妙信講を、まもなく命終わる自分として、何としても助けたい。守ってあげたい」――ただこの御慈愛だけでした。

 ゆえにご自身が所蔵しておられた宗門関係の膨大な書籍、多額の金子、そして何より広宣流布を進めるうえでなくてはならない地方会館と自宅拠点に安置し奉る御本尊等を授与して下さいました。今日、私たち顕正会員が何の憂いもなく、大規模な全国広布の御奉公をさせて頂けるのも、松本日仁尊能化のこの御慈愛があればこそと、本当に頭の下がる思いとなりました。

 浅井先生は、「以上のごとき御慈愛は、ただ『広宣流布に戦う妙信講を、何としても守ってあげたい』このお心から発せられたものです。ために、衰老の御身を敢えて抛ってお守り下されたのであります。この大恩、私は一日として忘れたことはない」と仰せですが、死を前にすべてを妙信講に託された松本尊能化の想いを胸に、いま広宣流布の全責任を背負って一人立たれる先生の御胸中を拝察しては熱涙滴り、自身ももっと成長してお応えせん!とのやみがたい思いが込み上げます。

 同時に、今の腐りきった宗門(日蓮正宗)の禿人ども、それに盲従する無智な法華講員らを見るとき、「松本日仁尊能化を鑑とせよ」との激情が衝き上げます。

 私も松本尊能化の大恩を胸に、広告文と特集号を手にふるい立ち、広宣流布のお手伝いにもっともっと励んでいきたいと思います!