「最後に申すべき事」(3)~「御遺命違背」についての反論を破す~

 すべての犯罪に動機があることは、世法・仏法ともに同じです。

 宗門教学部長の要職にあった阿部日顕が、なぜ御本仏の一期の御遺命を破壊せんとするほどの大罪を犯したのかといえば、それは名利です。宗門を牛耳る権力者・池田大作の寵を得れば、宗門の最高位にも登れると夢見たのでしょう。

 ところが、御遺命に背いた罰によって池田大作との間に自界叛逆ともいうべき仲間割れが生ずると、阿部日顕は卑怯にも一切の罪を池田に着せ、己は被害者のような顔をして2冊の悪書の幕引きを図りました。

 しかし、その中にも「国立戒壇」についてだけは、あくまでも否定を続けています。そしてさらに今、「国主立戒壇」なる新たなたばかりを言い出していることは、断じて許されません。

1、「二冊の悪書」についての欺瞞

 まず浅井先生は、阿部日顕の「2冊の悪書」についての釈明を破しておられます。

 阿部日顕は二冊の悪書を書いた理由について、返書に「当時、教学部長をしていたものだから、結局、日達上人の御指南を承りつつ、私が書くことになってしまった」(取意)などと、あたかも被害者のような顔をしています。しかし、これは真っ赤な嘘で、実は池田大作の特命を受け、チャンス到来とばかりにこの大悪事を引き受けたのです。

 このことは、阿部日顕が「国立戒壇論の誤りについて」を書く3か月も前に、「妙信講作戦」の「総指揮」池田大作の下、対妙信講の「教義論争」担当となっていたことからも裏付けられます。その初仕事が、この悪書執筆だったのです。何より、悪書執筆に当って阿部日顕の指南役を務めたのが、池田が差し向けた学会の弁護士・検事グループであったことが、これを雄弁に物語っています。

 また阿部日顕は悪書執筆の経緯について、次のようにたばかっています。

 「日達上人は御本意としては、御遺命の戒壇は未来のことであり、正本堂は三大秘法抄の戒壇ではないと考えておられた。ゆえに昭和四十五年四月六日の虫払大法会における御説法があった。しかし日達上人は、僧俗一同が戒壇を建立せんとの願望をもって建てるのであり、僧俗一同を慰撫教導されるべく、正本堂の意義を御指南された。それが昭和四十七年四月二十八日の訓諭である。この日達上人の御意を体し、私は『国立戒壇論の誤りについて』を著した」(取意)と。

 ちなみに、細井管長の「昭和四十五年四月六日の虫払大法会における説法」とは、「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」というものです。

 何もかも知りながら、この虫払法会における説法を、あたかも細井管長が自発的信念で本意を述べたごとく言うのは、いかにも滑稽です。この説法は、その3日前(昭和45年4月3日)に浅井先生が細井管長と対面した際の強き諫めによって実現したものだからです。自発的な信念でなかったからこそ、池田に巻き返されれば、またすぐ元の誑惑に戻ってしまったのです。

 すなわち、その11日後の4月17日には、池田に強要されたのでしょう、細井管長は浅井先生に対し電話で、次の事項に従うよう唐突に告げました。

 「①日蓮正宗を国教にする事はしない、②国立戒壇とは云わない、民衆立である、③正本堂を以て最終の事の戒壇とする、④今日はすでに広宣流布である、よって事の戒壇も立つのである」と。これは国立戒壇を否定し、正本堂を「御遺命の戒壇」とする池田の誑惑そのものです。

 以来、細井管長は、浅井先生の諫めに値えば本心を取り戻し、池田に会えばまた誑惑に協力するという変節を繰り返しました。そのような中、池田の強き圧力と浅井先生の諫めに挟まれながら、ついに池田に屈して出してしまったのが、あの正本堂の意義を定めた訓諭だったのです。

 したがって、虫払法会の説法を細井管長の自発的信念に基づくもののごとくいうのも、訓諭が「僧俗一同を慰撫教導するため」に出されたというのも、またこの意を体して阿部日顕が「国立戒壇論の誤りについて」を書いたというのも、すべて真っ赤な嘘です。

 要するに、細井管長は池田大作に屈し、阿部日顕は池田大作に諂って、大事の御遺命を曲げ、偽戒壇・正本堂の誑惑に加担したにすぎません。

訓諭に至る経緯

 当時の事実経過を示せば、次のとおりです。

 浅井先生は、細井管長が前述の4箇条を電話で伝えてきたとき、学会の圧力から猊座を守るには、学会を抑えて確認書を作らせる以外にはないとご決意されました。

 そして細井管長の面前で学会代表と論判し、ついに昭和45年9月11日、「正本堂を、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇とは言わない」旨の確認書を学会に作らせ、宗務役僧立ち合いのもとこれに署名させ、細井管長のもとに収めました。

 この確認書により、学会・宗門のあらゆる書籍から誑惑の文言は一時に消えました。阿部日顕が先生のご自宅を訪れ、「妙信講のいうところ、大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変わった。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげ・・・」等と神妙に挨拶したのも、この時です。

 これで、御遺命は辛うじて守られました。もう正本堂の落成時に「御遺命の戒壇成就」ということはあり得ない、と先生は思われたのです。

 ところが池田の執念は凄まじく、正本堂落成を前にして、細井管長に正本堂の意義を示す訓諭を出さしめました。その訓諭には

 「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。

 これは、学会・宗門ともに先の「確認書」を意識していたゆえに、落成時の正本堂を直ちに御遺命の戒壇とは言わなかったものの、〝広布の暁には正本堂がそのまま「本門寺の戒壇」となる〟と定義したもの。つまり御遺命の戒壇となる建物を前もって建てておいたというものでした。

 この訓諭により、正本堂以外に将来国立戒壇が建立されることは否定されました。――これこそが、この訓諭に込められた池田大作の狙いだったのです。

 しかし、広布以前に戒壇の建物を建てておくこと自体が、重大なる御遺命違背です。ゆえにこのたばかりを成功させるには、どうしても三大秘法抄の文意をねじ曲げなくてはなりません。ここに池田はこの大役を、詭弁の特才・諂い・出世欲を兼ね備えた阿部日顕にやらせたのです。

 いま阿部日顕は2冊の悪書について、「当時においては慰撫教導の為のものであったが、時間が経過し、状況が変化した現在では、言い過ぎにも思える」などと言いわけしていますが、言語道断です。「言い過ぎ」などで済むことではありません。まさしく2冊の悪書は、池田に阿諛追従して三大秘法抄の心を死し奉った大謗法の書なのです。

三大秘法抄の聖意を死す

 では、どのように三大秘法抄の御心を死したかを具体的に挙げます。阿部日顕は同抄の文々句々を切り刻んで次のごとく文意を曲げました。

 「王法」は「政治をふくむあらゆる生活の原理」とし

 「王臣一同」は「民衆一同」とし

 「有徳王」は「池田先生」とし、「したがって現在も王仏冥合の時と云える」と云い

 「勅宣・御教書」を「建築許可証」とし

 「時を待つべきのみ」を「前もって建ててよい」

 とたばかったのです。そしてこの曲会の結論として、「三大秘法抄の戒壇の文全体に対し、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義を持つ建物を建てるべき時であるという事である。(中略)これに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意に背くものとなる」と言い切りました。

 大聖人御入滅後700年、宗の内外を問わず、三大秘法抄の御聖意をここまで破壊した悪比丘は一人もいません。まさしく阿部日顕こそ、正系門家における「師子身中の虫」そのものだったのです。

「全くの空論」と嘯く

 そして平成16年、浅井先生が著した「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」が大規模に配布されて宗門全僧俗の耳目にふれるや、黙っていられなくなった阿部日顕は同年8月の全国教師講習会で、2冊の悪書の言いわけをしました。

 「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」

 阿部日顕自身、2冊の悪書を書いた経緯について、「正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかった」、「浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで」と述べています。「妙信講作戦」における「教義論争」担当として書いたことが行間に現れていますね。

 それにしても、いまになって責任のすべてを池田に転嫁しているのはまことに卑劣。また「今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども……正本堂がなくなった現在、全くの空論である」とは、何たる無道心・無責任の言でしょうか。

 御本仏を欺き奉った大罪、また数百万信徒をたぶらかしたこの罪過は、世親・馬鳴のごとく、命をかけた懺悔なくしては永劫に消えません。

 そもそも正本堂は、国立戒壇を否定するために建てた誑惑の戒壇です。これが大聖人の御威徳によって崩壊した今、厳たる御仏意を恐れて直ちに「国立戒壇」の正義に立ち返るべきなのに、阿部日顕は、国立戒壇についてだけは、なお頑強に誹謗を続けています。この飽くなき固執こそ、天魔その身に入るの姿なのです。

2、「国立戒壇」に対する誹謗

 まず阿部日顕の国立戒壇否定の執念を示します。

 彼は平成16年8月の教師講習会において、「道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。ただ王法の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあった」と述べました。

 そして返書では浅井先生に対し、「今日貴殿が主張する『国立戒壇』はどこまでも己義であり、邪義なのである」と言い、

さらに先生が「御本仏一期の御遺命が広宣流布の暁に国家意志の表明を以て建立される『国立戒壇』であることは、三大秘法抄の金文に赫々、歴代上人の遺文に明々である」と述べたことに対し、

 「三大秘法抄の御文をもって『国立戒壇』の依拠とするなどは、まったくの己義我見の誑惑である」また

 「未だ広宣流布達成のはるか以前に、驕慢の凡夫の分際で、かつ謗法の一在家に過ぎぬ貴殿が、『国立戒壇』でなければならぬなどと、仏法の大事に口をさし挿むこと自体がおこがましい限りである」と悪態をつきました。

 しかし、浅井先生が三大秘法抄の御意に基づき正義を述べたことが「おこがましい限り」なら、同じく「広布達成のはるか以前」に、「勅宣・御教書」を建築許可証などとたばかった阿部日顕はどういうことになるのでしょうか。天に唾してはいけません。

 およそ三大秘法抄は、広布前夜に魔障出来して本門戒壇について異議が生ずることを慮られ、敢えて御本仏が留め置き給うた重書です。

 いま聖慮のごとく、御遺命の戒壇について、門家に重大な意義が生じています。このとき、もし三大秘法抄の御聖意を拝して強盛に正義を立てなければ、かえって御本仏に不忠となります。「おこがましい」どころか、聖意を立てて破法の悪人を呵責しなければ、仏弟子ではないのです。

「三大秘法抄」を拝し奉る

 阿部日顕は「三大秘法抄の御文をもって『国立戒壇』の依拠とするなどは、まったくの己義我見の誑惑」と言いますが、果たしてそうでしょうか。

 それは何よりも、三大秘法抄の御聖意を本として判じなければなりません。2冊の悪書で曲会の限りを尽くした阿部日顕には忌まわしいことでしょうが、すべからく御金言を本とすべきです。

 三大秘法抄に云く

 「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ」と。

  まず「王法」の意義を拝します。

 「王法」とは広義には国家、狭義には国家に具わる統治主権・国家権力、また人に約して国主・国主の威光勢力等を意味します。つまり、すべて国家統治にかかわる概念です。御書四百余篇における用例、ことごとくこの意です。阿部日顕のいう「あらゆる生活の原理」などの意は微塵もありません。

 そしてこの「王法」に通・別があります。通じては時の統治権力・国主はいずれも王法です。

 「夫れ仏法と申すは勝負を先とし、王法と申すは賞罰を本とせり」(四条抄)等がこれです。

 しかし日本は三大秘法有縁の妙国であれば、仏法守護の本有の王法が久遠より存在します。これが皇室であり、別しての「王法」です。

 「日本国に代始まりてより已に謀叛の者二十六人、第一は大山の王子、第二は大山の山丸、乃至、第二十五は頼朝、第二十六人は義時なり。二十四人は朝に責められ奉り獄門に首を懸けられ山野に骸を曝す。二人は王位を傾け奉り国中を手に拳る。王法既に尽きぬ」(秋元御書)と。

 時の政治権力者であった頼朝・義時をなお謀叛の者とされ、皇室のみを別しての「王法」とされていること、御文に明らかです。

 さらに大聖人の御遺命を奉じ給う日興上人は

 「仏法と王法は本源躰一なり、居処随って相離るべからざるか。乃至、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」(富士一跡門徒存知事)と。

 この御指南を拝見すれば、別しての「王法」、さらに王仏冥合の究極の事相は炳乎として明らかです。

 では、謹んで本文を拝し奉ります。

 「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、日蓮大聖人の三大秘法こそ唯一の衆生成仏の大法・国家安泰の秘法と認識決裁し、これを尊崇守護することです。

 およそ国家・国政の目的は、国土の安全と国民の安寧にあります。そしてこれを実現する秘法が仏法です。ここに王法と仏法が冥合すべき所以があります。ゆえにもし国家が日蓮大聖人の正法にめざめれば、この正法を国家の根本の指導原理、すなわち国教として用いることは当然です。ゆえに四十九院申状には

 「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と仰せられるのです。

 では、王法と仏法が冥合した時の、国家の具体的な姿相はどのようなものかを示されたのが次文の

 「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時

 です。すなわち日本国の国主たる天皇も、国政の衝にある各大臣そして全国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護するにおいては有徳王・覚徳比丘の故事のごとくの、身命をも惜しまぬという護法心が一国にみなぎった時――と仰せられています。

 大聖人はかかる国家状況が、末法濁悪の未来日本国に必ず現出することをここに予言・断言され、かかる時を、戒壇建立の「時」と定め給うたのです。

 しかるに阿部日顕は、未だこの「時」も到来しないのに、俄かに建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽り、池田大作を「有徳王」、細井管長を「覚徳比丘」などとたばかったのです。なんと恥ずかしく、恐ろしいことでしょうか。

 さて、上述のごとき王仏冥合・王臣受持の「時」が到来しても、なお直ちに戒壇を建立することは許されません。ここに大聖人は、建立に当っての〝必要手続〟を厳重に定め給うておられます。それが

 「勅宣並びに御教書を申し下して」です。

 「勅宣」とは天皇の詔勅。「御教書」とは当時幕府の令書、今日においては国会の議決、閣議決定等がそれに当たります。すなわち「勅宣・御教書」とは、まさしく国家意志の公式表明なのです。

 この手続こそ、日蓮大聖人が全人類に授与された「本門戒壇の大御本尊」を、日本国が国家の命運を賭しても守護し奉るとの意志表明であり、これは取りも直さず、日本国の王臣が「守護付嘱」に応え奉った姿でもあります。

 では、なぜ大聖人は「国家意志の表明」を戒壇建立の必要手続と定められたのでしょうか。

 謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は偏えに仏国の実現にあります。仏国の実現は、国家レベルでの三大秘法受持がなくては叶いません。その国家受持の具体的姿相こそ「王仏冥合」「王臣受持」の上になされる「勅宣・御教書」の発布なのです。

 かくて国家意志の表明により建立された本門戒壇に、御本仏日蓮大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」が奉安されるとき、日本国の魂は即日蓮大聖人となります。御本仏を魂とする国は、まさしく仏国です。

 しかるに阿部日顕は、この大事の「勅宣・御教書」を「建築許可証に過ぎない」と誑りました。この罪科がどれほど重く深いか、心を静めてこれを思わなければなりません。

 次に「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、場所についての御指示です。ここには地名の特定が略されていますが、日興上人への御付嘱状を拝見すれば「富士山」たることは言を俟ちません。そして日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられます。天生原は大石寺の東方4キロに位置する昿々たる勝地です。

 ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には

 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」と記され、この御相伝に基づいて第26世・日寛上人は

 「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法 乃至 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)とお示し下されています。

 「時を待つべきのみ」とは、広宣流布以前に建立することを堅く禁じた御制誡であり、同時に、広宣流布は大地を的として必ずや到来する、との御確信を示し給うたものです。

 かくのごとく三大秘法抄の御聖意を正しく拝し奉れば、御遺命の戒壇とは、まさしく王仏冥合・王臣受持の時、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される「国立戒壇」であること、天日のごとく明らかです。

歴代先師上人の文証

 ゆえに歴代先師上人は異口同音に「国立戒壇」を熱称されて来ました。血脈付法の正師の御指南は重要であるため、煩を厭わずこれを示します。

 第65世日淳上人は

 「大聖人は、広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられる、その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)

 第64世日昇上人は

 「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に三大秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並に御教書を申し下して建立する所の戒壇なり』と。之れは是れ、宗祖の妙法蓮華経が一天四海に広宣流布の時こそ之の時なり」(奉安殿落成慶讃文)

 日淳・日昇両上人ともに、三大秘法抄を以て「国立戒壇」の依拠とされていること、まことに明々です。また、たとえ本抄の引用を略すともその意は同じです。

 されば日淳上人は

 「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮 昭和34年1月号)

 第59世日亨上人は

 「宗祖・開山出世の大事たる政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華 11号)

 「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)

 さらに云く

 「本門戒壇には、むろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが当然であるので、未来勅建国立戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのが、いまの本門戒壇大御本尊である」(富士日興上人詳伝)

 「本門戒壇大本尊。(中略)戒壇国立の時、安置すべき本尊にして、彫刻は日法上人なり。宗祖より開山日興上人に遺属せられし唯一の重宝、今宝蔵に安置す」(堀ノート・大石寺誌)

 以上のごとく三大秘法抄および先師の御指南を拝すれば、まさしく「国立戒壇は三大秘法抄の金言に赫々、歴代上人の遺文に明々」といわなければなりません。これを否定するのは、三大秘法抄の御聖意を蹂躙して死した、「阿部日顕」以外にはいないのです。

3、「国主立戒壇」の誑惑

 正本堂が崩壊してもなお国立戒壇を否定する阿部日顕は、「では、いったい御遺命の戒壇とはどういうものか」と問われれば詰まります。そこで次のようにごまかしています。

 「未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。(中略)要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の『本門寺の戒壇』ということであります。だから未来の戒壇については『御遺命の戒壇である』ということでよいと思うのです」(大日蓮 平成16・12月号)

 「御遺命の戒壇とは御付嘱状の『本門寺の戒壇』である」では答えになっていません。その「本門寺の戒壇」とは、いかなる時、いかなる手続で、どこに建てられるべきかを明らかにしなければならないのです。

 そのことは三大秘法抄に赫々明々であるにもかかわらず、阿部日顕は「今、論ずべきことではない」「不毛の論である」とごまかしています。これすなわち、三大秘法抄を曲会した罪人には、〝今さら言えぬ〟ということなのでしょう。

 しかしそれでは「法主」の沽券にかかわります。そこで阿部日顕がおずおずと打ち出したのが、「国主立戒壇」というたばかりです。

 「御遺命という上からの一つの考え方として『国主立戒壇』という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです」(同前)と。

 思いつきのまやかしだから、全く信念がありません。この確信のなさこそ、御遺命に背いた者の惨めな姿です。これでは、浅井先生との対決から逃げるのも無理はありません。

 しかし、何とか格好をつけねばならないため、幼稚きわまる論を展開します。

 「大聖人の御金言に照らせば、あくまで『国主此の法を立てらるれば』なのであり、『国主』つまり『人』が信仰の主体者なのである。『国』とは人が生活する『国土』であり、非情なものであるから『国』が信仰を受持することはあり得ない。信仰を受持するのは『国土』に生活する『国主』であり、言うならば『国主立戒壇』となるのである」(返書)

 御付嘱状に「国主此の法を立てらるれば」とあるから「国主立」だと。また「国」とは国土で非情世間だから、「国」が信仰を受持することはあり得ないとして、国立戒壇を否定しています。

「国」とは「国土・非情」か

 では、反詰します。

 まず「国」とは、果たして非情の国土でしょうか。例えば石綿禍が社会問題となったとき、新聞紙上には連日「国の不作為」「国が調査」「国を訴える」「国が救済」等の言葉が飛び交いましたが、この「国」とは、果たして非情の国土の意でしょうか。ことごとく「国家」を指しています。

 仏法においても然り。御書を拝見すれば

 「仏法に付きて国も盛へ人の寿(いのち)も長く、又仏法に付きて国もほろび人の寿も短かかるべし」(神国王御書)

 「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり」(蒙古使御書)

 等と仰せられていますが、この「国」が果たして非情の国土でしょうか。

 さらに立正安国論には

 「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、乃至、国を失ひ家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と。

 まさしく「国」を即「国家」と仰せられています。したがって、国家的に建立される本門戒壇を「国立戒壇」と称することに何の不可もないのです。幼稚な論理で国立戒壇を否定しては、世間の人にも笑われるでしょう。

 また阿部日顕は「国主此の法を立てらるれば」の御文を以て「国主立」と短絡していますが、これもごまかしです。

 御付嘱状のこの御文は、実に三大秘法抄における「王仏冥合、王臣受持、勅宣・御教書」等、戒壇建立に関わる「時」および「手続」を、一言に要約し給うた金文です。すなわちご付嘱に際しての「以要言之」の鳳詔であられます。ゆえにその御意は三秘抄と全同であり、同抄に示された国家的に建立される戒壇を端的に表現すれば、まさしく「国立戒壇」となるのです。 

 そもそも「国立戒壇」とは、三大秘法抄・一期弘法抄の御意に基づき歴代先師上人が使用された御遺命の戒壇についての呼称であれば、かかる呼称に対して「『国』とは人が生活する『国土』だから云々」との幼稚な難癖をつけること自体、歴代先師上人に対する侮辱・背叛といえるでしょう。

「国主立戒壇」は正本堂と同じ

 では、まやかしの「国主立戒壇」の内容はどのようなものでしょうか。阿部日顕は次のように述べています。

 「その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。(中略)しかし、私は『国主立ということを言いなさい』と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで……」(大日蓮 平成16・12月号)と。

 なんとも歯切れが悪い、確信の全くない、逃げ腰の説明です。

 それもそのはず――。言わんとしている「国主立戒壇」とは、国家と無関係に建立することにおいて、全く正本堂と同じだからです。池田はこれを「民衆立」と言い、阿部日顕はこれを国民総意の「国主立」と言うも、ただの言い換えにすぎません。ともに憲法を至上とし、違憲を恐れていることも通底しています

 池田と仲間割れをした現在もなお、正本堂と同じたばかりを以て国立戒壇を抹殺せんとしているこの姿に、魔の執念を見る思いです。

 阿部日顕は憲法改正をあたかも悪事のごとく忌避していますが、マッカーサーが占領政策の一環として日本に与えた憲法が、それほど至上にして不磨の大典のごとくに見えるのでしょうか。いまや世間においてすら、日本国憲法はさまざまな矛盾を抱えているとして、改憲論者はすでに国民の過半に及んでいます。

 いわんや仏法の眼を以て見れば、未だ国家安泰の秘法の存在も王仏冥合の深意も知らない、蒙昧の中に生まれたのが現憲法であれば、やがて広宣流布した暁には、仏法に準じて憲法が改正されるのは、至極当然といわねばなりません。

 しかるに憲法に準じて仏法を曲げるとは、まさに靴に合わせて足指を切るに等しい所行です。このような愚かさにいつまでも囚われているのは、定めて2冊の悪書執筆の際、学会の検事・弁護士グループに特訓を受けたトラウマゆえか、天魔其の身に入るゆえか。

 また阿部日顕は、改憲を忌避する理由の1つに、その困難さを挙げています。

 「浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日の日本乃至世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない」(同前)と。

 これは本末転倒の論理です。困難なのは、憲法改正よりも広宣流布なのです。もし一国が日蓮大聖人に帰依し奉る広宣流布が実現したら、憲法改正に誰人が異を唱えるでしょうか。まさに憲法改正などは、広布に付随して実現する事柄なのです。

「国主=国民」のたばかり

 また「国主とは国民」というのも、たばかりです。

 もし国民が国主であるとすれば、日本には1億2000万人の国主がいることになります。国主は一人でなければ、国家は成り立ちません。ゆえに報恩抄には

 「国主は但一人なり、二人となれば国土をだやかならず」と仰せられています。「国主=国民」の誤りは明白でしょう。

 政治学では、国家を成立させる三要素として「領土と人民と主権」を挙げていますが、この中の主権こそ、仏法にいう王法です。この主権とは、対外的には独立性を、国内的には国民および領土を支配する最高普遍の権力を意味します。そしてこれを人に約せば国主・国王・統治者・政治権力者となります。

 ゆえに内房女房御返事には

 「王と申すは三の字を横に書きて一の字を豎(たて)さまに立てたり。横の三の字は天・地・人なり、豎の一文字は王なり。乃至、天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名(なづ)けたり」と。

 仰せの「天・地」とは領土、「人」とは人民に当ります。そして、これを貫き支配するのが「王」すなわち主権です。ここに国家が成り立ちます。このように国家というものの本質を見れば、国民はあくまでも被治者なのです。

 では「主権在民」とはいかにといえば、これは言葉が正確さを欠いているのです。その本質は、民意を政治権力に反映し得る仕組みをいうに過ぎません。

 ゆえに「国主=国民」と言うのは、未だ国家の本質を知らぬ無智のゆえか、あるいは為にする欺瞞という他ありません。

隠された重大な御遺命違背

 さて、阿部日顕は国家と無関係に国民総意で建てる戒壇を「国主立」と称し、「これなら憲法改正も必要なし」と述べていますが、ここにこそ、隠された重大な御遺命違背があります。

 それは、「勅宣・御教書」の厳重の御定めを無視していることです。

 前述のように、「勅宣・御教書」とは、日蓮大聖人の仏法を国家が守護し奉るとの、国家意志の公式表明です。

 謹んで案ずるに、本門戒壇の建立とは、戒壇の大御本尊の妙用により、日本を仏国となすの一大秘術です。そしてこれを実現するには、一個人・一団体・一宗門、あるいは漠然たる国民の総意などによる建立では叶いません。実に国家受持がなくては叶わないのです。

 ゆえにこの国家受持の具体的姿相を三大秘法抄に「王仏冥合、王臣受持」と定めた上に「勅宣並びに御教書を申し下して」と仰せられているのです。まさしくこの「勅宣・御教書」すなわち国家意志の表明こそ、国家受持の決め手なのです。

 およそ国家意志は、政治形態の如何に関わらず国家ある限り必ず存在します。さもなければ国家の統営はなし得ません

 専制政治においては、国家意志は一人の国主によって決せられます。ゆえに大聖人は、時の国主に正法護持の国家意志の表明を促し給うたのです。しかし鎌倉覇府はこれを用いませんでした。されば下山抄には

 「国主の用い給わざらんに、其れ已下に法門申して何かせん。申したりとも国もたすかるまじ、人も又仏になるべしともおぼへず」と。

 この御聖意、深く拝さなければなりません。国家的な受持がなければ、たとえ個々の国民が信受するとも国は助からないのです。

 そして末法濁悪の未来日本国には、一国同帰とともに国家意志の表明が必ず実現するとして、ご予言・遺命あそばされたのが三大秘法抄です。

 しかるに広宣流布近きを迎えた今、阿部日顕は「国民の総意で」といいながら、敢えて国家意志の表明という厳重の御定めを無視し背いています。これが大謗法の根源なのです

 浅井先生は次のように喝破されています。

 よいか――。たとえ「国民の総意」というとも、そのような漠然たる状態では未だ「国家意志」は成立しない。国民の総意が国会の議決となり、閣議決定となり、天皇の詔勅となって表われてこそ、始めて国家意志は成立するのである。なぜこの「勅宣・御教書」を無視するのか。

 もし天皇の国事行為は制限されているというなら、改憲すべきではないか。繰り返すが、広布の暁なら、これに異を唱える誰人がいようぞ。

 しかるに汝は、池田と同じく現憲法を至上として、御本仏の御遺命を蔑っている。これこそ広布前夜、第六天の魔王が正系門家を壊乱している姿に他ならない。

 日蓮大聖人の究竟の大願たる「国立戒壇」を否定するは、その罪まさに御本仏の御眼を抉るに当る。深くこれを恐れよ。