崩れぬ幸福を築くのは

コロナウィルスを見て考える「崩れぬ幸福」とは?

 ここ最近のコロナウィルスの感染拡大は、凄まじいですね。世界各国の大臣や首相関係者も感染したと聞きます。近々日本でも「緊急事態宣言」が出されるかもしれません。経済崩壊も遠からず事実となるでしょう。まさにいまだかつてない非常事態という感じがします。

 こうなってくると、お金も、地位も、名誉も、人脈も、頼りになりません。これらの災難がいつ我が身に降りかかるか、誰もわからないのです。これまでふつうに送れていた日々が、いかに当たり前ではなかったのかが、よくわかりますね。

 では、このような状況の中で、崩れない本当の幸せを築くには、どうしたら良いのでしょうか?

 その答えは、基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」の中にあります。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

崩れぬ幸福を築くもの=「福運」

 人は幸福への手段・条件として、地位・財産・名声等、もろもろの欲するものを手に入れようとする。だが〝欲しいもの〟が手に入ったら、果たして幸福になれるであろうか。

 結論から云えば、もしその人の生命が濁っていれば、求めて得たものは、かえって不幸の因となる。濁った生命とは、貪欲・瞋恚・愚痴・慢心等に覆われた、地獄・餓鬼・畜生・修羅等の四悪道の生命をいう。

 家を建てるのに、土台が傾いていればすべてが傾くように、四悪道の生命においては、求めて得た幸福の条件が、かえって苦報をもたらす。

 たとえば、欲しくてたまらぬマイカーを手に入れて、取り返しのつかぬ事故を起こすこともある。憧れのマイホームを建てたが、ローン返済に追われて家庭崩壊に至った例も多い。あるいは子宝に恵まれた若い母親が育児ノイローゼになって自殺する悲劇もある。また政治家・官僚・企業経営者が、やっと手に入れた地位・権力により、かえって身を亡ぼす例は枚挙にいとまがない。地位・財産などが即幸福ではないのだ。

 所詮、主体たる自身の生命が濁っていれば、幸福の条件と思われるものがかえって不幸の因となり、また福運が尽きれば、その人の才能さえ幸福をもたらさない。

 大聖人は、強信そして武芸の達人であった四条金吾殿が、絶対絶命の闇討ちに遭いながら不思議にも存命したとき、次のごとく仰せ下されている。

 「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず。乃至、すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」と。

 -もし福運が尽きてしまったら、いかに兵法を心得ていようとも少しも役に立たない。また果報が尽きてしまったら所従(家来・部下)も従わなくなる。この闇討を遁れたこと、不思議と思うべきである。これ偏えに御本尊の御守護である。ゆえに何の兵法よりも法華経の兵法を用いよ。すなわち強き信心こそが最高の兵法なのである-と。

 この仰せのごとく、福運が尽きればいかなる努力や智恵・才覚も虚しくなる。強き信心によって我が身に具った福運だけが、崩れぬ幸福を築くのである

基礎教学書・日蓮大聖人の仏法「第二章 人生の目的と幸福論」

 いかがでしょうか。「強き信心によって我が身に具った福運だけが、崩れぬ幸福を築く」のです。なんとも有難いですね。

今こそ「絶対信」に

 勿体なくも大聖人は、たとえいかに世の中が乱れようとも、健気に信心を貫く弟子を必ず守ると仰せくだされています。

 何(いか)なる世の乱れにも、各々をば法華経・十羅刹助け給えと、湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり(呵責謗法滅罪抄)

との仰せがそれです。なんと有り難いことでしょうか。

 あとはただ、私たち一人ひとりが「絶対信」に立たせて頂くだけです。

仏法を得べき便りあらば身命を捨てて仏法を学すべし。とても此の身は徒に山野の土と成るべし、惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず、人久しといえども百年には過ぎず、其の間の事は但一睡の夢ぞかし」(松野殿御返事)

身命に過ぎたる惜き者のなければ、是れを布施として仏法を習へば必ず仏となる。身命を捨つる人他の宝を仏法に惜しむべしや。又財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨つべきや」(佐渡御書)

 なんとも有難い御金言ですね。こんな時だからこそ、私たち顕正会員は微動もせず、たとえいかなる事があろうとも日蓮大聖人・御本尊を信じ切る「絶対信」に立たせて頂きたいものです。

 もう広宣流布は眼前です。いよいよ恋慕渇仰・不惜身命の「絶対信」に立ち、大確信と用心深さ、しなやかさをもって、広布の決戦場たる20年代を乗り越えていきたいと思います!