実は「日蓮大聖人」を信じていない日蓮正宗の人たち

教学試験がありました

 今年も顕正会伝統の「教学試験」が熱烈に行われました。

 私も後輩と一緒に登用試験の会場へ行きましたが、ロビーにあふれる信心の熱気の凄まじいこと、凄まじいこと!ベンチに座って真剣に学ぶ姿があちこちにあり、尊敬の思いが湧いてきました。

 ちなみに私が連れて行った後輩は、試験前なのに妙にリラックスして談笑していました。「余裕なのかな?」と思いきや、結果はボロボロ・・・どうやら「諦めの境地」だったみたいですね(笑)

 来年こそがんばってもらいたいものです!

日蓮大聖人とはいかに尊く、凄い仏様なのか

 それにしても、今回、私も改めて基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」を学ばせて頂きましたが、拝読を重ねるたびに有り難さがこみ上げました。ことに第1章「日蓮大聖人とはいかなる御方か」を拝読する中に、日蓮大聖人とはいかに尊く、凄い仏様なのか、ということが命に染み入りました。

 この宇宙には、インドのお釈迦様のような「熟脱の迹仏」は、星の数ほど無数にいます。でも、その大もとの仏様、「下種の本仏」は、たった御一人だけなんですよね。

 この「下種の本仏」こそ、何を隠そう、日蓮大聖人にてましますのです。

 「ふーん、でも、お釈迦様みたいな仏がたくさんいるなら、別にそっちでいいんじゃない?」と思われた、そこのあなた!

 実は、お釈迦様みたいな「熟脱の仏」にお値いするのと、「下種の本仏」にお値いするのとでは、まったく意味が違うんです。

 ちょっと難しい話をすると、お釈迦様みたいな「熟脱の仏」は、過去に一度、仏法の話を聴いて、「下種」(仏になる種)を受けた人たちを救うために出てきます。

 「下種」は受けたものの、反発して聞き入れなかったり、途中で退転して信心をやめてしまった人たちは、残念ながら成仏することができません。ちゃんと信心すれば、一生のうちに成仏が叶うというのに、なんとも勿体無い話ですよね。

 そんな残念すぎる人たちを救うために出てくるのが、「熟脱の仏」です。誰もが尊敬するような立派な相(三十二相)をつけて出現し、まじめに仏道修行に励ませて、最後には過去の「下種」を思い出させて成仏させてあげるのです。

 しかし、この修行が、それはまあ大変なんです。難しい、厳しい修行を、生まれ変わり死に変わり、何度も何度も繰り返して、やっと最後に仏になれるというのが、熟脱の仏法なのです。

 それだけ、仏様と同じ絶対幸福の境界、「成仏」を得ることは難しいということです。

 ところが、日蓮大聖人の下種仏法では、なんとわずか一生の間に、誰もが「成仏」を得させて頂けるのです!

 これは、日蓮大聖人の仏法が、宇宙に無数に存在するあらゆる仏(熟脱の迹仏)、そしてあらゆるお経(熟脱仏法)を生ぜしめた根本の法なるがゆえに、その無量無辺の大功徳がことごとく収まり具わっているからです。たとえば、百千の生い茂った枝葉が、ことごとく一つの根におもむくようなものです。

 だから、たとえ難しいことはわからなくても、ただ日蓮大聖人を信じ、「有難い」「お慕わしい」と恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「名は必ず体に至る徳あり」(十章抄)で、自然と体である御本尊・日蓮大聖人に通じ、私たち凡夫がそのまま仏にならせて頂けるのです。

 このとき、現世には宿命が変わって幸せになり、臨終には「成仏の相」を現じ、死後の生命も守られ、未来永遠にわたって楽しく崇高な人生を送ることが叶うのです。なんと有難いことでしょうか。これが「成仏」の境界です。

大聖人の御心に背くゆえに功徳を失う学会・宗門

 ただし、これには例外があります。たとえ日蓮大聖人を信じてお題目を唱えても、もし大聖人の御心に背いて唱えるならば功徳はありません。

 「但し此の経の心に背きて唱えば、其の差別有るべきなり」(松野殿御返事)との仰せを弁えなくてはなりません。

 ここに、いま学会・宗門が功徳を失っている理由があるのです。

 彼らは偽戒壇・正本堂の建立を機に、大聖人一期の御遺命である「本門の戒壇」の教義を改変し、今なお改悔なく背き続けています。親の遺言を改竄する子がどこにいるでしょうか。だから彼らは大聖人の御心に背き、功徳を失い、現世に罰を受け不幸を味わうだけでなく、死後、無間地獄に堕ちていくのです。なんとも不憫ですね。

 特に学会員の方々には、ぜひ騙されたと思って、基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」を読んでみて頂きたいと切に願います。まじめに読めば、きっと「私は八百万学会員を救いたい」との浅井先生の御心が伝わると思います。

実は御本仏を全く信じていない人たち

 また、宗門(日蓮正宗)の人たちは、そろそろ素直に懺悔して、御遺命の正義に立ち還らなければなりません。

 三大秘法抄・一期弘法付嘱書を正直に拝すれば、大聖人が御遺命された「本門の戒壇」とは、広宣流布の暁に国家意志の表明を手続として建立される戒壇であることは明らかです。

 これを歴代上人は「国立戒壇」と呼び、顕正会も「国立戒壇」と呼んでいるのです。

 では、今の宗門(日蓮正宗)はどうなっているかといえば、学会にへつらって正本堂を「御遺命の戒壇(となる建物)」と偽称した大罪を懺悔することなく、未だに教義を曲げたままにしているのです。

 彼らは、今にいたっても「広宣流布」は「日本の3分の1で良い」とうそぶいています。大聖人が「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と御断言されているにもかかわらず、です。

 また、彼らは「いまは『主権在民』だから『国主』は民衆だ」などと恥ずかしい己義を垂れ流しています。大聖人が「国主は唯一人なり、二人となれば国土穏やかならず」(報恩抄)と明言し、戒壇建立の必要手続を「勅宣並びに御教書を申し下して」と厳格に定められているにもかかわらず、です。

 そもそも「主権在民」(一般的には国民主権)というのは、国の「国主」を国民とする原理では全くありません。中学・高校でろくに公民の勉強をしなかった者が、なんとなく言葉の響きから勝手に妄想した稚拙な癡論といえるでしょう。

 要するに、彼らは御本仏・日蓮大聖人の御金言に背くことを、なんとも思っていないのです。時の貫首が「黒」といえば、大聖人が「白」と仰せられていても、何ら気にせず「黒」が正しいと信じ込んでしまいます。これを「洗脳」といいます。

 結局、彼らは日蓮大聖人を信じているようで、実際には「日蓮大聖人」を全く信じていないのです。

 もし「大聖人は生きてまします」、「常に此に住して法を説いておられる」と深く信じていたら、どうしてこのような教義改変を平然と行えるでしょうか。どうして「結局、道理から言っても『国立戒壇』は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」(近現代における戒壇問題の経緯と真義)などと、大聖人が御遺命された「勅宣並びに御教書を申し下して」すなわち国家意志の表明を以て国家的に建立する戒壇を「間違い」などと平然と謗(そし)ることができるでしょうか。

 この許されざる御遺命違背、無道心のゆえに、いま宗門僧俗は功徳を失い、罰を受け、無間地獄に堕ちていくのです。

 また、仏法の正系門家・富士大石寺において御遺命の正義が滅したままでは、日本が亡国を招くことは、「法門申さるべき様の事」の仰せに照らして明らかです。

 ここに昨年7月、浅井先生が早瀬日如管長に対し、早く国立戒壇の正義を宣示するよう直諫された所以があります。

 いよいよ迎えた広布の決戦場たる20年代、「学会・宗門は御遺命に背いたゆえに、すでにその資格も力も失ってしまった。顕正会が立たずして、誰人が大聖人様に応え奉るのか」との浅井先生の仰せを体し、いよいよ力強い前進でお応えしていきたいと思います!